第5話 これは一体どういうことなんだ……
「おはよう!」
「……おはようございます」
隣の席の朝比奈さんに挨拶をして、鞄を机の上に下ろす。
告白騒動から数日経った。いろいろなことがあったような気がするし、そうでもない気がする。記憶にモヤがかかったみたいにスッキリとしない感じだ。思いだそうとすると、霧を掴むかのようにするりと抜けてしまう。夢を思いだすようだと言えばわかりやすいか。
……たんに春ボケしていたと言われればそうなのだが。しかし数日間過ぎたぐらいでは何も世の中に変化はない。
とりあえず学校の日常としては席替えが行われたぐらいだろうか、特筆すべきことと言えば。
今まで先生が生徒の名前を覚えるために名簿順であったのだが、もう先生方も名前を覚えただろうということでテスト前ではあるが席替えが行われたのだった。
そして、運命の悪戯なのか朝比奈さんの隣の席になった。場所は一番の後列の端。右隣には見目麗しい朝比奈さんという癒しが。運が良かったと言えるはずなのに、背筋に感じるヒヤリとした感触はなんなのか。思い当たる節がないだけで不安であるが、きっと気の所為だろう。
ネガティブなイメージのせいで気が重くなってしまった。首を振ってその邪気を払っていたら、朝比奈さんから声をかけられた。
「どうしたの?」
「……ん。ちょっと眠気があってね」
心配してくれたのは嬉しいが、理由を正直に言うのはよろしくない。
とっさに言い訳じみたことが口から出た。
そして、目線が変なところにいってたのをバレてないみたいだ。朝比奈さんは俺の言い訳に納得がいったと頷く。
「朝早くは眠いもんね」
「うん。だけど朝比奈さんは朝早くからシャキッと勉強してて偉いね」
今も問題集を開いて勉強している。
俺もつられて教科書を開いてプリントを取り出したが、やろうとしているのは宿題だ。朝の一限目の授業で提出するもの。家では一切やってないので慌ててやっているだけだ。
朝比奈さんはもうとっくに終わって別の勉強をしている。朝比奈さんの開いている問題集を見てみると、学校の副読本として買わされた問題集ではなく、市販されている問題集みたいだ。
宿題やらなきゃと嫌々やっている俺と自主的に問題集を買って勉強している朝比奈さん。天と地の差である。
「ううん。これでも眠気を抑えてるの。うっかりしたら授業中寝ちゃいそう」
えへへと朝比奈さんは耳にかかった髪を手で直しながら朗らかに笑う。
「そう言って、朝比奈さん寝ているところ見たことないじゃん。騙されないよ。俺を騙して寝させようとしているな」
テスト前における情報戦である。勉強してねーわー、やばいわーと言う人ほど勉強してるアレである。他者のテストの点が下がれば、相対的に自分の評価が高くなる。このように学生の間でも足の引っ張りあいが行われ、酷いやつは、試験範囲をわざと違う部分を教えたり、この問題が出るとか適当なことを言って相手を撹乱させたりする。
まぁ、そんな姑息なことを朝比奈さんがしていると言われればノーであるが。今回の場合も、謙遜をしているだけであろう。
「騙してないよ―。それに月見里君って授業中寝ないじゃん」
「そうだっけ?」
この時間に登校するために、十分な睡眠時間を取ってはいる。
だから、寝不足ではないと言える。眠気を感じなければ、寝る必要もないわけで。寝落ちしていないと改めて言われたらその通りかもしれない。
「うん。全然、寝ているところ見たところないよ。むしろ、誰よりも集中している気がする」
「そうかねぇ……授業を話半分で聞いてる気がするけど」
だが、朝比奈さんの評価は過大評価だと自信を持って言える。確かに、授業中眠ることはあまりないが、先生の話をちゃんと聞いてるのかと言われたら微妙だ。
「うん。だけどずっと勉強しているよね」
「まぁ……それは……暇だから?」
朝比奈さんを見習って、授業が始まる前に勉強しているのだが、宿題が出されていないときは授業の予習や復習をしている。授業の予習をすれば、先生が話をする前に授業の内容を理解していて話を聞かなくても問題がなかったりすることが多い。これ、ゼミでやったことがある!! と言えばわかりやすいか。教科書にそって授業が行われるので当たりまえの話だが。
