10(テン)
屋鳥 吾更
ユキちゃんVS河洲蔵
「海だあーっ!」
と、快晴の空に負けずおとらずの、優美な色の髪を風になびかせながら。
満足するまで両うでを広げて。しかし水にはいったとたん「きゃっ!」という気の抜けた高い声を上げて、おどろきます。「つめたーい!」30代を目と鼻の先にとらえていることもすっかり忘れて、そうして思いのままにはしゃいでいました。
そこにもう一人、長身の男性があらわれます。逆光で顔はまあるい形しかわからないのですが、
するとその瞬間に男性はカスミさんに近寄ってきたのです。「あ……」カスミさんの
「――ん」
どうしても、
つまり、ばっちりと目が覚めたわけですから、それまでに自分の見ていたものが「夢……」なのは明白でしたし、何より現実にくちづけを交わしたのが「キューピーちゃんっ!」だったことに驚かないわけにもいきません。
もうどの地域でも、とっくに7月の頭のむしむしとした気候はそこかしこ満ちあふれており、カスミさんは寝間着に色つきの
さあ、主役の登場です! と、いわんばかりのそれは大掛かりな演出でした。こっそりと、カスミさんの荒肝を
「ユキちゃん、」
寝台からカスミさんが名前をよびます。
その女の子は、カスミさんよりもずっと色素が薄く透きとおった空色の髪の毛をお馬さんの尻尾のように後ろに垂らした髪型をしていました。顔つきは、ずっと小さな子供みたいでした。両方の二の腕はそこはかとなく筋肉質に見えましたが、やはりからだつきも
「何してんの……?」さらに女の子は下着とさほど大差のない水着の状態で立ちつくしているのです。
上半身とおなかの辺りに白の
ただしカスミさんはいまだ寝台の上にいながら不満そうな顔を浮かべています。決して、女の子の
「「…………」」しばらく黙ったあと、カスミさんのほうから動き出すと、女の子のほうはまさに脱兎のごとく階段へ駆け出したのです。カスミさんは寝台を下りて足元の意外に硬い素材でできたキューピーちゃんにつまずき大きく転倒していました。廊下に出ると、浮き輪をつけたままでこれも廉価材の
一階の玄関先まで来ました。女の子は鯱を乗り捨てると俊敏な動きで、浮き輪を引きずりながら、両手だけで器用に走ってゆきます。
もちろん今も上下肌着しか身につけていらっしゃらなかったので、そのまま飛び出したとき、わたしの家の二階の窓からでも彼女の余裕なさげな表情がよくわかりました。カスミさんは恥ずかしがるのとはべつに自分のお家の庭へ戻られました。
「掴まえたぞっ! 人の水着で勝手しやがって!」ついにそう叫んだときです。カスミさんは、予想外に用意されていた、水を
「ぶゔぃゔあっ(ユキちゃん)……」
カスミさんは恨みがましいようすで縁側のほうを見つめていました。間もなく、女の子は腰布の中からいように短い脚が
「もうっびしょ濡れになっちゃったじゃないの……」
けれどもとっくの昔からはしゃいでいた女の子は、カスミさんの小言なんてどこ吹く風の笑顔を浮かべているのです。
結局、二人とも水遊びをしました。
問題はそのあと――寝間着用の
「……うーん、やっぱりユキちゃんにも、
つまり「このままじゃ、」女の子の洋服事情が「どれすだんすだ!」という重大な
それから独り言をされてカスミさんは「よしっ!」と気合いが入ったのか、あっという間に女の子の本日のどれすとその他の衣類を決めました。ところが、
「あれ? ここ、なんか
一度、一階の居間にいる女の子にその洋服を持っていきます。
「ユキちゃーん、」
「おに?」
「や、服のここ解れてんだけど、なんでか知らない?」
と、カスミさんは
「おにい」
女の子はこう答えるばかりでした。
「……おにい?」どうしてか、女の子は合点がいっていないような顔つきと目つきで、
◆
カスミさんたちが
「しかし、なんでこんな、裾のとこばっかしよごしてんだろな……」
帽子をかぶった女の子が乗る車椅子を手で押しながら、カスミさんは言いました。
「そんなに普段は、運動する
「おにいっ」
女の子はとてもカスミさんに懐いていましたが――今しがた、彼女の目視した
「あっこら!」カスミさんの制止も聞かず、すぐさま椅子を降りると女の子は、
「おっwhおにいいいいいっ!」
