「わたし」VS長生

 去年の冬に引っ越してきたカスミさん、そしてその妹さん。お二人の住まいの周りにはひじょうにたくさんの二階建て住宅が、広い庭とせまい間隔をもって建ち並んでいます。そのためにご近所さん同士で子供のめんどうを見合ったり、食事をともにしたりすることは特別珍しくもありませんでした。

 ご近所さんといえば、今も昔も演芸路家カスミさんちの裏手に住んでいる「長生ながえのおばさん」です。彼女の名を聞けば、わたしども土着の人間はもれなくちぢみ上がってしまいます。彼女は短気で、毒舌家で、こう言ってはなんですけれど女尊男卑フェミニスム精神の強い方でしたから、とくにわたしのような軟弱者にとってはずっと恐怖の対象でしかありませんでした。そんな長生さんが近ごろカスミさんの妹さん――ふりふりの、外国の貴族をおもわせる気高けだか姫装束ドレスに身を包んで、透きとおるような青空色の髪をもち、端整な顔だちをした女の子に、たいへんご執心しゅうしんだといううわさを耳にしたのです。なんでも、孫娘のように可愛かわいがっているのだとか。

 そう聞いていても立ってもいられなくなったわたしは、実際がどうであるのかを確かめようと思い外へ出ました。ちょうど今日は、長生さん所属の町内会主催の(ややこしい……)地元小学校の清掃せいそう奉仕活動ボランティアに参加するつもりでした。小学校までは徒歩20分、終わる寸前から始まる傾斜40度の心臓しんぞうやぶりの坂をのぼってようやく到着です。職員玄関前の石畳いしだたみの駐車場には彼女の車がありました。今年の5月だったような、ある日を境に車椅子の目印マークをつけて走るようになったのです、あの車は。障碍者しょうがいしゃ扶助ふじょも訴えていた彼女は迷わず旗頭はたがしらになったのでしょう。ところで太陽が照りつつも、気候は思いのほか涼しく過ごしやすいものだったので、校舎と接続する渡り廊下から体育館のなかの運動競技スポーツ少年団員たちの声は元気溌剌として聞こえていました。

 長話はこのくらいにして。長生さんがこわい気持ちも少しやわらぎましたから。

 わたしは校舎の玄関側、200メートル競争路トラックのある校庭に向かいます。そこではみな一様に肌着ティーシャツ谷間ブイネック丸首まるくびとで異なりますが)となが穿物ズボン穿いてかがみ込み、文字どおり草むしりを無心でしていましたから、わたしもすぐそのなかにとけ込むことができました。

 ただし、興味本位の若者よりも偏屈へんくつな中高年が圧倒的に多いのがこの町でした。彼らが日かげにむらがってもくもくと草を刈り取っていくことで、若者たちは日なたに追いやられ、雑草ぬけ処理をしながら漫談するのがやっとという構図が手に取るようにわかります。無論わたしも年配ねんぱいですが、途中参加ですし空気を読んで炎天下での作業をえらびました。

「――ふうっ、」

 しばらくすると、そんな気の抜けたため息が聞こえてきたのです。同時に聞き馴染みのある「おにい……」という心配そうな声も。

 わたしが横を向きましたら期待どおり、帽子キャップ、半そでに密着タイトパンツ遊靴スニーカーのカスミさんが女の子をおって草むしりをしている姿がありました。

 しかしわたしは、二人がこちらに気づいていないのをいいことに、声をかけることをためらってしまったのです。

 単純に、彼女たちをとおして見た先に長生ながえさんがいたから、気づかれればこちらに来てどやされると思い声をかけられませんでした。これでは臆病者と言われてもしかたありません。確かに、ご近所さんとのつき合いはとっても大切なことです……けれど、相性のこればかりは合う・合わないがあるのです。だからわたしはびゅんと起きて即座に校舎へと逃げさりました!

