体育祭:準備
授業もすべて終わった放課後。
学校の運動場には、普段よりも多くの生徒が集まっていた。
理由は簡単で、近々開催される体育祭のための練習である。
練習は義務ではないが、学校行事の一環としてクラス学年対抗で行われるため、競争心に火がついた生徒はこうして放課後を使って練習することが多い。
その中に、軍服を着た私とダグラスも混ざっていた。
「それじゃあダグラス、これから八〇〇メートル軽く流すからタイム測ってくれるかい?」
「ええ、分かりましたお嬢様」
私は準備体操をしながら言う。
ダグラスには懐中時計をもたせてあり、タイムを測ってもらう。
できればストップウォッチが欲しかったのだが、さすがにファンタジー世界にはそんな便利なものはないので、懐中時計で代用するしかなかった。
「しかしわざわざタイムを測る必要があるんですか? お嬢様は十分速いと思うんですけど」
「必要だよ。タイムを測ることによって自分が目標とすべきものと自分自身について色々見えてくるんだ。陸上は自分との戦いでもあるからね」
「はぁ……」
ダグラスはよく分かっていないと言った表情で見てきた。
まあ仕方ないだろう。ファンタジーなこの世界では陸上競技の概念すら怪しいものだ。
そんな中で、本気でこの体育祭を陸上競技の場として見て挑もうとしているのは私ぐらいだろう。
でも、私はこの体育祭に心が躍るのを抑えることができなかった。
私は前世で陸上部に入っていたくらいには運動が好きだった。でも、今生では思う存分体を動かせる場は、剣術の訓練と乗馬ぐらいでしかなく、あとはせいぜい家の庭をランニングするぐらいしかできなかった。
だから、思う存分体を動かしていいこの体育祭は私にとって絶好の機会だった。
体育祭本番の日だけでなく、体育祭の練習という名目で運動場を好きにつかっていい期間なのだ。これを逃す手はあるまい。
そう思うと私はどんどんと気分が高揚していき、準備運動する体にも人一倍気合いが入るというものだ。
「やあレイ、元気そうだね」
と、そんな私の耳に聞き馴染んだ声が聞こえてきた。アレックスだ。彼もまた軍服を着ている。
「ああ、アレックス。どうしたんだいこんなところで」
「いや、レイがここで練習していると聞いてね。せっかくだから僕も参加させてもらおうと来たんだ」
「へぇ。ちなみに誰から聞いたんだい?」
「君のファンクラブの子からだよ」
「ああ……」
まあそうだとは思ったが、やはり聞くとどうしても何ともいえない気持ちになる。
どうしてファンクラブの子は私のスケジュールをきちんと把握しているのか。
ちょっと怖くて聞けないがどうしても気になる。
「それで、一応聞くけど僕も一緒に走っていいかい?」
「ん? ああいいよ。私は私のペースで走るけど、それでいいなら」
「うん、いいよ。レイの邪魔をする気はないからね」
「そう、ならいいけど。じゃあ一緒に準備体操をしようか。実は一人じゃ無理なストレッチをダグラスに一緒にやってもらおうかと考えていたところなんだけど、二人で走りたいならちょうどいいや」
私はアレックスに笑いかけて言う。
するとアレックスもまた笑顔で返す。一方で、なんだか一瞬ダグラスが難しい顔をした気がするが、まあ気のせいだろう。
そんな流れで、私はアレックスと一緒に準備体操を行った。その過程で、言った通りアレックスと二人でお互いを背負い合って背筋を伸ばしたり、手を掴んで体を伸ばしたりした。
「よし、じゃあ走ろうか。まずは軽く八〇〇メートルからだけど、アレックスもそれでいいかい?」
「うん、いいよ。それにしても八〇〇を軽くだなんて、さすがレイだねぇ」
「ま、慣れてるからね。それよりも本当にいいのかい? アレックスはそんなに運動慣れしている方じゃないと思うんだけど」
私は前世は主に短距離と中距離を主にしてきた。だから、八〇〇メートルぐらいの距離は慣れたものなのだけど、アレックスは皇族だ。そんなに体を動かしてはいないのではないかと少し心配になる。
「ああ、大丈夫だよ。これでも皇城のほうでは隙を見ては体を動かしてきたから」
「……そうか、ならいいんだけど」
それがアレックスなりの気遣いなのか、本当なのかどうかは分からないが、本人が大丈夫だと言うのなら信じるしかない。
私はアレックスと一緒にトラックへと向かう。
トラックは前世と同じく一周四〇〇メートルほどの距離と見える。つまり、このトラックを二周すれば八〇〇メートルになるという計算だ。
