カスミさんVS太陽

 きょうの日は、また歩いて東の都市にある市民しみん遊泳地プールへとお出かけしたカスミさんたち。

 そういえば近年、水泳は体質矯正ダイエットにとても効果的だと話題になっています。確かに水泳ははげしい有酸素運動に加え水の抵抗などの影響で適度な無酸素運動にもなりえる競技ですし、はでな露出により緊張感ややる気が増すため継続しやすく、そして異性・同性の体にあこがれることによりやり甲斐がいしょうじ、体質矯正後にも健康意識と体型維持が期待できるなど、たくさんの可能性を秘めているといえるでしょう。0歳児から100歳老まで誰もが利用できることも美点です。

 だ、としても、これからのおはなしに先述の認識は必要ありません。

 単純な場面として、たとえば、しとしと雨の降る日に雨傘をさすように、さんさん光のそそぐ日に日傘をさすように、日常的で不風流ふぶりゅうな二人の姿すがたを想い浮かべてもらえたらよいのです。

 彼女たちはきっと、そんなふうに気の向くままに頭のうえを動き回ってくれるはずですから。


         ◆


「ユキちゃんは家の水槽プール以外だとこれが初めて?」

「おーにお」

 透きとおる頭髪を風に、両脚の無いぶんせいのひくい体を車椅子に揺らしながら、女の子は首をたてに振ります。襞布フリルでふんだんに飾りつけた姫装束ドレスは相変わらず、季節感を感じさせない風貌でしたが、今度のものはいわゆる不見袖ノースリーブで肌の色の白さや筋肉のささやかな盛りあがりなどがすっかり見えていました。

 反対にカスミさんのほうが、虫刺されを気にしてか気温にかかわらず重ね着しているみたいでした。上は綿製でそでが長い糸瓜襟ショールカラー留編上衣カーディガンと、谷間ブイ型の被編中衣セーターによる、素材調和アンサンブル。下は膝丈の穿腰物キュロットスカート婦人靴サンダルいています。こう順を追って描写しただけだとごく普通に涼しげな恰好かっこうにみえるのですが、移動の最中ずっと高温多湿で風もなかったので、案のじょう、顔じゅうが汗まみれになり、若干くろずんだ水色の稍々短髪セミショートがところどころ張りついてきました。しかしどうしてか、彼女自身は一切気にしている素振りをしませんでした。

「だよね。じゃあ好きなだけ、思いっきりはしゃぎなさいよー。何せ、あのおっきな水たまりには何しても、誰からも怒られないっていう魔法がかかってるんだからな!」

「おっにーっ!」

 まことにたくみな言い回しです。

 けれどもしかすると、同調して楽しそうにしている女の子よりもずっとカスミさんのほうが遊泳地で遊ぶことを待望していたのかもしれません。その証左あかしに、彼女の服のもっとも大きな胸の開きのなかから、一度屈んだとき、ほんのわずかにまっ赤な布がのぞいた気がしたのです。


         ◆


 その市民遊泳地には、まず競泳練習向けの大水槽50メートルプール(屋内)と、小水槽25メートルプール、子供連れのお客さん向けの水深がそれほどない娯楽水槽アミューズメントプール(屋外)があり、それから幅広い層のお客さんに向けて運動器ジムマシンも多数設置されています。さらに今は体を動かすにはうってつけの時機シーズンなので、もちろん、どの施設にも大勢のお客さんがあふれかえっていました。

「障害者手帳のご提示をおねがいします」

「あー、はいはい」

 一方で玄関広間ロビーには、しずかな空気がただよいます。人もまばらにいるばかりです。

 そんな状況をんでかあからさまな声量抑制ボリュームダウンを図るカスミさんは、めんどうがりながら腰に巻いた小嚢ポーチからからすの濡羽ぬればのような色の手帳を取り出して、受付のお姉さんに見せました。

「はい。どうぞー」とお姉さんが返してくれたのは満面の笑みでした。

「まったく……」と、カスミさんは対照的になんともしぶい表情を浮かべていました。

 お姉さんに背を向けるやいなや、さらににくまれ口まできはじめます。「生まれつき無いもんを『障害』って……まあほんとうは、それをこうむってるって意味なんだろうけどさ。手帳まで渡されて。なーんか気分悪いよなあ……」