 

         ◆


「あれ、いらしてたんですね」

 そう言って、わたしを薄暗い小学校の玄関でむかえてくれたのは、町内会の会長さんでした。ごま塩頭の、わたしよりもっと年輩ねんぱいおだやかな男性です。軽装のうえに土ぼこりで全身をよごしたわたしとちがって男性は、むすめさんに縫ってもらったものでしょうか黄色の、清潔で愛らしい洋前掛エプロンをつけていました。

「ええ。今年は野球部が頑張っているようですから、少しでも力になれればと」

「それは、子供たちもよろこびます」

 男性はひとのいい笑顔で言います。

「ああそうだ。ちょうど、男手がほしかったところなんです。お手数てすうですが、よろしければ」

「構いませんよ」

 わたしは、ぺたぺたと中靴スリッパを打ち鳴らす男性のうしろにつき、とつとつというおもくるしい足音を立てながら廊下を歩いて行きました。

 その手数とは、清掃作業の参加者たちにこのあとふるまわれる、すいかの運搬うんぱんでした。昨日届いたばかりの、南の山のおいしい水で育ったらしい御立派ごりっぱ様は、初老の二人でようやく一個抱えられるほどの重量がありました。道理で一階の家庭科室にご婦人方がたむろしているわけです。それで、さっきまで男手がなくすいかを運べないと言っていた男性が、すると最初から洋前掛をしていた理由は何かと考えましたが、なるほど大玉がさく裂したときのためのものかとつい今しがた納得できました。

「しかしまさか、三玉も用意するはめになるとは思いませんでしたよ」

 重労働から解放されて、少しばかりひたいに汗をにじませた男性はすっきりしたようすでした。

「おや……?」

 と、一方でそのときのわたしの目には疲れも吹き飛ぶおもしろい光景が映っていました。

 それは端的たんてきに申し上げると姫装束ドレス姿の女の子なのですが、車椅子に切り株のような脚で器用に立ちながら、すいかに向かって出刃包丁をこすりつけるのです。わずかに筋肉質な二の腕が見えるまでそでをまくり上げています。けれども包丁を握ったことがないのか、はたまた力の入れ方がわからないのか、なかなかやいばがすいかにとおりません。

 するとそこにあの長生さんがしかめっつらでやってきたものですから、

(ああ、怒られちゃう……)

 ひどくあせりました。しかし彼女が、困っている女の子に対して掛けた言葉は、

「ほぅらユキちゃんっ! あたしがすいか押さえといたげるから。左手で包丁のみねおし込んでぐぐぐぐうーっとそう! いくのよおー!」

 すうっこん、というのがすいかの切れたときの音に近い描写です。まさにこれがしっくりくるほどにわたしのなかでの長生さん像が直後、真二つになっていました。

「……長生あいつ、いつになく楽しそうですよね。あの子のおかげですよ、ほんとに」

「そうですね……」

 急に男性から同意をもとめられたので、わたしはきっとまぬけな返事をしてしまったにちがいありません。自覚してからすぐごまかすように「そういえばその前掛エプロン、とてもお似合いですよ。娘さんお裁縫さいほうおじょうずなんですね」と指摘しました。中央の大きなきじねこがいとおしくて。

 男性はうれしそうに目を細めると、「これ、長生からもらったんですよ。ユキちゃんに贈呈プレゼントしたいって、その試作品を」そう言ったのです。頭が真っ白になったわたしに比べて、男性のごま塩髪は先ほどよりも黒く若々しいものに見えたのでした。

「うん? あなた……」

 と、女の子に夢中だったはずの長生さんは前後無しにわたしを見つけ、ずんずん歩いてきました。そうして、お湯待ちの凍結乾燥フリーズドライみそ汁のように身動きしないわたしの体は、長生さんの牛闘犬ブルドッグを思わせる血走った目つきをまっすぐに受け止めます(まっすぐ受け止めすぎて語彙ごいがおかしくなっています)。

「さっきはどうもー……ところで顔色悪いわね? 何かやましいことでもあるのかしら?」

「い、いいえ……」

 つい今しがたわたしのなかで印象イメージ改変がおこったばかりだというのに、実物を前にするとどうにも声は震えてしまいます。取ってつけたような難くせなど気になりません。

「そう? まあ、いいわ。外の人たち(を)休憩だって呼んできてちょうだい」

 委縮したわたしに遠慮せず長生さんは強気に言い、そして頼みごとついでにわたしの右肩をなでるようにたたきました。正直それがどなられるよりもいくぶん怖かったことは内緒です。

「……ああ。そういえばあなたこのあいだ回覧板1日遅れでまわしてたでしょ」

 張り詰めた声で言われた「このあいだ」というのは、約1カ月前のことでした。

「あなたここに住んで一体何年になるの? わかるでしょ? 回覧板一つで今日の予定が丸つぶれになることだってあるのよ。今日はたまたまうまくいったけど。わかった? 今後はきもめいじておいて」

