10(テン)

屋鳥 吾更

ユキちゃんVS河洲蔵

「海だあーっ!」

 と、快晴の空に負けずおとらずの、優美な色の髪を風になびかせながら。左下くちもとのほくろが魅惑的チャーミングなカスミさんは大胆不敵に破廉恥マイクロビキニを着こなし、熱くなった砂浜を駆けていきました。

 満足するまで両うでを広げて。しかし水にはいったとたん「きゃっ!」という気の抜けた高い声を上げて、おどろきます。「つめたーい!」30代を目と鼻の先にとらえていることもすっかり忘れて、そうして思いのままにはしゃいでいました。

 そこにもう一人、長身の男性があらわれます。逆光で顔はまあるい形しかわからないのですが、凹凸おうとつのしっかりとした骨格に薄く日焼けした肌理きめのこまかな皮ふのすばらしさは目をみはるものがありました。

 するとその瞬間に男性はカスミさんに近寄ってきたのです。「あ……」カスミさんの柳腰やなぎごしはいとも簡単に男性につつみ込まれ、そのまま二人は、お互いのくちびるを引き合わせていき、

「――ん」

 どうしても、さっきまでの海景がまったくのでたらめな妄想だったことを彼女が知ったのは、まさにこのときでした。

 つまり、ばっちりと目が覚めたわけですから、それまでに自分の見ていたものが「夢……」なのは明白でしたし、何より現実にくちづけを交わしたのが「キューピーちゃんっ!」だったことに驚かないわけにもいきません。

 もうどの地域でも、とっくに7月の頭のむしむしとした気候はそこかしこ満ちあふれており、カスミさんは寝間着に色つきの一繋ワンピース上衣キャミソールと、股布パンティーしか穿かずに、また、汗などでそれがどれほど乱れているのかも把握しないまま跳ね起きたのです。キューピーちゃん人形は口に吸いついてはいなかったのではがれ落ちました。お日さまのあさひはカスミさんがまばたきをするより早く、寝台ベッドのすぐ横の窓いっぱいに差し込んできたのです。そのために、カスミさんが上半身を持ちあげた場所には特注した舞台照明スポットライトを外から当てたのかと思ってしまうほどに温かな彩色が見られたことでしょう。

 さあ、主役の登場です! と、いわんばかりのそれは大掛かりな演出でした。こっそりと、カスミさんの荒肝をひしがんとしていたとある女の子の暗躍は、そうしていつの間にか誰の目にもあきらかなほどに失敗していたのです。

「ユキちゃん、」

 寝台からカスミさんが名前をよびます。

 その女の子は、カスミさんよりもずっと色素が薄く透きとおった空色の髪の毛をお馬さんの尻尾のように後ろに垂らした髪型をしていました。顔つきは、ずっと小さな子供みたいでした。両方の二の腕はそこはかとなく筋肉質に見えましたが、やはりからだつきもおさなげに思えました。一方で腰の綺麗なくびれは女性的であでやかでした。身長は、先に書いたカスミさんのようすからみるに……80センチくらいあるでしょうか、たいへんに小柄な印象でした。

「何してんの……?」さらに女の子は下着とさほど大差のない水着の状態で立ちつくしているのです。

 上半身とおなかの辺りに白の羞恥ビキニが映え、腰からつま先にかけて、幻想的な夜桜のえがかれた丈の長い腰布パレオおおわれながらもそれぞれが引き立て合い、年頃の美しさをあらわしていました。

 ただしカスミさんはいまだ寝台の上にいながら不満そうな顔を浮かべています。決して、女の子の妖艶セクシーな立ち姿におよそふさわしくない廉価材ビニルの浮き輪について思うところがあるわけではありません。頭の不恰好な水遁術具シュノーケルも違います。

「「…………」」しばらく黙ったあと、カスミさんのほうから動き出すと、女の子のほうはまさに脱兎のごとく階段へ駆け出したのです。カスミさんは寝台を下りて足元の意外に硬い素材でできたキューピーちゃんにつまずき大きく転倒していました。廊下に出ると、浮き輪をつけたままでこれも廉価材のシャチにまたがって、段差がひくく段数のおおいきざはしを下る女の子の姿を見つけ、慌ただしくもカスミさんは長い脚ですぐに追いかけます。その間どちらも無言でした。

 一階の玄関先まで来ました。女の子は鯱を乗り捨てると俊敏な動きで、浮き輪を引きずりながら、両手だけで器用に走ってゆきます。居間リビングに向かったのでしょう。しかし、カスミさんの頭のなかには、玄関から小庭をへて居間にある縁側えんがわ(彼女の家では毎日どこかの窓や扉が開きっぱなしになっていました)へと先回りするあくどい算段が出来上がっていたのです。

 もちろん今も上下肌着しか身につけていらっしゃらなかったので、そのまま飛び出したとき、わたしの家の二階の窓からでも彼女の余裕なさげな表情がよくわかりました。カスミさんは恥ずかしがるのとはべつに自分のお家の庭へ戻られました。

「掴まえたぞっ! 人の水着で勝手しやがって!」ついにそう叫んだときです。カスミさんは、予想外に用意されていた、水をたたえた家庭用遊泳槽ビニルプールが突如目に入ったものですからおどろいて、そのままの勢いでなかへと落ちてしまいました。納涼にはさぞかし風流なもよおし物であることはいうまでもありませんが、しかし彼女自身にとっては寝耳に水の入るがごとく望まれない事態でした。

「ぶゔぃゔあっ(ユキちゃん)……」

 カスミさんは恨みがましいようすで縁側のほうを見つめていました。間もなく、女の子は腰布の中からいように短い脚がのぞけるくらい跳躍ジャンプッして、カスミさんと同じ水槽に飛び込みました。

「もうっびしょ濡れになっちゃったじゃないの……」

 けれどもとっくの昔からはしゃいでいた女の子は、カスミさんの小言なんてどこ吹く風の笑顔を浮かべているのです。

 結局、二人とも水遊びをしました。

 問題はそのあと――寝間着用の上衣キャミから、部屋着用の純白な無垢着ネグリジェに着替えたカスミさんが、衣装いしょう箪笥だんすから女の子の着替えを探しているときのことでした。

「……うーん、やっぱりユキちゃんにも、姫装束ドレス以外の気軽ラフな服買ってあげないとなあ」

 つまり「このままじゃ、」女の子の洋服事情が「どれすだんすだ!」という重大な欠陥けっかんに、気がついてしまったのです。「どうすんだどれすだんす……ぷ! くぅっ、面白おもん……」

 それから独り言をされてカスミさんは「よしっ!」と気合いが入ったのか、あっという間に女の子の本日のどれすとその他の衣類を決めました。ところが、

「あれ? ここ、なんかほつれてね……」

 一度、一階の居間にいる女の子にその洋服を持っていきます。

「ユキちゃーん、」

「おに?」

「や、服のここ解れてんだけど、なんでか知らない?」

 と、カスミさんは腰物ドレススカートすそを見せながらたずねますが、

「おにい」

 女の子はこう答えるばかりでした。

 暦表カレンダーには何も予定がないという空白が記載されていました。カスミさんは一考してから言います。「よし、ちょうど、服買わなきゃなって思ってたし、買いに行こうか」

「……おにい?」どうしてか、女の子は合点がいっていないような顔つきと目つきで、長椅子ソファからカスミさんを見上げていました。


         ◆


 カスミさんたちが百貨店デパートへ行く道中のことです。

「しかし、なんでこんな、裾のとこばっかしよごしてんだろな……」

 帽子をかぶった女の子が乗る車椅子を手で押しながら、カスミさんは言いました。

「そんなに普段は、運動する性格タイプでもないのにねえ?」

「おにいっ」

 女の子はとてもカスミさんに懐いていましたが――今しがた、彼女の目視した御宅おたくのわんちゃんだけは、その心を激しくゆさぶる存在でした。

「あっこら!」カスミさんの制止も聞かず、すぐさま椅子を降りると女の子は、

「おっwhおにいいいいいっ!」

 そう雌叫おたけびを上げて走っていってしまったのです。一心同体ならぬ(短い脚で地面を蹴って進むという意味で)一蹴胴体を、前後させる両腕で支えながらほんとうに器用にわんちゃんの元へとたどりつきました。そして同じ目線からその子を撫で回していました。むく毛の秋田犬です。もう換毛期は過ぎさっているでしょうが、多少の抜け毛にまみれ女の子はカスミさんの元までかえってきました。