「じゃあダグラス、合図お願い」
「わかりました。では、よーい……スタート!」
私とアレックスはダグラスのその言葉を合図に一緒に走り出す。
中距離走はスピードを出す瞬発力、それを維持する持続力、そしてそれらを保つための心肺能力が求められる競技だ。
それらを発揮するにはキチンとした体作りが必要になる。私は前世の記憶に目覚めてから中距離、短距離を意識した体作りを自然と行ってきたためそこは問題ないはずだ。
だが、アレックスはどうか……
私は走ってから少しして、後方を見やる。
「…………っ!」
すると、そこには真面目な表情でしっかりと走るアレックスの姿があった。
さすがに私のペースにはついてこられず、どんどんと距離は離れているが、無理をしている様子もない。
皇城で体作りをしていたという話は本当のようだ。
私はそれを見て安心し、自分の走りに没頭する。
そうしてしばらくして、私はアレックスに大きく距離を離してゴールした。
「お見事ですお嬢様」
「ああ、ありがとう。それで、タイムはどうだい?」
「ええと……こんなものですが」
私はダグラスが紙に記録したタイムを近くに置いておいた水筒に入れた水を飲みながら見る。
「んっく……ふぅ。ふむ……ま、こんなものかな。それほど鈍っているわけでもなくて安心したよ」
「……? お嬢様は、以前もこうして中距離のタイムをしっかりと測ったことがありましたっけ?」
「ん? ああ、その、まあね」
私は笑ってごまかす。前世のタイムとあまり変わりがなくて安心したのだが、そういえば今生ではタイムを測る機会というものはなかったな。少し迂闊だった。
「……ふぅ……」
私がダグラスと会話していると、アレックスがゴールに到達していた。
アレックスは少し疲れたように息を切らしている。
「さすがだねレイ……みるみるうちに距離を離されてしまったよ。やっぱり、普段から走ってると違うんだね」
「いや、アレックスも悪くないタイムだと思うよ。普通だったら八〇〇メートルなんて素人が走ったらもっと遅いかグダグダになるところだからね。十分アレックスも体が作られているよ」
「そうかな? ふふっ、だったら嬉しいよ……」
アレックスは私の言葉にはにかむ。アレックスらしい、純朴な笑みだ。
「しかし、どうして皇城で体作りを? 確かに皇城では剣術とかの武術も習うだろうけど、中距離とかを走る体作りは普通しないよね?」
「え? だってそれはその……レイと、一緒に走りたかったから……」
「うん?」
アレックスは言葉の後半の方を小さな声で言ったのでよく聞き取れず、私は聞き直す。
「い、いや、なんでもないよ! ま、皇族も体をしっかりと作らないといけないなって、そう思ってただけさ!」
すると、アレックスは何だか慌てた様子で私に言った。
「……? そう。まあ健康には大切だからね体作りは」
私はよく分からなかったが、とりあえずアレックスがそう言っているので流すことにした。
「……本当に罪なお方ですね、お嬢様は」
「?」
ダグラスが呆れたような表情で言ったが、私にはその言葉の意味がいまいち理解できなかった。
「まあいいや。それじゃあ次は短距離を何回か走るかな。アレックスはまだ息を整えてていいよ。あと、ここに水筒を置いておくからちゃんと水分補給しておくこと。水分不足だと倒れる危険性が高いから。いいね」
「即走れるんだ……さすがだねレイ。頑張ってね」
アレックスが地面に座りながら私に言う。さすがにアレックスはすぐには走れる体力はないみたいだ。
私は一人トラックへと向かう。
「ねぇこれ……レイが一回、口付けたんだよね?」
「……言っておきますけど皇子、それに口つけたら皇子と言えど許しませんからね」
「分かってるよそれぐらい……一人で近くにある水道にでもいくよ……まったくレイときたら……」
「……?」
その後方で、ダグラスとアレックスが何かを話しているようだったが、距離があるため私にはよく聞き取れなかった。
それにしても、やはり体を動かすのは楽しい。体育祭では、全力で体を動かせる。はやく体育祭が来てほしい。
私は体育祭の日を楽しみにしながら、クラウチングスタートの体勢を取って、短距離走の練習を始めるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます