第12話 病院によって初診料が違います(ただの豆知識)

「あー骨にヒビ入ってるねー。うん、骨折だ」


 あれから、保健室に向かい応急処置をしてもらった。

 養護教諭の診断では打撲か骨折のどちらかだろう。レントゲンを撮ってみないとわからないから病院で診てもらおうと、車をだしてもらって病院へ。

 

 そして、レントゲンを撮ってもらい今に至る。


「骨折ですか……」


 せいぜい打撲かなと思っていただけに、絶望に似た感情が胸の内に発生する。それはさざ波が砂浜を打ち寄せるように、心をじわりじわりと侵食する。


「ほら、ここ。ちょっと線みたいなのが見えるでしょ」

 

 そんな俺の心情とは裏腹に医者のおじさんが、あっけらかんとした態度でパソコンの画面を指差す。

 パソコンの画面には俺の肘と思われるレントゲン写真があった。


「はい」


 指を指された場所、肘のくの字、真ん中に当たる部分をよく見ると、確かに線っぽいようなものがあった。言われないとわからないほど薄く、小さい線だが確かにある。


「これがヒビ。階段でコケたんだっけ? 女性を守って」


「……はい。そこで地面に手をついて」


 うまいこと衝撃をずらせたと思っていたが、失敗したようだ。

 もっと上手に転べばと思っても後の祭りだ。助けるつもりで怪我をしてしまった。いや、朝比奈さんは無事なのだから、最低限の仕事が果たせたと喜ぶべきか。


「体重が肘にかかっちゃったんだね」


「どのくらいで治ります?」


「三週間前後かな。早ければ二週間。遅くても一ヶ月以内だね」


「あ、短いですね」


 骨折と言うからには、一ヶ月以上かかるものだと勝手に思っていた。それが半月、遅くても一ヶ月で回復するとは。

 長期に渡ると身構えていただけに肩透かしを食らった気分だ。


「もしかしたら……悪化すると一ヶ月以上。一年以内には確実に治るとは思けど……いや、何が起こるかわからない。希望を持たせるのはやめておこう」


「深刻にしろと言ってるんじゃないですからね。妙な演技はやめてください」


 医者なんだから、洒落にならない。

 冗談は時と場所を考えてほしい。


「ごめんごめん。ま、若いし回復が早いと思うからヒビが治るのに二週間から三週間ぐらいかな。そこからいつも通りに動くには更に一週間ぐらいと見ておいた方がいいね」


「ギプスとかするんですか?」

 

 骨折と言えばギプスだ。腕を固定するやつである。

 あれをすると、風呂に入るときとか服を着るのに苦労しそうだが、治すためには仕方がない。


「ん、別にいらないよ」


「いらないのですか?」


「うん。小さいヒビだからね。綺麗にヒビが入ってて骨も動いてないから、手術の必要もなし。あ、腕を吊るす三角巾いる? 周りに骨折アピールができるし、腕の固定に便利だよ。安くしとくよ」


「骨折アピールは必要ないですが……一応貰っておきます」


 事故直後は動いていた肘だが、時間が経つほどに明らかに可動域は狭くなっていった。

 まだ、ゆっくりとなら自由に動かせるが明日になればどうなるかわからない。

 動かせなくなったときのことを考えて、三角巾は必要だろう。


「湿布はいる? 普通の湿布だけど、保険が効くから薬局で買うより安く買えるよ。今なら限界値まで持たせてあげよう」


「……では、お願いします」


 さっきから安くしか言ってない気がする。

 どこの販売員だ。というか、一応、治療のはずなのに軽い感じしかしない。いや、骨折だし、命にかかるものではないけど。

 それに────


「痛みが続くようならまた来てね。女心が全然わかっていないと怒られたこともある僕が独断と偏見で君の恋の悩みを解決してあげよう」


「腕の痛みを解決してください!」


 それと全然参考にならなさそうな要素があるんですが。

 間違っても恋の相談をしまいと心に刻みつける。


「土下座っていうのはね、相手が完全に怒る前に土下座るのさ。相手の虚を衝き、怒を外す。基本にして奥義と言ってもいい。そして、相手が土下座に驚いているうちに謝り倒して、「君のためにしたんだ」と叫ぶんだ。無論、嘘でもいい。強引に話を結びつけ、『君のため』という相手が怒りにくいフレーズを混ぜ込むことによって、怒りの矛先を鈍らすわけさ。つまり、相手の良心につけこむわけだ。いいね?」