「おぉにい」

「仕方なくなんかない! もうっ、今後こんどから『障害者』かせめて『障碍者』にしとけ!」

 そんなことがあっても、うっすらとくもり空の屋外に出たカスミさんは、薄着で、うれしくて楽しみで仕方がないというようすになりました。

 さて肝心の水着ですが、やはりさっき見えた赤色がそうでした。ただ残念なことに胴体とももおおい隠すようなそれでいて輪郭のわかりづらい若干羞恥タンキニなのです。これは水縁上衣タンクトップ状の上着と下衣ボトムスが別々になった婦人ふじん志向しこうの水着で、一般的なものは下着キャミソール股布パンティーを合わせたような形なのですが、上衣の丈を長いものにしたり下衣を腰物スカート穿物パンツにしたりすることで、からだの気になる方やご年配の方も安心して着用できるしろものになります。カスミさんも花柄をあしらった赤の上衣に穿物型の下衣を着ていました。

「ユキちゃーん! 早く来なよー」

 カスミさんが声高らかに言いました。すると女の子は屋外水槽の出入口からにゅっと、前のように浮き輪を引きずって歩いてきます。すみれ色をした、貫頭衣ポンチョ型の上衣に下はひもで結んだ羞恥ソングを着て、女の子はとても魅力的ないでたちでした。

 ひとまずこれで準備は万全。と、思いきや、カスミさんはどうにも得心できないという目で女の子をにらみつけていたのです。

「あのさ……さっき競泳水着わたしたよな? お古のやつ」

「おーにいっ」

「知らないわけないでしょ。……まあいい。小水槽にじゅうご行くぞお」

 カスミさんは心から女の子の競泳水着を着た姿を見てみたいと思っていたのでしょう。煮え切らない態度でしぶしぶ、女の子を水際プールサイドにつれて行きました。

 小水槽には、大きく分けて熟達者じゅくたつしゃ進路コースと初心者進路の二種類があります。ですが当然、女の子はそちらにしか入ることができません。範囲レーンの使用については、脚の有無を問われるのではなく、彼女の純粋な泳力が必要とされるからです。

「きゃあっ! つっめたーい!」

 と、カスミさんが猫なで声と可哀かわいらしい仕草で、冗談みたいに周囲の若齢恋仲カップル親子ファミリーの失笑をさらったところで、やにわに女の子は水に入ろうとしていたみじかい脚を引っ込めてしまったのでした。

 カスミさんは頭に疑問符をうかべながら、女の子のほうを振り返り言います。

「怖いのか? ほら、大丈夫、下にちゃんと赤台敷いてあるから」

 しかし女の子はふるふるとかぶりを振っていました。

「うーん……それじゃ、これならどうよ?」

 と言って、安心させるように胸のまえで両手を広げます。

 それを見て女の子はだまりこみました。たとえ浮き輪なんてあったところで、赤台の水底みなそこに脚を突くことは叶わないと知っていましたから。女の子は頭から脱いで、ほうり投げました。次の瞬間にはカスミさん目がけてのまま飛び出したのです。

 ばっしゃーん! しぶきを立てながらも、カスミさんはちゃんと女の子を受け止めきりました。

「おお。頑張ったねえ。じゃあ、次は水に慣れる練習だなっ!」

 と、隙間をあけず女の子を右手に持ち変えたカスミさんは、ほうり出された浮き輪をまとにして、その子を力いっぱい投てきします。ざざーん!

 見事女の子は浮き輪の穴に(お尻から)はまり、さらに勢いあまって大波を起こしたのでした。カスミさんはそのようすを見てとてもむじゃきに笑っていました。

 それから女の子は二度ほどちゅうを舞いましたが、途中までなんのおとがめもありませんでした。三度目でようやく監視員の警笛ホイッスルが、満天の雲を揺るがすほどに甲かん高く鳴らされたのです。まもなく、昼休憩を知らせる掌鈴ベルの音が遊泳地プール一面にひびき渡りました。監視員のお兄さんに注意された二人は誰より先に水槽脇プールサイドへ、今さらどうにもならない好奇の視線をはばかるようにすみへと移動せざるを得ませんでした。

 お昼の休憩は1時間もすると終わりましたが、範囲コース着々ちゃくちゃくと戻っていく利用者たちを遠目に、カスミさんは地面へ座り込んだままでいました。他方で女の子も向こうの水面をぷかぷかたゆたっていました。しかし、カスミさんはずっとながめることしかしなかったのです。

「やっぱ、持って20分前後か。塩素えんそ過敏アレルギーなの、ユキちゃんに言うべきだったかな……」

 カスミさんは苦しげな目つきでおでこを押さえつけます。

「あの……大丈夫ですか?」

「む――」

 カスミさんは1秒して、自分が誰かから声をかけられたことに気がつきました。

 さらにそれは聞きれた女の子の声ではなかったのです。至極当然カスミさんの見上げた先に、うら若い男性が心配して駆け寄って来てくれていましたから、気まずくなるのも仕方がありませんでした。

 男性は、ともすると高校生にも見えてしまう20代前半くらいの容姿でした。髪はげ茶、肌は小麦色で、体つきも割合わりあいがっしりとしていましたから、何かの運動競技スポーツ選手みたいに第一印象はだれの目にもうつりました。

 カスミさんは「大丈夫です」と返しました。男性は「でも、肌がれてるように見えますけど……」と不安をさらに上塗りしたような顔つきになります。よほど気をつかってくれているのか、男性はそのあとだまってカスミさんの横に腰を下ろしました。

「何を隠そう、わたしは塩素えんそ過敏症アレルギーなのでして、」とカスミさんは男性に目を合わせることなく説明します。

「ああ。なるほど……遠くから見たとき、最初は全身まっ赤な如意着タイツなのかと思いましたよ」

「ばかにすんなよ、少年……」

「ははっ、いや……」

 カスミさんの肘に小突かれて、男性ははにかみ笑いを浮かべました。

 それからしばらく、二人が無言でいるあいだに天気はよい方向にむかっていって、5分もすると灰色の雲間に陽光が差したのです。

「晴れてきた……」

「そうですねー」

「こっち(皮ふ)もはれてきた……」

 揃って、のんきに空を見上げていた二人のもとに強風が吹きつけます。

おれ、上着取ってきますよ」

 と、とっさに立ち上がった男性に、カスミさんは何も声かけしませんでした。更衣室にある自分の服を取りに行った彼はすぐに走って戻って来ました。そして手に持った青の帽付上衣パーカーを、カスミさんの赤にふくれた肌の上からかぶせてくれたのです。

「ごめんね……」

「それはそうと、過敏症なのに、どうして?」

「最後に(公共の遊泳地プールに)入ったのが小学生だったから、もう大丈夫だろって思ったんだけど……だめだったみたい」

「お風呂とかどうしてるんですか?」

「その聞き方はさすがに、悪意あると思うんだけどな……」

「あっ……すみません」カスミさんににらまれた男性は即座にあやまりました。確かにさっきのは、女性に対して礼儀を欠いた質問だったかもしれません。即座にそれに気づき謝罪した彼は誠実です。その潔白さをカスミさんはみとめてあげて、笑いかけました。

「いやね、これには程度のちがいってものがあるのよ? 水道なんかは飲み水にもなるくらい、最低限の塩素しか入ってないのに比べて、いろんな人が風邪かぜきんとか持ち込む遊泳地プールはまさに塩素漬け状態なわけ」

「なるほど」

「だ、か、らっ、お風呂は毎日入れるのよっ!」

 カスミさんは念を押すように声を大きくしました。

 男性は苦笑するしかなかったでしょう。

 何はともあれ、そのあとも二人は歓談していました。

 しかし途中で、男性が目前のしつこいおさんから目線をはずし、水槽のほうを見たのです。追ってカスミさんも見ると、男性のお友達らしき四人組がこちらに手を振っていましたから、「呼ばれてない?」と素直に聞きました。

「ああいえ。実は俺、あいつらに、誘惑ナンパして来いって言われてて、」

「はっ? わたしに?」

「えっ、そうですけど、」

「あの子じゃなくて?」と、カスミさんは連れ立った女の子を引き合いに指さしましたが、

「うーん……」

「うちの妹なんだけど」

「そうですか……」と、男性には難色を示されてしまったのです。

「どうして? って、やっぱり、脚か?」

「そうですね……それも、あるかもしれません」

「……そっか」

「あ! でもっ――」

「ほんと、あの子にもいつか、彼氏とかできてくれるのかな……」

 肩を落として、憮然ぶぜんとした顔つきのカスミさんはぽつりと口にしました。さらに、男性の心配りをさえぎってなおも彼女の不満あるいは不安の口ぶりの戸がつことはありませんでした。

「ユキちゃんってけっこう美人だけど、姫装束ドレスしか着ないし。そりゃ美的才覚センス無いわたしのせいでもあるよ? 使ってる言葉も、教えてないからだけど、やっぱ子供っぽいしさ。どんな男が趣味タイプかって話も聞いたことないなー。独身のわたしに気いつかってんのかねえ……ね、どうしてだろうね?」