なので、授業中これは聞く必要性はないなと思ったら、更に先の勉強をしたり問題集を解いたり暗記ものに挑戦したりしている。時間の有効活用とも言えなくともない。
余談だが、先生受けは悪い。そりゃ、人が仕事しているのにそれを無視して自分勝手なことをしているのだから。
「ずるい」
「ずるいって……」
「私達が必死に授業を聞いて理解しているのに、月見里君は鼻歌まじりに先に進んでいる気がする」
優等生の朝比奈さんはしたくても俺の真似をできないのだろう。やったら先生方ショックを受けそうだ。
「それは誤解だ。俺はそんな頭よくないよ。成績だって平均より少し高いだけだし。朝比奈さんに比べるもないよ」
朝比奈さんが嫉妬するものなんてない。成績だって俺と朝比奈さんには差がある。学年でも上位の成績を誇る朝比奈さんが羨ましがる必要なんてない。
「ううん。私は必死に勉強してこれだもの」
えへへと笑うのだが、その笑みは自虐的なものであり陰があった。
何か言うべきか迷った。だが、その一瞬で朝比奈さんの表情は真面目なものに切り替わった。
「月見里君は集中力が凄いの。時々、先生の声も聞こえてないんじゃないかと思うほど、凄く自分の世界に入り込んでる」
「時々、先生に叩かれてるけどね。話を聞けって」
「ふふっ、そうだね。昨日も叱れてたね。珍しく勉強じゃなくて携帯いじってたけど、凄い集中力で」
「昨日はやんごとなき事情がありまして……普段はもうちょっと真面目よ?」
持ち上げれても困るが、遊んでばっかりだと思われても嫌だ。天の邪鬼のような、繊細な男の心に朝比奈さんはわかってるよと微笑む。
「私は集中力がないから羨ましいなって思う」
「はぁ」
「一度でいいから雑念がない世界に行きたいなぁ……」
「ゾーンっていうやつ? スポーツとかでよく聞く」
極度の集中状態のことをゾーンに入ると言う。日本語的には三昧の境地。
集中力が極限まで高まって他の思考や感情、周囲の風景や音などが意識から消え去り、感覚が研ぎ澄まされて活動に没頭できるとかなんとか。
味わったことがないから、イマイチわからないがそんな世界があるらしい。ゾーンに入った者は世界が自分と対象しか存在しない感覚になるとか言ってたのを聞いたことがある。
「うん。月見里君を見てたら、たまにゾーンに入ってるのかなぁって思う」
「ないない。雑念に振り回されているし」
半分くらいは授業を聞いてはいるのだ。聞く必要がないと思えば、聞かずに別のことをやるが聞く必要があるなと思えばちゃんと先生の話を聞くし、ノートも記述する。自分の世界に没頭しているかと聞かれれば、自信を持って否定できるぐらいだ。
「……朝比奈さんは集中できないの?」
とりあえず話を変えてみる。
朝比奈さんの俺への過大評価で俺の胸が詰まりそうだ。
「うん。こういう人がいる状況だと集中できるけど……自分の家とかだったら……」
その集中できる状況を俺との雑談によって邪魔されている気がするが、朝比奈さんの方も俺との会話を嫌がっているようには見えないので、棚にあげてしまっておくことにする。
「あー勉強してると突然自分の部屋の掃除とかしたくなるよね」
テスト前とかでよく起こる現象だ。普段気にならないのに、勉強している最中だと部屋のゴミやホコリが気になって勉強に集中できないなるやつだ。
「え? ………う、うん! そ、掃除! 掃除しちゃうよね!? バリバリ掃除しちゃうぞ!」
朝比奈さんは俺の言葉に一度口を開き呆然としていたが、一瞬で目が瞬き素早く頷き始めた。両手を交互に上げ下げしているのは掃除をしている物真似か。かけっこしているようにしか見えないが。
声が大きく、甲高い声になったことからも、俺の言葉は的外れであると語っているのだが、そのことを追求したくてもできない。
なんと言えばわからないし、聞くには友好度が足りない気がする。
「あー集中力が高ければいいのになー」
そう言いながら、問題集に向き直る朝比奈さんの頭の上にはいつの間にか6の数字が表示されていた。
5の数字だったものが、6になっていたのだった。
……うん?
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