「原因はこれか……」

 ここでカスミさんは、女の子に活動的スポーティーな服をどっさり買ってあげなければと強く感じ、深刻な表情で頭をおさえるのでした。

 

         ◆


 新居で暮らし始めていまだに半年程度の彼女から言われてしまうのは、15年来の住人として気が引けるので、代わりにわたしが申しますと、この町におけるわたしたちの住居の立地はまさに最悪です。東にすうキロ行くと大きなまちがあります。けれども、その市に向かう手段アクセスは公共交通機関のそれも鉄道だけで、先述したように歩いて行くにも非常識な距離のためにやり方がありません。西にもまちはあるのですがこの町以上に寂れていて、唯一ある大きな建物も町立病院くらいのものなので、訪れる手段というよりわざわざ行くための理由がないのです。南北には、それこそこの町だけをおおい包みこむように背の高い山脈がそびえています。このようにわたしたちの住まいは首都圏などに見られる急進主義的な現代の文化より隔絶された(というと、なんとなく理屈っぽく聞こえるでしょうか。つまりは泥臭いという意味の)古めかしい田舎いなか町にあると言わざるを得ませんでした。

 だからといって、公道をのぞいてそこらじゅうに田んぼが広がっているということもありませんでしたし、むしろ小綺麗モダンな戸建住宅や鉄筋造りの共同住宅アパートメントがひじょうに多く見られ、近年なにかと話題になったあの洋風長屋テラスハウス(「一つ屋根の下」という意味ではなく、本来の、むね割り長屋に似たような)様式の家も町の中央部にいくつか存在しています。現代文化とかけ離れた生活を送っているというのはかなりの嘘っぱちでした。しかし交通が発達していないこともほんとうでした。ただ純粋に住民の人びとは、それぞれに住みよい形をとって馴染みながら、この町の土壌どじょうそのものを愛していたのです。

 ……なんて、ちょっとした話をしているあいだに、どうやらカスミさんたちは東の市の百貨店の目前まで、徒歩30分をかけてやって来ていました。愛さえあれば何もかもうまくいくということでしょうか。そう思わざるを得ません。

「ここの服屋は各階に分布してるのが玉にきずだよなー」

 汗だくのカスミさんは店内に入るとまずさきに最寄りの銀行窓口エーティーエムでお金を下ろしました。座右の銘から「何があろうとも2千円以上持ち歩くべからず」といって節約の努力をしている女性ですから、準備についてもまったく手抜かりがあるはずもありません。

 そこで、カスミさんは女の子に言いました。

「ユキちゃん、ちょうどいい機会だし、今日は一人で買い物の練習しないか?」

「おにい……お?」

「急にどうしたのってそりゃないよ。もう16歳(いいとし)でしょ。ユキちゃんくらいのとしの子は、普通学校帰りに一人で買い食いしたりするもんさ。だから今日は練習ね」

「おにいぃ……」

「ぶつくさぶたくさ言わないの! ほら1万」

 カスミさんはそのままでお財布に手を伸ばし、さっき引き出したばかりの1万円のぴんと張った新札を出し、そしてぜいたくにも女の子にわたしてしまいました。

「そんじゃぼちぼち買い物行ってくるんで、ユキちゃんのほうは涼みながらてきとーに選んどいてねー」

 カスミさんは手を振りながら離れてゆきます。

「あっくれぐれも、ふざけた衣装買ってこないように! ねー」

 カスミさんは行ってしまいました。その場に取り残されて、女の子はようやく「おにい……」とつぶやきました。しかたなしに女の子は一階に気を引かれるような服屋がないことを確認して、それから、混雑のなかの昇降機エレベータで二階へと上がりました。