「えっと、その言い分だと『全部お姉さんのせい』ってことになりそうですが」

 それを聞いて、カスミさんは固まってしまったのです。考えてみれば、これまで自覚していなかった欠点を、ほかの人に指摘された(傍目八目おかめはちもく盤上そのばの状況は部外者が一番よく知っている、という言葉もあります)ときのおどろきと恥ずかしさといったらありませんから、彼女はすぐに顔をそむけました。

「……そういえば、さっきはなんて言おうとしたのよ?」

 くるまぎれに話を蒸し返すカスミさんに対して、男性はひどく楽しそうにしながら言うのです。

「あー、それは……かわいいな、って言おうとしたんですよ」

 思えば、とてもずるい一言ひとことでした。男性に、カスミさんは笑顔で向きなおります。

「でしょ?」

「はい。あとなんていうか神秘的で」

「うんうん!」

「でも、そうですね……かわいいけど、なんとなく好みじゃなかったですねー」

「……ぷ! ああそっか。青春してるなー」

「むしろ、お姉さんはどういう人が好みなんですか?」

「むしろってどういうことよ……」静かに、カスミさんは男性をにらみました。

「このまま帰ったら俺、針のむしろなんで」

「なるほどね。掛けたわけね」

「はい。掛けました」

「ちなみに今のさぶ洒落ギャグで君は候補から外れたわ」

 と、カスミさんはもとの中空に目を転じたのです。「ええ、そんな……」と、男性。

「まあね……たぶん、そもそもだけど、わたしは男ってものにほとほとあきれてるんだと思う」

「どうしてですか?」

「そりゃあ周りに浮気よけいしかいなかったからでしょ? 結局ね、いっしょにいたいと思わせてくれる相手がかならずしも異性である必要はないんだよ。慕情ぼじょうだとも限らない。他人の受け売りなんだけどさ、いとしさは感じて伝えるもの、あいは感じてはぐくむものなんだ」

「えっつと……つまり?」

「君はわたしに、いっしょにいたいなーとか思わせられなかったってこと。だいたい誘惑ナンパって言えること何もしてないのにそれで、いや、されたとしても一足いっそく飛びに交際までいくわけないじゃないの」

「ぐさっ。な、なかなか言われますね……」

「まあね。だって大人オトナだもん?」

 カスミさんは立ち上がり、男性に借りていた上着を脱ぎました。「ごめん、これ濡れちゃってるね」「気にしないでください……」男性も、それで誘惑の沙汰止さたやみを知って水際プールサイドへと戻って行ったのでした。

 1時間後、カスミさんは女の子と着替えをすませて施設の外に出てきたとき、ふたたびあの男性を目にしました。けれどさっきまでの堅実けんじつそうな青年は一体どこへやら(なんて、失礼ですが)、男性は元の茶髪につけ加えて洒落しゃれためがねと、左耳に大きな太陽ピアスをつけていたのです。周りの四人のお友達たちも似たり寄ったりの恰好でした。

 それでもカスミさんは動じずに、車椅子を押して彼のもとへ行こうとしましたから、男性のほうはさぞや嬉しかったことでしょう。結局、仲間に茶化ちゃかされたくなかったのか、彼みずから近寄って来てくれたのです。

「どうも……」

「あー。こちらこそ、さっきはどうもー」水際とはうって変わりカスミさんは、軽薄なあいさつで迎えました。「どやされはしなかった?」

「はい、おかげさまで」

「別にわたしあ何もしてないけどね」

「いえ、とても大事なことを教えてもらいましたよ。『いっしょにいたいと思わせてくれる相手が必ずしも異性である必要はない』、きもめいじておきます」

 男性は達観たっかんした目つきでカスミさんと、それから女の子を見つめて、言ったのです。

「ついでに考えたんですけど、世に言う男女交際が必ずしも結婚につながっている必要もまたないんじゃないかって」

「はーん……それってさ独身者へのいやみか何か?」

「あっ、いやそんなつもりは……」

「もういいよ。早く帰りなー」

 カスミさんに呆れられると、男性はしょんぼりしてしまいます。

 するとまるでいやしを求めるように「ばいばい、ユキちゃん」と、車椅子にのって姫装束ドレス肩布ショール羽織はおる女の子に手を振っていました。けれどさすがに女の子が初対面の男性に手を振り返すことはありませんでした。男性はしょんぼりしたまま帰りました。