「……はい」

 それから家庭科室を出た長生さんは、おそらくお手洗いに向かわれたのでしょう。肝に命じられたわたしはその横を颯爽さっそうと走りぬけて、校庭へと出て行ったのです。


         ◆


 それから暫時ざんじ過ぎたころ、気もそぞろに、わたしは校舎の西側にある鬱金香チューリップ花壇のそばですいかを頬張っていました。気も漫ろですから一人で決してなごんでいるわけではありません。また、花壇にいることにもそれほど意味はなく、むしろわたしは、小学生たちが育てたであろうけなげな草花以外のことにたいへん興味をそそられていたのです。

「お疲れ様です」

「ご苦労さん。それにしても今日はいい天気ねえ。ああそうだすいかがあるから」

「本当に。草刈りのあいだずっと乾草ほしくさみたいな匂いがしてー、またいとこの子たちと動物園行きたくなりましたよー。あ、(すいか)ありがとうございます」

 いいとしをしたわたしが隠れている場所の、裏側――そこが一階の家庭科室でした――ではちょうど、一仕事終えてもどって来たカスミさんと長生ながえさんの井戸いどばた会議が始まっていました。

「最近どう? まあ最近って言っても1週間以内には会ってるんだけど」

「昨日なら服買いに行きましたよ」

「へえ。カスミちゃんもユキちゃんもお洒落しゃれだものね」

 カスミちゃん?

「まあでもよごしちゃったんで、今日は据え置きです」

「残念見てみたかったわ。ていうかうちののお古でいいんだったらたんとあるからあげるわよ?」

「本当ですか? それはうれしいなあ」

「うふふ。カスミちゃんにもいくつか見繕みつくろってあげるから」

 洗い物を終えた手をぬぐい、それを口元に当てて笑う長生さん。

 それにしても、カスミちゃんですか……。

「そうだ、さっき虫に刺されたんですよ。ほら、ここ」

 と言って、カスミちゃんはおおげさになが穿物ズボンももまでめくり上げました。するとすらっと伸びる、あるていどの年齢の肌に、おしゃぶりのような噛みあとが残されていたのです。

「あとここも、」

 カスミちゃんは肌着の片方の肩を落として、鎖骨のあたりにも噛み跡があることを見せつけました。こちらとしてはむだに妖艶セクシーで困ってしまいます。

「なんとか隠したいんですよー」

「隠すだけなら留編上衣カーディガンとか。穿物パンツとか」

「暑いし、第一蒸れませんか……?」

「あたしにはユキちゃんに姫装束ドレス着せるほうがこくだと思えるけどね」

「まあ、ですけど……」

「わかるわ。あの子なりのまわりへの配慮なんでしょう? 可愛らしく着飾って愛想あいそうよくして。でも障碍を前提に人間関係があるのならすぐに限界が来てしまうものよ。あの子のためにもならないわ」

 当初、井戸端会議というていを取っていた二人の雑談は、やがて女の子の将来を危ぐするものへと変わっていきました。

「わたしの母親は、ユキちゃんが公然とあしを出すことについて反対していました。世のなか気になってしかたがない人だったし。だから今でも遠ざけているんじゃないかと……」

「そうやって『若い人』は経験論を語りがちだわ。仲間外れになるからとか才能がないからとか言って自分の考えを押し殺す。かと思えば労働アルバイトだのしただけで社会を知ったような気になって。カスミちゃんのお母さんも苦労人なのは知ってるわ。でもね? 胎児こどもは22週を過ぎたらもう人権を持っている。お腹のなかの子が障碍者だとわかったときに出産しない権利はお母さんにある。なぜって産まれてこないほうが幸せってことも悲しいけどあるからよ。だのに今の若い人は社会にあふれてるものが責任やお金ばかりだとき違えをしているの。責任もお金も権利を裏づけるための道具でしかないのによ」

「まあ、確かに、」

「でもそれはあなたのお父さんの方も同じじゃない? 男はいつだってだれとも子供が作れる権利がある。ならはらませてから尽くすものは責任だけでしょ? ちゃんとあのとき二人で話し合っていたらユキちゃんはこんな曖昧あいまいな境遇に立たされることもなかったのよ?」

「それは……っ!」

 こうまで言われて、カスミさんがだまっていられるわけがありませんでした。

 しかし長生さんもただ歳を取りろうけてきたわけではありません。町内会役員や女性の人権活動家として、ご自分の才のできうる限りをこれまで尽くしてきたのです。彼女が一見、傍若無人ぼうじゃくぶじんな物言いをされることも、実際カスミさんのお母様と深い親交があり、まだ0歳だった女の子が養護施設にいると知ったときほかの誰よりも激高していらした当時を考えれば、やむを得ないのかもしれません。

 それでもわたしは、言い出すことは叶いませんが、心のなかで彼女に対し「さっきまでの言葉は撤回すべき」だと確信していました。母親のあやまちにむすめは関係しない権利があると思ったからです。

「ごめんなさい言い過ぎたわ。……でも脚が無いからって知的障碍もあるとは限らないから。ユキちゃんにはきっと勉強したい気持ちもこいがしたい気持ちもある」

「それは、そうですよね。ユキちゃんが、恋か……」

 ――カスミさんは想像したことでしょう。姫装束とはべつの意味ではなやかに盛装した女の子が、見知らぬ誰かに車椅子を押してもらっている姿。笑いかけ、じゃれあう横顔を。

「ユキちゃんは、学校に行きたいって言ってました?」

「(今さら)言えないでしょうね。でも……最初は行きたくない人なんていないわよ」

 そのとき、わたしは不躾ぶしつけなことに「だとしても、彼女は学校に通わなくてよかった」と思い込んでしまったのです。

 障碍者両脚がないということは、善悪のそれ以前に、わたしたちが一般的な「人間」を見るときに必要な「部品」が本人に足りていない・当てはまらないことなのです。すると、あのとき、カスミさんのお母様がおっしゃっていた意味上の言葉が、わたしの頭の横をかすめていきました。

「そうだ。カスミちゃん、」

「はい?」

 包丁を持った長生さんはどうしてか晴れやかな表情を浮かべ、その切先きっさきで他方呆然としているようすのカスミさんを指しました。とても危ないのでみなさん真似まねしないでください。それから長生さんは言いました。

「夜間学級って知ってる?」

「ああ。中学のやつですね」

 夜間中学校とは、やはり第二次大戦により中学校へ行くことのできなかった今の大人たちへ、もしくは外国籍をもち、日本の義務教育課程をおさめていない子どもたちへ向けた教育体制というべきものでしょうか。うらむらくは、わたしに彼らの事情を思い知ることはできないのですが……。

「それにしてもユキちゃんって、何考えてるかわかりづらいとこ、ありますよね。進路とかどうするつもりなんだろ、」

「話したことないの?」

「だって、あの子口べたじゃないですかー。聞いてもいいのかわからないんですよ」

「そう……おたがい大変よね」

 と、長生さんはどこか皮肉めいた口振りで、カスミさんに答えたのです。

「まあどちらにしてもすすめてみてちょうだい。将来のことは若いうちに決めとくのが一番よ。それに……今ユキちゃんの面倒を見られるのは、カスミちゃんだけなんだから」

「……はい!」

 長生ながえさんのはげましともとれる一言ひとことですっかり元気になったようすのカスミさんは、家庭科室の開きっぱなしになった入口へ向かい、「わたし、もうちょっと頑張ってきますね!」と言い残して走ってゆきました。

 彼女を見送ってから、長生さんはすぐに板敷デッキと言いましょうか校庭と一階とをつなぐ建材コンクリートでできた段差のところに、硝子ガラス戸を開けてやって来ます。「あら。どうも」

 そして、わたしと目が合いました。おどろくことに――いや、なんとなくそう思い込みたかったからかもしれませんが、わたしに対して彼女は怒っている雰囲気ではありませんでした。

「盗み聞きみたいな真似させて悪かったわね」

「いえいえ……」

「それにしたってしゃりしゃりごりごり聞こえてるのよ……(恐らく後半は種の音だと)。まったく。空気を読んだか知らないけど勘弁かんべんしてよね」

「すみません」

 わたしは彼女を目前に、薄ら赤くなっているはずの口元を拭きました。「はあ……そのすいかはお気に召したかしら?」と、あきれ顔の長生さんに聞かれます。

「ええ、何せあの子が切ってくれたすいかですから」

「それ。今どき本人のまえで言ったら性的セク迷惑ハラになるわよ」

「おっと、」虚を突かれわたしの右手はすぐにひたいへ。生まれつきのくせの一つでした。しかし主張派の長生さんよりすれば、それさえも今の軽挙妄動の一つに数えられたことでしょう。

「今年はすいかだったんですって」

「ああ、そういうことでしたか」小学生が生活科の授業でそだてる作物のことです。ちなみに一年生が鬱金香チューリップ、二年生が小金瓜トマトだと聞きました。……おや、二つともまんなかに「金」の字を書くんですね。これをみて思い出したのですが、縞々しましま模様に赤い実が特徴のすいかのなかには、黄色の果肉をもつ種類があるということをご存じでしたか? たてに切った南瓜かぼちゃに負けずおとらずの、とても鮮やかな色彩なんです。甘さは少し控えめですが。興味があれば食べてみてくださいね。

「ん? ちょっと待ってください。……三年生って、生活科(の授業)ありましたか?」

 すると、長生さんは「いいや」と、とぼけるように返事しました。

「特別学級の子たちがね。去年は馬鈴薯じゃがいもだったでしょう?」

「ああ……」

 それで、わたしはあのときの長生さんの気色かおいろを目の裏側にめたのです。もちろんまぶたの裏側にはすでに、空色の透きとおった髪の女性がいたのですが。

「どれくらいか昔に、家の窓から女の子が登校する姿を目にした記憶があります。今のように車椅子では無かったはずですが……」

「いいえ車椅子だったわよ。かかりの人が6年間毎日押してってね」

「わたしが見かけた日だけ車椅子じゃ無かった可能性は?」

「知らないわよ。何年前のことだと思ってんの」

 と、わたしは長生さんに叱られてしまいました。

 また気まぐれに振り返り校庭を望むと、女の子がカスミさんや、大勢の大人たちに混ざって草むしりにいそしんでいる光景があります。女の子は上半身に長袖を着、下は(多分借りものの)短穿物ショートパンツとままありえる服装なのですが、どうやら足元にふしぎな道具をけているみたいです。

 白くてまろやか、まるで焼かれる前の膨穀パン生地のような約10センチの両脚にまみえたものは、底が護謨ゴムでできた足袋たびたぐいでした。「洋板敷フローリングの床に裸脚はだしはよくても外仕事ならさすがに痛いでしょ? 町内会のおばさんたちで護謨をって靴下止ガーターっての作ってあげたの」たずねるより先に長生さんが説明してくれましたが、だとしてもきっと両てのひらは小石のあとまみれでした。そのため草は抜きっぱなしで、後ろにかがんでついて来るカスミさんがひっしに回収していました。

「果たしてわたしは、彼女(カスミさん)のように手をさしのべるべきなのでしょうか?」

 そんな思いやりある言葉を口にしながら、わたしは頭では、視野に二人をとらえ続けることしか考えなかったのです。

「具体的にはどうして?」

「それは、何をするのか、ということですか?」

「そうよ」

「わかりかねます……なぜならわたしは、彼女たちを見守るようにおおせつかっただけの、しがない記録係ですからね」

「つまらない答えだこと……」

「しかし、彼女たちはとてもしたたかです。誰に手を借りるまでもなく、たくましく。お母様はそれをわかっていて、ご出産を決意されたのだと思います」

 わたしたちの目指す将来とは、なんでしょうか?

 辞書を引くと「これから先」「ゆき先」というふうに書かれています。わたしも元来がんらいそう思っていました。しかし「行く」と述べるからには、足がなければならないのです。足はだれのものでも構いません。まっすぐに――少々前屈みになっても胸を張っても本当はいいのですが――起立して、きちんと幸福ゴールのあるところに歩いていくことができるのならば、それはだれからもらったものでも正しくあるのです。

 現に、脰位絡毛ポニーテールの女の子にとっての今が、昔の彼女にとっての将来であったなら、こうして日々楽しそうに過ごすことができているのは、最初にお母様から「大切な足」を頂戴ちょうだいしたことのおかげなんじゃないかとわたしは思います。彼女のしたたかさとは、元をたどればお母様の判断はんだんにあったのではないかと。

 空から降るお天道てんと様のまばゆい光に目を細める長生ながえさんへ。「彼女にきっかけをくれたこと、本当に感謝しています」とわたしは言いました。

「わたしは、あの子たち姉妹しまいの関係性が、愛おしくてたまらないんです」

「そうね……」

 長生さんはつよく共感するように、しみじみとため息をついたのです。

「でもカスミちゃんもいいとしだから無理しないでほしいわ。自分の将来のことも少しは……」

「いつだって、彼女の決断けつだんは正しくありましたよ。正しくも、みずからの意思表示としては、大きく間違っていました」

 清掃活動の終了時間まではあと20分もありませんでしたから、わたしは長生さんと別れて校庭へともどりました。

 すでに、中央から、どこを見やっても地面はつるつるです。すみで参加者たちは雑草を入れたふくろの口をめいめい閉じて、駐車場の貨物車トラックまではこぶための荷車に乗せていました。数えるとなんと合計一八台にわたる成果でした。

 まったく、感心したわたしがそこに立ち尽くしていると、あのごま塩頭の町内会長さんがやってきて、「すみません。また、お手伝い願えますか?」とわんぱくな笑顔で聞かれました。わたしは一つ返事に引き受けます。

「さあ……もう一仕事だ!」

 年甲斐もなく息まいてから、わたしの足は人びとのほうへと向かったのでした。


         ◆


 ――7月29日。○○小学校の草むしり。カスミさんとユ……以下略

 ――8月03日。百貨店内で偶然二人と会う。帰り道にプ……以下略

 8月09日。最後に日記らしく。これは、つたなくありますが自分の言葉でつづろうと思います。今さらですが草むしりという行為こういは基本的に、その土地を誰かが使わなければ必要などありません。つまりその誰かのわがままで元々の生態系をこわしてしまうことなのです。しかし、人が生きていこうとするたびにそうした破壊は起こっています。自然は減り続けていくのです。ところで、どうして小学校のそうじていどの話で、わたしは、このようなことを述べなければならないのでしょう? 簡単に言えば、ひまだからです。日常という暇を謳歌おうかしているからです。そしてきっとそれはみなさんにとっても大事な時間なのです。だから、そのなかで考えてみてください。自分のゆき先を。考えてみるだけでもよいのです。この日々にいつかことなる形の結末がおとずれてしまうこと。将来の自分。今はほかのだれかが、かげひなたにあなたの足となってからだを支えてくれているかもしれません。そうして現状に自足じそくしているかもしれません――しかし、一年後もそうして歩いてゆける保証はどこにもないのです。見なおしてみてください。

 今、あなたを立たせてくれている足は誰のものですか?

 今、あなたを歩かせてくれるその足は誰のものですか?

 今、もしも、そのどちらをも自分のものであるときっぱり言えるあなたであるのなら、そう言いきることのできない誰かのために、どうか自分の足を貸してあげてください。

「他人を認めるということは、肯定したり共有したりするのではなく、自分とはまた違う一つの立場として横に肩をならべることである」

 そうしてわたしのこの言葉を受け入れてくださるのなら、あなたはほかのだれより人想いの人になれるはずです。

 伝えたいことはそれだけです。恩人を、待たせてはいけませんから。このくらいで。わたしのしたかったことは、すべて果たされました。ぴーえす・伝えたいこととは別に書くべきことは書いておきましたから、もし不備や理解困難な箇所かしょがあったのなら、ルビを振っておいてください。あと町は遠いですから、来るなら気をつけて。


         ◆


 小学校に行った日の夜のこと。カスミさんは入浴中湯船のなかから、からだを洗う妹に夜間中学校の話を持ちかけました。つとめて陽気な口調で。

「ユキちゃん、中学行ってなかったでしょ? 今どきねえ夜でもやってる中学校があってね。そこにはおじいちゃんもおばあちゃんも、障碍者も普通の人も、とにかくいろんな生徒がいるんだって! どう?」

「……おーに、におにい」

 と、女の子は無視までしませんでしたがふきげんそうにつぶやきました。

 カスミさんはそれに対抗して言います。

「行きたくないのはわかったけどさ、ユキちゃん、これからどうする? 将来何したいとか決めてたりするの?」

「おっ……お、にぃ」

「ふーん……」

 女の子にはぐらかされ、カスミさんの顔もふきげんそうにゆがめられました。また、左肩と鎖骨の間のあぶに噛まれたところが湯熱にあてられたのか腫れあがり、思わず掻きむしりたくなるほどの衝動が起こっていました。しかしそれを無理やり抑えていたので、カスミさんの険悪な表情はよりいっそうひどいものになっていったのです。

「おにっ、」

「どうした? わたしの顔、なんかおかしい……?」

 ふっとカスミさんは女の子の正面にある鏡へと向かいました。次の瞬間、そこへ映し出されたものを目の当たりにして、カスミさんが笑わずにいられるはずもありませんでした。その愉快ゆかいさはすぐにもカスミさん家の裏の家、隣の家、そのまた隣の家へとつぎつぎ広がってゆきます。

 そしておそらく本日、奉仕活動ボランティアに参加した人たちの心をすっかりあきれさせ、同時にすっかりやしたことでしょう。

 このように彼女たちのある平日は日中草を抜いて、長生さん懐柔かいじゅうでわたしのどぎもを抜いて、生き抜いて、終わりをむかえました。まだ22時ですが溜まった家事をすませたいので、もう寝るそうです。明日の髪型にはくれぐれも気をつけてくださいね。「おやすみなさい」





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