 百貨店デパートに来るのはこれが初めてだということはありませんでした。しかし、カスミさんも言っていたように、女の子がこれまでに一人で買い物をできたことはなく、大概に彼女やお店の人びとに手助けしてもらって、決してあまえているわけではなかったのですが、一度でも一人でやってみたいと思ったことはなかったのです。

 ましてや洋服選びなんて、自分を見てくれるほかの誰かがいなければ、そうそう楽しむことはできないでしょう。女の子はいちばん雰囲気のよさそうなお店に入りましたが、5分経過しても10分経過しても、どの服をも手にとることはありませんでした。

「――何かお困りですか?」

 後ろから、唐突な声がしました。

 女の子がびくっと肩をこわばらせてそちらを見ますと、なんともおしゃれなお姉さんが身をかがめて女の子を見つめているのです。

 お姉さんは、真珠をそのままあしらったような耳飾ピアスを両耳にし、黒い肌着シャツに抜きえりをした長袖ジャケット(ずれ防止のために前側をしまっています)をまとって、ぱきっとした印象の足首までの長さの穿物パンツ、底の平らな婦人靴パンプスを履いた身なりをしていました。靴は密着足履カバーソックス越しに履いているのでほとんど素足が見え涼しげでした。

 つまり、なんともおしゃれだったというわけです。

「まあ、なんて素敵なお召しもの! でも少しばかり今の季節では暑苦しく感じませんか? よろしければわたしが、お洋服選び、お手伝いいたしますよっ?」

 化粧のばっちりきまった笑顔は女性としての美しさを最大限まで演出していました。

「おにい、」

 きっと、女の子は考えたはずです。このお姉さんに手伝ってもらえば、カスミさんが褒めてくれるような服も簡単に見つかるはずだと。しかし面映おもはゆさから頼むことはできませんでした。

 女の子は気の引けたようすで眉尻をつり下げ、お姉さんを見返します。

「お、おにいー」

 それから女の子は露骨な愛想笑いをしてその場を立ちさろうとしました。けれども、すでに車椅子の後ろのハンドルはお姉さんに両方つかまれていて、てこでも動きそうにありません。

「婦人服はこちらになりまあーす」

「おー! にいーっ!」

 いやおうなしに連れていかれました。

「どのような服をお求めですか?」

「お、おににい、」

「動きやすいもの……わかりました。お客様は清楚せいそな――それこそ今のような姫装束がお似合いですから、上半身トップスは白色で、活動的スポーティーにですからそでの短いものにして。あっ、胸元が煙布シースルーになっているものはどうですか? 花柄などほどこされたものもあって、妖艶コケティッシュで清潔感もありますしいいですよー」

「おー……」

「よく見るとお客様、くびれがとても綺麗ですね。特にあばらの下辺りが……何か運動競技スポーツとかはされてますか?」

「お、おにい」

「されてない? そうですか。でもせっかくですから胴帯ウエストリボンをつけてみませんか。お客様のかわいらしい印象に強調点アクセントをつけつつ、女性的な輪郭をはっきりさせるのにも効果大ですよー」

「にー」

「あ……」

 と、今まで女の子の脱衣と服選びを手伝っていたお姉さんは、ようやく下半身の被服装飾コーディネイトに取りかかろうとしたとき、女の子に両脚がないことに気がついたのです。更衣室まで案内してなお思い至らなかったのは、女の子がはかなげな容姿をして華やかな姫装束に身を包んでいたせいにほかなりません。

 一瞬のうちに、お姉さんは顔をしかめました。

 女の子のものはもものつけ根から10センチほど伸び、機械的にそろえられた切り株のような両脚でした。底面は水平で、中央には土踏まずのようなへこみがありました。しゃがまずとも手のほうが先に地につきます。もしかすると普段はそれでテケテケ(上半身だけしかない、都市伝説上の人物)みたいに両腕を使って歩き回っているのだろうか――お姉さんの目には、手元の、女の子の姫装束のすそのひどい汚れしか映り込まなかったのです。