そう
「原因はこれか……」
ここでカスミさんは、女の子に
◆
新居で暮らし始めていまだに半年程度の彼女から言われてしまうのは、15年来の住人として気が引けるので、代わりにわたしが申しますと、この町におけるわたしたちの住居の立地はまさに最悪です。東に
だからといって、公道をのぞいてそこらじゅうに田んぼが広がっているということもありませんでしたし、むしろ
……なんて、ちょっとした話をしているあいだに、どうやらカスミさんたちは東の市の百貨店の目前まで、徒歩30分をかけてやって来ていました。愛さえあれば何もかもうまくいくということでしょうか。そう思わざるを得ません。
「ここの服屋は各階に分布してるのが玉にきずだよなー」
汗だくのカスミさんは店内に入るとまずさきに最寄りの
そこで、カスミさんは女の子に言いました。
「ユキちゃん、ちょうどいい機会だし、今日は一人で買い物の練習しないか?」
「おにい……お?」
「急にどうしたのってそりゃないよ。もう16歳(いいとし)でしょ。ユキちゃんくらいのとしの子は、普通学校帰りに一人で買い食いしたりするもんさ。だから今日は練習ね」
「おにいぃ……」
「ぶつくさぶたくさ言わないの! ほら1万」
カスミさんはそのままでお財布に手を伸ばし、
「そんじゃぼちぼち買い物行ってくるんで、ユキちゃんのほうは涼みながらてきとーに選んどいてねー」
カスミさんは手を振りながら離れてゆきます。
「あっくれぐれも、ふざけた衣装買ってこないように! ねー」
カスミさんは行ってしまいました。その場に取り残されて、女の子はようやく「おにい……」とつぶやきました。しかたなしに女の子は一階に気を引かれるような服屋がないことを確認して、それから、混雑のなかの
ましてや洋服選びなんて、自分を見てくれるほかの誰かがいなければ、そうそう楽しむことはできないでしょう。女の子はいちばん雰囲気のよさそうなお店に入りましたが、5分経過しても10分経過しても、どの服をも手にとることはありませんでした。
「――何かお困りですか?」
後ろから、唐突な声がしました。
女の子がびくっと肩をこわばらせてそちらを見ますと、なんともおしゃれなお姉さんが身をかがめて女の子を見つめているのです。
お姉さんは、真珠をそのままあしらったような
つまり、なんともおしゃれだったというわけです。
「まあ、なんて素敵なお召しもの! でも少しばかり今の季節では暑苦しく感じませんか? よろしければわたしが、お洋服選び、お手伝いいたしますよっ?」
化粧のばっちりきまった笑顔は女性としての美しさを最大限まで演出していました。
「おにい、」
きっと、女の子は考えたはずです。このお姉さんに手伝ってもらえば、カスミさんが褒めてくれるような服も簡単に見つかるはずだと。しかし
女の子は気の引けたようすで眉尻をつり下げ、お姉さんを見返します。
「お、おにいー」
それから女の子は露骨な愛想笑いをしてその場を立ちさろうとしました。けれども、すでに車椅子の後ろの
「婦人服はこちらになりまあーす」
「おー! にいーっ!」
いやおうなしに連れていかれました。
「どのような服をお求めですか?」
「お、おににい、」
「動きやすいもの……わかりました。お客様は
「おー……」
「よく見るとお客様、くびれがとても綺麗ですね。特にあばらの下辺りが……何か
「お、おにい」
「されてない? そうですか。でもせっかくですから
「にー」
「あ……」
と、今まで女の子の脱衣と服選びを手伝っていたお姉さんは、ようやく下半身の
一瞬のうちに、お姉さんは顔をしかめました。
女の子のものは
どうしても、お姉さんは胸もとの焼け
そのときです。「ユキちゃん?」背後の声とともに、更衣室の
「あの、お連れ様で……?」と、お姉さんはカスミさんにたずねました。
「あー……すみませんうちの子が」と、カスミさんは状況を察知したようにきまり悪い表情を浮かべます。
「ほらユキちゃん。さっさと会計して、お姉さん解放してあげなさいよっ」
「おにい……」
女の子は満たされないようすのまま、お姉さんに勧めてもらった服を脱ぎ、更衣室をあとにしました。そして、お姉さんが想像したとおりのさまで