「よくねぇよ! クズじゃねぇか!!」


 勝手に話を始めないでほしい。

 土下座るとかそんな動詞ないし。

 ちょっと内容に心惹かれてしまったが、これを聞いては負けなのだと心に言い聞かせる。


「刺されたときのために、お腹に週刊誌を入れることを忘れずに」


「失敗前提じゃねーか!」


「孫氏曰く、週刊誌を知り、己をそれで守れば百戦殆ふからず」


「孫氏そんなこと言ってねぇよ! それに、週刊誌で百戦も戦いたくねぇよ!」


 正しくは『彼を知り己を知れば百戦殆うからず』だ。

 敵についても味方についても情勢をしっかりと把握していれば、幾度戦ったところで負けはないよというありがたい言葉である。決して週刊誌の防御力を信じて刺されろということではない。


「刺されたら、ここに来てね。よい病院を紹介してあげよう」


「ここで診ないの!?」


「整形外科だからね。専門外だ」


 はぁ……もう。

 ────これだから知り合いが医者だとやりにくい。

 気心が知れた相手なのにで緊張しなくて済むが、知り合いだからと砕けた態度になるのも考えものだ。


「ははっ、お大事に」


 ニヤニヤと笑みを浮かべながら退室を促された。

 くそぅ、純情な青少年を馬鹿にしやがって。

 …………だが、おじさんの気持ちもわからなくはない。

 知り合いが病院に来て、それも保護者というか女性を同伴して診察に来たのだから、一言からかいたくなるのだろう。


「月見里くん!」


「大丈夫だった!?」


 診察室を出ると、二人の女性が俺の姿を見た瞬間、心配そうに立ち寄ってくる。


「……う、うん、大丈夫。ちょっとヒビが入っただけだって」


 迫力に押されてなすがままにされそうになるが、ここは病院。そのまま立って会話をしていたら診察に向かう人の邪魔になる。

 待合室の椅子へ腰を下ろ……


「ヒビ! 骨折だよね!? 痛そ~」


「ごめんなさい! 私のせいで……」


 下ろそうとしたら、二人に挟み込まれるように椅子に座らされた。

 そして、矢継ぎ早に声をかけられる。


「ギプスは? 骨折したんだよね?」

 

「骨がズレていないので、固定する必要はないって言ってました」


 俺の右横、心配そうに俺の右肘を見るのは乙藤先生。

 俺の担任ということもあり、怪我したことを伝えると車を出して貰い医者のところまで連れて行ってくれた。


「月見里君、本当にごめんなさい……」


 俺の左横、悲痛な面持ちでうつむいているのは朝比奈さん。

 俺に構わず帰ってよかったのだが、怪我の原因でもある、心配だと言ってここまでついてきてくれた。

 責任を感じる必要はないはずなのに、朝比奈さんは自責の念をかられている。

 俺はそんな朝比奈さんに心配ないよと笑顔をつくる。


「事故だから、朝比奈さんのせいじゃないよ。それに二週間ぐらいで治るらしいし」


 本当は三週間前後だが、朝比奈さんが責任をこれ以上感じないように最短の日付で言ってしまった。


「でも……」


「朝比奈さんは怪我がなかったんでしょ?」


 朝比奈さんがなおも言葉を重ね謝ろうとするが、俺が口をだし打ち切る。


「うん……」


「なら、万々歳だ。朝比奈さんを守れたというだけで男としては十分だよ。怪我をしたのは俺がヘマをしたってだけだし」


「で、でも、私が不注意で転んだから月見里君が怪我をして……!」


「でも、朝比奈さんは怪我をしていない」


「っ!!」


 朝比奈さんの揺れ動く瞳を強く覗き込む。罪悪感か自責の念かはわからない。瞳には俺に怯える色があった。それを無視して、逃さないと視線で朝比奈さんの瞳を縛る。それはまるで鏡合わせのよう。瞳と瞳だけがある世界。他に何も映らない世界。

 その世界で俺は、

 