 どうしても、お姉さんは胸もとの焼け糜爛ただれるような感覚を我慢することはできませんでした。

 そのときです。「ユキちゃん?」背後の声とともに、更衣室の窓掛カーテンがひらく音がしました。のぞき込んできた顔はまちがいなくカスミさんでした。

「あの、お連れ様で……?」と、お姉さんはカスミさんにたずねました。

「あー……すみませんうちの子が」と、カスミさんは状況を察知したようにきまり悪い表情を浮かべます。

「ほらユキちゃん。さっさと会計して、お姉さん解放してあげなさいよっ」

「おにい……」

 女の子は満たされないようすのまま、お姉さんに勧めてもらった服を脱ぎ、更衣室をあとにしました。そして、お姉さんが想像したとおりのさまで姫装束スカートで歩いたのちに背丈より高い車椅子にするするとよじのぼり、同じ目線で一度おじぎをしたのでした。

「あんたねえ、そんなんじゃいつまで経っても買い物できないわよ?」

「おにっ……」と、一方カスミさんの言葉にはぶっきらぼうに返事をしていました。

「あっでも、その服かわいいねえ……あとは穿物ズボンか……まあわたしのを切ればいっか、」

「ち、ちょっと待ってください!」

 カスミさんは、お姉さんのそのひっしな声にふり返りました。お姉さんはうつむきがちにとても悔しそうなようすでくちびるを噛みしめていましたが、やがて顔を上げるとあいそうではない清々すがすがしい笑みを見せてくれたのです。

「あの、えっと、遊布デニム短小穿ショーパンならいくつかかわいらしいものがございますが?」

 お姉さんに言われて、カスミさんと女の子の二人は顔を見合わせます。考えていることはきっと同じでした。

「じゃあそれで」

 カスミさんたちは買い物を終えるとすぐさま百貨店デパートの外に出てきました。時刻を気にしたカスミさんが何度、どのような角度から左手首の時計をながめても長針と短針はかさなって振れ得なかったので、今の時間はわかりません。ただ女の子の腹時計だけが頼りでした。

「そこ(行きつけの喫茶店)で、なんかまんでく?」

「おにいー!」

 と、女の子は大賛成のもようで声を上げます。

 喫茶店は隠れ家的にこぢんまりとした内装をして、主に紅茶や珈琲をあつかっているのですが入口から奥に行くと八畳分の茣蓙ござが敷かれていました。カスミさんが女の子をそこに座らせたのは、飯台の下へしゃがんだときに女の子の、つぶれた両脚がももまでの長さの穿きものからのぞいているところを確かめられるからです。

 カスミさんは頭を上げるとふたたび、器のうえの模様が綺麗な伊風泡珈琲カプチーノに口づけしました。

 反対に女の子は焼き目鮮やかな乾酪チーズ堂菓ケーキ頬張ほおばつ音を立てて仏風混珈琲カフェオレを飲み干しました。

「そんなにせわしくしなくたって今日はもう、なあんにもやることないぞー」

「おにいっお!」

「そっか。うまいかー」

 すっかりカスミさんはだらけてしまいました。もっとも適気温と足元のいぐさの香りにあてられたのですから当然の結果なのです。女の子にも珈琲にももはや関心がおこりませんでした。

(ゔうぅぅぅぅぅ)

「どうした?」

 たいへんにへんな音がしたものでカスミさんは驚き、とっさに女の子を見ましたが、度しがたいほどに彼女は特徴のない表情でいました。

 実際、振動音バイブレーションの正体はカスミさんの携帯電話でした。

「何? とおさん?」

『今から、ど?』

「あー……わかった。行きたくないけど、行くよ」

『そっか。待ってるね』

 ほんの数秒間耳に当てただけで、携帯電話は何も言わなくなっていました。カスミさんは耳から離した液晶画面をしばらく見つめます。もちろん、目線の行き先には「通話終了」の文字しかありませんでしたが。

「ユキちゃん。今から駅行くよ」

 しかし、女の子はきょとんとしています。

 カスミさんは冷ました伊風泡珈琲カプチーノをぐっと一息にのどへと流し込みますが「にがあが!」といって途中でむせてしまいました。おかげでひどい涙目です。女の子はあきれかえって、おのずと車椅子に乗り込みました。

「おっおーっ」

 行くよ、とそう言ったのでしょうか?