「なんでこう、男ってユキちゃんを子供あつかいしたがるかなあ……?」

 それはたとえどれだけ思案したとしても、カスミさんやわたし、そして当の女の子自身にも理由のわかりそうもない事柄ことがらでした。だからきっと道中、彼女たちの首は右がわに曲がりっぱなしになっていたのです。


         ◆


「ユキちゃん、綿棒タンポン切らしてるじゃん」

 これは、遊泳地プールを出るさいに更衣室で、カスミさんの言ったことばでした。そして同時に今から彼女たちが百貨店デパートへ向かうための発端でもありました。

 女性の生理用品というと、お恥ずかしながらわたしには経血処理紙ナプキンしか思い浮かばないのですが、おどろくべきことに、カスミさんいわく体内に装着そうちゃくする綿棒タンポンであれば生理にかかわらず水泳や陸上競技などの運動スポーツもできるそうなのです(当然、そのていどには個人差があります)。すると、直前に使ってしまいましたが、女の子が小物鞄ハンドバッグに綿棒を携帯けいたいしていたことにもうなずけます。

 ところで女の子はどうして、自分に生理が来ていることも承知のうえで、なおかつ空のくもり気温が低く、人混みもあるこのような日に遊泳地へ行くことを受け入れたのでしょう?

「なあ、ユキちゃーん……今さらだけどさあ、やっぱり他の日にすればよかったんじゃないの? 水槽プールは逃げないでしょぉ……」

 百貨店内にある薬局の生理用品区画を、車椅子とともにめぐるカスミさんは、けだるい声で目下の女の子にたずねました。どうやら今日こんにち遊泳地へおでかけしようと提案したのは彼女の方だったようです。ただしそでなし姫装束ドレスの本人は顔色を見るからに貧血ぎみで、脰位絡毛ローポニーも塩素焼けしたようにくたっと椅子のもたれにからまってしまっていました。ですから返答は期待できません。

 カスミさんはてきとうなたなから綿棒の商品パケージを手にとって、女の子に見せました。

「これ、けっこう処理とかめんどうだよな。自分でいつもやってんの?」

 ふるふる、と女の子は首を横にふります。

「そっか、」

 すると、やはりどうして彼女はひどい生理痛に慣れない対処をしてまでも、この日を選んだのでしょうか。「なあ……そこまでして、本当にユキちゃんは、遊泳地プールに行きたかったのか?」

 ぶんぶん、と女の子は頭を縦にふります。

「どうかなあ……」

 たとえ青い顔をしていても女の子は全力で意思表示をしてくれました。しかし、そのときのカスミさんは心からこたえることができませんでした。なぜならば、女の子の気持ちのなかに、その優しさを他人に理解されようとする意志が見えなかったのですから。


         ◆


 きっと、生理による貧血や頭痛でよわっている女の子を元気づけるためなのでしょう。

 夕方カスミさんは女の子を百貨店のなかにあるお鮨屋すしやさんに連れていきました。一方でその手元にはお夕飯ゆうはんの買い物もしてあったのです。だから本当にたんに、カスミさんは女の子を心配する一心でこのお店に立ち寄ったのでした。

「気にするな、じゃんじゃん食えよ!」

 その言葉にこたえ女の子は赤身のマグロ牛肉ローストビーフ巻きなどを10皿ぺろりと平らげてしまいました。

「おーにいー……」

 お腹がふくれたおかげか女の子の顔色は、遊泳地プールで遊ぶまえよりも安らかなものに見えます。

 だから、気分転換に、カスミさんは向かいあわせの家族ソファせき甘生姜ガリまみながら女の子に言いました。

「なあユキちゃん、遊泳地のにいちゃん(は)どうだった?」

「ぉにい?」

「何って、ユキちゃんの意中タイプじゃなかったのか?」

 と、カスミさん、身を乗り出して聞く。ついでに間八カンパチの皿を取り、醤油をつけ、口に運ぶ。

「におにお」

 と、米人仕草ボディランゲージでカスミさんに否定の意をみせる女の子。なごり惜しげに割箸わりばしわえている。

「じゃあどんなのが趣味タイプだってのさー」

「おにににい、おーにおー」

「ないわけないでしょ! もおいいこの話盛り上がらないわ、会計しよ……ぁ、ああっ!」

 と、財布を出したカスミさん、中身をみて声を上げる。

(どうやらお金が足りないらしい)

「どうしよう……」

 カスミさん、頭をかかえている。おおよそ脳内には、えんえんと皿洗いをさせられている想像。

 ――彼女たちがそういう事情でしたから、少し後ろのボックスせきにちょうどいたわたしが、声をかけるながれとなったのです。

「カスミさん。こんにちは」

 わたしは、自分の伝票をもって彼女たちの席に行きました。

 すると不安な顔のカスミさんはすぐにもわたしに気づき、まるで神さまでもおがむように「ああ、助かった!」と言われたのです。もうすでにわたしが支払いをする結果が、お皿洗いの妄想のかげにはあったのでしょう。

 ところで、先ほど一部(身を乗り出して~させられている想像まで)文体が脚本きゃくほんチックになっていたことには、気がつかれましたか。……定型ト書きになっていますね。もっとも、それはわたしが文筆に不慣ふなれだったせいではありません。冒頭にも書きましたとおり、彼女たちの不風流ふぶりゅうで、生活感あふれるさまをえがきたかったからなのです。右記みぎのものはこの目で見た確かな動きにほかなりません。すると遊泳地での話は、このあと帰り道でカスミさんから聴いたことをもとにした、わたしの創作ということになります。

 さて、お鮨屋さんでの偶然な出合いの話に戻りますが、彼女たちからあとちょっとだけお腹に入れておきたいとかわいげにお願いされたので、(さらに、仲良くなれる機会でもあったため)わたしは自分の好きな二貫ネタ厳選10皿をおすすめしてあげようと思ったのです。……厳選と言いつつ10皿なんて、少しよくばりでしょうか?

「けっこう回転ずしとか来るんですか?」

 カスミさんに聞かれ、わたしは「いいえ。でも、たまには奮発ふんぱつしないとね」とあいそう良く笑いかけます。彼女は、お金など皮相的見かけ上の価値に左右されないという素晴らしい性格をしていますが、やはりここは、きっぱり言っておくべきだと考えたのです。

「へえー。わたしのほうは、ユキちゃんに無理させちゃったからそのおびというか、そんな感じです」

「なるほど……確かにおすしなら、みんな元気になりますものね」

(無駄づかいはだめですよ!)

 言葉は心のなかに反響はんきょうしただけで、決して口に出せませんでした。お母様すみません。

 そういう謝罪の気持ちと、ざっくばらんなカスミさんに色々なものごとの奥行きを知ってもらいたい一心で、わたしは食卓の上の注文ちゅうもん画面モニターを操作していました。

カレイ……イワシ……白子シラス……鯣烏賊スルメイカ……鯡卵カズノコ……小鰭コハダ……タイ……伊佐木イサキ……金目鯛キンメダイ……烏賊イカ

 カスミさんが順々に読み上げます。ですが、なんといじらしいことに、彼女の隣に座りなおした女の子も、せりふのお尻を追うように口をぱくぱくさせていました。

「全部白身っすね……」

「ええ。この老体に、あぶらっこいものは厳禁ですし」

「ふーん……そうですか!」

 と、カスミさんはなんとはしに作りものっぽい笑顔を浮かべ、すぐさま回転台から大きな鬢長鮪ビントロを取ってみせたのです。

 そのあと彼女が見せてくれた、お鮨をほおばったときの無邪気むじゃきな表情は、簡単には忘れられることができません。

 そして、東の都市から、わたしたちの住居に帰る道の途中。わたしに、カスミさんたちが遊泳地プールで起こった出来事を話してくれた、まさに直後のやりとりです。

「おにい!」

「ほらね。こうやってごまかすんですよ。なんで生理中なのに遊泳地プール行きたいって言ったの!」

 しびれを切らしてか、質問するカスミさんの声からは怒気さえ感ぜられました。

「まあまあ……考えてみれば、カスミさんは人間関係に少し弱腰よわごしな部分がありますからね」

「そんなことないですよ! このまえだって町内会の、」

「わかっていますよ、頑張っていることは。人間ぎらいではないですものね」

 当たりさわりないようにはっしたわたしのその一言が、会話の打ちめとなりました。

 結局、女の子が予定と体に無理をいってまでも、カスミさんを遊泳地にさそった本当の理由はわかりませんでした。もしかするとカスミさんの体型を心配していたのでしょうか。いつかは大勢の人のまえで、堂々と勝組ビキニになれるように――――なんて、真相はいとおしいお節介せっかいだったのかもしれませんね?





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