「朝比奈さんは怪我をしていない」


 再度、同じ言葉を言う。

 染み込むように。彼女の心に染み込ませるように、瞳を見て伝える。

 朝比奈さんに伝わったのかわからなかったが、その言葉で揺れる瞳が止まった。視界の端に映る数字が一度だけ振動したような気がしたが、気のせいだろう。


「俺にはそれだけで十分だよ。結果的には怪我をしたけど、俺は朝比奈さんを怪我をさせないためだけに動いた。それが完遂したんだから、後悔はないよ。もし、過去をやり直すことになっても、何度だって同じ行動をするだろうね。それが男って生き物だ」


 最後、茶化すように表情を和らげる。

 朝比奈さんが目を見開き、


「それと、お姫様を守ったんだから。暗い顔してたら辛い。ありがとうって笑ってくれたら男には一番の報酬だよ」


「ぷっ……似合わないよ月見里くん。少女漫画に出てくる男の子みたい」


 眉尻を下げて、微笑んだ。


「う、うるさい。自分でも思ったんだから言わないでよ。あー恥ずかしい! 言うんじゃなかった!!」


 クサイ台詞だという自覚はある。カーっと顔が赤くなるのが自分でもわかる。

 見つめ合ったとき、世界が朝比奈さんと俺しかいないかのような錯覚に陥っていた。だから、あんな恥ずかしい台詞を言えたんだ! あー絶対これ黒歴史だわ。恥ずかしい! 

 もだえ苦しむ俺を見て、朝比奈さんはクスクスと笑う。

 そこに先程まであった暗い空気はなかった。

 どこか甘酸っぱい、青春のような────



「むぅ~~、むぅ~~!!」



 ────雰囲気はなかった。

 俺の左の方で、暗黒物質の生産工場ですと言っても信じられる空気が醸し出していた。待合室で治療を待っている人や看護婦さん達が修羅場だ、修羅場と小声で言うのが漏れ聞こえてくる。違うと叫びたいが声をだすことが恐ろしい。

 横を向くのが怖いと思ったのはいつぶりだろう。……数日かな。意外と短いな。

 朝比奈さんは勇敢にも現実を直視したようで、あははと乾いた笑いを浮かべている。


「むぅ~~、むぅ~~!!」


 だが、無視しても悪化するだけだ。勇気を持って、話しかける。


「ど、どうしたんですか……乙藤先生」


「むっすー! 別にいいですよー! 朝比奈さんと存分にイチャついてください!」


「イチャつ……」


「イチャついてません!」


「ふんっ!」


 どう見ても、よくないとしか思えない返事がかえってきた。

 頬を膨らまし、俺のズボンを掴むその姿は幼い子どもが構ってくれと親に駄々をこねるのに似ていた。貴方、年上ですよね? 大人ですよね? 先生ですよね? というツッコミ三重奏が喉から出かかったが、自制する。我慢って大事。


「え、えと……先生」


 爆発物に触るように、おっかなびっくり乙藤先生に話しかける。


「先生も心配したのになー。それなのに、月見里くんは朝比奈さんと喋ってばっかり!」


 乙藤先生が俺を責めるように俺の目を見る。

 その瞳には、お前朝比奈さんに告って振られたのに、アピってんじゃねーよと言っていた。

 いや、これは俺の被害妄想で実際に乙藤先生が言っていたわけだが、当たらずといえども遠からずだと思うのはなんでだろう。しかし、嘘告白ではあるが、二人は本当の告白だと思っている。自分が朝比奈さんに言ったことを思いだすと、アピール以外の何物でもない気がする。

 

「い、いや……それはですね」


 背中が汗をかく。

 なんだろう、浮気がバレて彼女に言い訳をする感じに似ているような。あれ? 最近、似たようなことあったような。おかしいな。彼女も結婚もいたこともしたこもないのにね! 不思議だね!?


「先生ねー、仕事もあったのに、それを放って置いてまで月見里くんのために頑張ったのになー。あー仕事をすればよかったのかなー」


「……です」


「ん?」


「乙藤先生が来てくれて嬉しいです……」


「え、何? 聞こえない?」


 絶対聞こえているでしょう!