「あんたねえ、そんなんじゃいつまで経っても買い物できないわよ?」
「おにっ……」と、一方カスミさんの言葉にはぶっきらぼうに返事をしていました。
「あっでも、その服かわいいねえ……あとは
「ち、ちょっと待ってください!」
カスミさんは、お姉さんのそのひっしな声にふり返りました。お姉さんは
「あの、えっと、
お姉さんに言われて、カスミさんと女の子の二人は顔を見合わせます。考えていることはきっと同じでした。
「じゃあそれで」
カスミさんたちは買い物を終えるとすぐさま
「そこ(行きつけの喫茶店)で、なんか
「おにいー!」
と、女の子は大賛成のもようで声を上げます。
喫茶店は隠れ家的にこぢんまりとした内装をして、主に紅茶や珈琲をあつかっているのですが入口から奥に行くと八畳分の
カスミさんは頭を上げるとふたたび、器のうえの模様が綺麗な
反対に女の子は焼き目鮮やかな
「そんなに
「おにいっお!」
「そっか。うまいかー」
すっかりカスミさんはだらけてしまいました。もっとも適気温と足元の
(ゔうぅぅぅぅぅ)
「どうした?」
たいへんにへんな音がしたものでカスミさんは驚き、とっさに女の子を見ましたが、度しがたいほどに彼女は特徴のない表情でいました。
実際、
「何?
『今から、ど?』
「あー……わかった。行きたくないけど、行くよ」
『そっか。待ってるね』
ほんの数秒間耳に当てただけで、携帯電話は何も言わなくなっていました。カスミさんは耳から離した液晶画面をしばらく見つめます。もちろん、目線の行き先には「通話終了」の文字しかありませんでしたが。
「ユキちゃん。今から駅行くよ」
しかし、女の子はきょとんとしています。
カスミさんは冷ました
「おっおーっ」
行くよ、とそう言ったのでしょうか?
わかった、とカスミさんも立ち上がって、お会計を済ませて、二人で駅へと向かいました。
◆
病室から、その外を、カスミさんのお母様は目の下の大きな
寸刻ののちに部屋にはカスミさんがやって来たのです。カスミさんはあいさつもなしにお母様の近くにあった椅子をとり座りました。大人びた外見に似つかわしくないぶすっとしたようすを表面に張りつけています。
はじめに声を発したのは、カスミさんのお母様でした。
「あの子、随分すなおに笑うようになったのね」
それは女の子についてのことです。お母様が
「……あの子の笑顔を見ていると、とっても元気になるの」
「
「いや。
「心にもないこと言うなよ……」
カスミさんはついにため息をこらえきれませんでした。
「でも、あの子まえに来たときには脚を見せたがらなかったでしょう?」
「それはあんたが
「あんなに大胆にしていれば、誰でもそうするものよ」
お母様は少しの悪意もなさげに、また、少しのためらいもなしにおっしゃっていました。先述したつやと透明感は、どうしてもカスミさんの髪の毛にはありませんでしたから、よりいっそうお母様の人柄が純朴に思えてなりません。
結局それこそ、お母様が女の子をさけ、カスミさんがお母様を敵視していた理由だったのです。
「今どきの人は、なんでも重大化しすぎるきらいがあってだめね。でもカスミ、あなたたちは問題を軽視しすぎる。あの子が生まれつきああなのは決して
「とんでもない言われようだな。ユキちゃんが引け目を感じるべき点なんてあるもんか」
やがて、お母様のひとみはカスミさんの方をとらえました。
「本気で、あの子の
「そうだよ……」
「そう? …………はあ。だめね、だからあなたは自立できないのよ」
カスミさんのお母様は一本だけばななを手にとって皮をむき、口にされます。
「あなたより20も上のおばさんでも、
「だから、どうしたっていうんだよ……」
「そうね。今は、ユキちゃん? との暮らしに……わたしたちのお金で生活することに
「今さら、
「もうあなたもね」
「…………」
「沈黙は肯定とおなじよ。もう大人なのなら、言葉を使いなさい」
「ほんっといらねえよ、その
直後、病室じゅうに
「ただいまー」
「おかえり」
カスミさんは、
今日の午後は、午前中よりもずっと綺麗に、抜けるような
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