 わかった、とカスミさんも立ち上がって、お会計を済ませて、二人で駅へと向かいました。


         ◆


 硝子ガラス細工ざいくの光沢感と透明感をまさしくおぼえるような、空色の頭髪をもつ女性――。

 病室から、その外を、カスミさんのお母様は目の下の大きなくまを気にしながら見下ろしていらっしゃいました。かたわらにはほどよく黒ずんだばななが、手提籠バスケット二房ふたふさあります。お母様は見向きもされません。やがて無根拠に、ばななの皮がどんどん色あせていくような気がしました。

 寸刻ののちに部屋にはカスミさんがやって来たのです。カスミさんはあいさつもなしにお母様の近くにあった椅子をとり座りました。大人びた外見に似つかわしくないぶすっとしたようすを表面に張りつけています。

 はじめに声を発したのは、カスミさんのお母様でした。

「あの子、随分すなおに笑うようになったのね」

 それは女の子についてのことです。お母様が俯瞰ふかんなさっていたところには青々としげった芝生しばふの上で、今日買ったばかりの服を着て活発に走り回る女の子と、それを追いかける大柄な男性の姿がありました。ほかに病衣の幼い子どもも数人見えます。男性につかまった子が足を止め、また別の子が男性により動きを止められたところを思うと、どうやら氷鬼こおりおにをしてあそんでいるみたいです。

「……あの子の笑顔を見ていると、とっても元気になるの」

かーさんが?」

「いや。あのひとがね、現にすごく楽しそうでしょ」

「心にもないこと言うなよ……」

 カスミさんはついにため息をこらえきれませんでした。

「でも、あの子まえに来たときには脚を見せたがらなかったでしょう?」

「それはあんたがけむたがってるからで、」

「あんなに大胆にしていれば、誰でもそうするものよ」

 お母様は少しの悪意もなさげに、また、少しのためらいもなしにおっしゃっていました。先述したつやと透明感は、どうしてもカスミさんの髪の毛にはありませんでしたから、よりいっそうお母様の人柄が純朴に思えてなりません。

 結局それこそ、お母様が女の子をさけ、カスミさんがお母様を敵視していた理由だったのです。

「今どきの人は、なんでも重大化しすぎるきらいがあってだめね。でもカスミ、あなたたちは問題を軽視しすぎる。あの子が生まれつきああなのは決してあくではないけれど、同時にいことでもない。もう少し他人ひとの目を気にするべきだと思うわ」

「とんでもない言われようだな。ユキちゃんが引け目を感じるべき点なんてあるもんか」

 やがて、お母様のひとみはカスミさんの方をとらえました。

「本気で、あの子の風体ふうていが、社会に通じると考えているの?」

「そうだよ……」

「そう? …………はあ。だめね、だからあなたは自立できないのよ」

 カスミさんのお母様は一本だけばななを手にとって皮をむき、口にされます。

「あなたより20も上のおばさんでも、生涯じんせいはあと何十年もある。長すぎる。早くに立ち上がったところでいずれ疲れてしまうだけだわ」

「だから、どうしたっていうんだよ……」

「そうね。今は、ユキちゃん? との暮らしに……わたしたちのお金で生活することに自足まんぞくしていてもいい。でもころ合いを見て、あなたは自立しないといけない。じゃないと、もう一生立ち上がれなくなってしまうから」

「今さら、母親ははおやづらして何言ってんだよ……年増としま

「もうあなたもね」

「…………」

「沈黙は肯定とおなじよ。もう大人なのなら、言葉を使いなさい」

「ほんっといらねえよ、その一言ひとことっ……」

 直後、病室じゅうに合図ノックの音がひびき、お母様が柔らかい声で「はあい」と返事されると、汗まみれになった男性おとうさまと車椅子の女の子が入ってきました。

「ただいまー」

「おかえり」

 カスミさんは、飄然ひょうぜんと立ちあがりお父様とあいさつを交わします。それからお母様の寝台ベッドよりとおく離れた廊下の窓まで行き、呆然ぼうぜんと外の景色を見ました。

 今日の午後は、午前中よりもずっと綺麗に、抜けるような晴空はれぞらが広がっていたのでした。





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