 ニンマリと笑いながら、もう一度とズボンを引っ張る。

 なんのプレイだよ。朝比奈さんが目を白黒させながら、待合室にいる患者や看護婦がニヤニヤ笑いながら見ている中、俺は……、


「乙藤先生が来てくれて嬉しいです!」


 叫んだ。

 そんな俺の羞恥プレイに観客達はよくやったと乾いた拍手を浴びせかける。

 あの、拍手とかいらないんで放っておいてくれませんか? 見世物じゃないんで。

 そんな周りの観客の態度なんてお構いなしに、乙藤先生は嬉しそうに口の端を上げる。

 まぁ、車で病院まで連れて行ってくれたのは助かったし、恥ずかしかったが、お礼だと思えばいいのかもしれない。二度とやりたくないが。


「もっと!」


「え?」


「もっと言って!」


 まさかのおかわり!?

 二度とやりたくないって言ったよね!? いや、言ってないけど! 思っただけですけど!?


「ほらっ!」


 期待に満ちた目で俺に強く訴えかける。あの、胸が当たっているんですが!? 避けようにも反対側には朝比奈さんがいるわけで。

 前門の虎、後門の狼ではないが、柔らかい感触に挟まれて身動きが取れない。この状況を打開するには乙藤先生にご要望通りにするしかないのか……。


「不安でしたけど、先生が車の中で励ましてくれて嬉しかったです!

 今も仕事を放ってまで心配してくれて、超嬉しかったです! 先生、大好き!」


 もうヤケクソである。

 診療室から覗いている医者のおじさんがよくやったと手を高く掲げて叩くジェスチャーをするのが視界の端に映る。もう嫌だ。なんで、知り合いのいる病院なんだよぉぉぉぉぉ。おじさんも仕事をしろよぉぉぉ。なんで診察を中断してまで、見てんだよ、この病院は!

 俺の心の絶叫とは裏腹に、乙藤先生はご満悦そうだ。肌がぷるんぷるんと潤っている気がする。


「むっふ~!! 先生だもんね♪ 生徒のことは心配なのです! こんなに月見里くんに喜んで貰えるなんて、先生冥利尽きるね♪ 仕事放ってまで来て良かった!」


 いや、あの……今この場での貴方は先生っぽい要素はどこにも見当たらないのですが。


「あ、でも怪我大丈夫なの? 不自由じゃない?」


「あ、はい……そうですね」


 唐突に話を戻された。

 確かに、ヒビであるが骨折は骨折だ。


「幸い手は動くのでなんとかなるかなぁと」


 怪我した部分は肘なので、手は動く。手を動かしても痛みもほとんどないので、あまり不自由はしなさそうだ。


「でも、授業とかノート取れないよね?」


「そうですね」


 手は動くが、腕は動かすのは難しそうだ。

 ノートはあまり取らない主義とはいえ、最低限はする。それが出来ないとなると、復習するときに困りそうだ。


「お、乙藤先生」


「ん?」


 そこでやっと、朝比奈さんが会話に参加してくれた。


「それは私が協力しますので。幸い、月見里君とは隣の席ですし」


「え、いいの?」

 

 それは願ってもないことだ。


「うん。月見里君はああ言ってくれたけど、やっぱり事故の原因は私だから。それぐらいはさせてほしいなって。……駄目?」


 小首をかしげならが問いかけてくるのはなんと可愛らしいことか。

 思わず、うんと強く頷いてしまう。


「先生も協力する!」


「え?」


 そして、対抗するかのように乙藤先生がムンと拳を握り力強く宣言する。


「先生も月見里くんに協力します!」


「乙藤先生は先生ですよね?」


「そ~だよ」


「え?」


「え?」


 三者、互いに顔を見合わせる。俺と朝比奈さんは無言でも意思疎通出来ているが、乙藤先生は伝わっていないようだ。


「乙藤先生は先生ですから、板書をする立場であってノートを取る立場ではないですよね?」


 恐る恐る朝比奈さんが問いかける。


「うん」


 乙藤先生はあっけらかんと頷く。


「先生も板書するために授業内容をまとめたノートを作っているのです! それをコピーすればあら不思議、ノートを取る必要もないのです!」


「おぉ! ……ってそれはどうなんです?」


「あれ? 駄目?」


 どうしようと朝比奈さんと見つめ合う。


「それは一生徒にする範疇を超えるかなぁと」


「テストに出そうな問題もわかるのに?」


 むしろ、それが駄目だと思うよ。


「はい。それと、なんとかなっても世界史以外は……」


 朝比奈さんがやんわりとお断りしてくれるが、


「専門は世界史だけど、他の科目も一通りは教えてあげれるよー。先生、家庭教師のバイトで数学とか教えたことがあるんだ!」


 先生の暴走は止まらない。

 本職の先生が家庭教師のバイトしたことがあるってなんの自慢になるのだろう。


「じゃ、じゃあわからないことばあれば……」


「うん♪」


 俺の言葉に乙藤先生は満足そうに頷く。

 俺と朝比奈さんは互いに目配せをし合う。暴走は止められないので、先生には頷くけど、他の科目は朝比奈さんに頼むよと。

 朝比奈さんは俺のアイコンタクトをちゃんと受信したようで、先生に見えないように小さく頷いた。ほっと一安心である。 


「あ、でも月見里くんは反省してね」


「……はい? あ、怪我ですか? そうですね、反省します」


 突然乙藤先生に言われて、理解が追いつかなかった。

 確かに、怪我をしたことは反省すべきだな。怪我をしなければ、朝比奈さんにも乙藤先生にも迷惑をかけなかった。次の機会があれば、もっとうまくやろう。

 と、俺が決意を新たにしていたのだが、


「違うよ。先生が反省してほしいのは、月見里くんの誰でも助けちゃう姿勢のこと!」


 めっ! と乙藤先生は人差し指を立てて、俺を指差す。

 軽い感じで叱っているのだが、目を見ると本気だ。


「月見里くんの自己犠牲の精神は何度も助けえられてるし、私が言うなって怒られるかもしれないけど、それでも言わせて。月見里くんは自分の体のことを一番に考えて!」


「は、はい?」


 言葉の中に悲痛なものが混じっているのを感じた。それは注意であり、訴えであり、神に願うような──そう自分よりも大きなものにすがる姿勢に似ていた。

 大げさなと言いたいが、乙藤先生の剣幕に何も言えなかった。


「たまたま骨折だけで済んだけと、頭を打ったら死んじゃうかもしれないんだよ? 死んだらもう二度と助からないんだよ!」


「そ、そうですね……反省します」


 落下するときは気をつけてはいたが、もし手すりに頭をぶつけていたら、首をぶつけていたら、そう考えると危なかった。先生の言う通り、肘の骨折では済まなかったかもしれない。



「青春だね。いいものを見せてもらったよ。つい、くそぅとか羨ましいぞとか、次会ったら生きて返さねぇからなとか、年甲斐もなく思ってしまったよ」


「あの、医者が受付をやらないでくれますか? あと医者にあるまじき台詞吐いてますよ」


 会計をしようと受付に行けば、さっきまで診療してくれた医者のおじさんがそこに座っていた。そういう特別扱い全然嬉しくないんで、早く自分の巣に戻って次の患者の相手をしてください。


「お代は二千円。これが湿布ね。二週間分入れといたから、足りなくなったらまたおいで」


「ありがとうございます」


 だが、腐っても医者は医者だ。相手がちゃんとしているのなら、こちらも礼を尽くす必要がある。

 お金を払おうと財布が入っている右ポケットに手を入れようとするが、右手は動かせない。代わりに左手で取ろうとするのだが、なかなかうまくいかない。

 体を捻ってポケットに手を突っ込むのだが、財布がポケットに引っかかってるようだ。


「あ、私が取るね」


 それを乙藤先生が見かねて取ってくれた。


「ん、んん~っ!! んっ、取れた!」


 俺の腰に手を回し、もう片方の手で俺のポケットに手を入れる。密着する体からふんわりと花のような甘い香りが鼻孔をくすぐる。体が密着したのは秒にも満たない程度だった。異性の柔らかな感触と共に男にはない香りが脳内を刺激し、一瞬の記憶を残して霧散した。


「お代は一万円ね」


「なんで値上がりしてるの!?」


 最後、医者の嫉妬をかったがなんとか無事に? 一日が終わったのだった。 


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