裏庭ランニング

「今日は皇城のほうからお客様がいらっしゃいます。できるだけ部屋で大人しくしているのですよ」


 その日の朝、私は母からそう忠告された。

 公爵家である我が家には貴族のお客様が来るのは珍しいことではない。

 だが、公爵という立場ゆえ、大抵は目下のものが来ることが多いため、対等または目上の客となると珍しい。

 今日は、どうやらその珍しいことが起きるらしい。


「わかりました」


 私は素直に頷く。

 だが、母は未だ私を信じられていないようで、軽くため息をついた。


「まったく……本当に大人しくできるのでしょうか。先日のパーティでさっそく恥ずかしい姿を見せてしまったというのに」


 どうやら私のパーティでの行為は、私の「お転婆」として解釈されたようだった。

 まあ確かに私もあのときの行動はレディらしくないと後々反省した。

 が、それがいつもの行為ととられるとは、どうもレイ・ペンフォードという少女の周囲からの評価は思った以上にひどいらしい。


「まあまあ、いいじゃないか。私は弱い者を助ける貴族らしい振る舞いだと思うがね」

「あなたがそう甘やかすから! 女性は男同士の喧嘩の仲裁に入ったりなどしないものです!」

「ま、まあそれはそうだが……」


 少なくともこの国の第三皇子を弱い者扱いはちょっとどうなのだろう。

 この場ではどう考えても母のほうが正論に思えた。

 その後も、私は母の小言を聞きながら朝食を終えた。



 それからしばらくの間、私は部屋で一人過ごしていた。

 主にしていたのは、この世界についての勉強だ。

 私が今いるのは、オルトロス帝国。世界最大の版図を誇る帝国だ。領土だけでなく、国の豊かさや、軍事力などから見ても、間違いなくもっともこの世界で繁栄していると言っても過言ではないだろう。

 つい最近まで隣国のスパルタイ王国と戦争状態にあったらしいが、今では停戦協定を結び平和を享受している。

 帝国がその豊かさを維持できているのは、実力のあるものなら身分を問わず取り立てる代々の皇帝の方針があると言われている。

 一応、周辺諸国のように身分社会ではあるのだが、各分野において目覚ましい才覚があれば、例え貧民の出だとしても、大きく出世することができる。

 その最たる例として、我が国最大の学校である聖ユメリア学園を上げることができるだろう。

 勉学、運動、魔法など、とにかく才能があればどんな身分のものでも入学することができ、学園を出たものは将来が約束される。

 それは、私もよく知っていたことだった。なぜなら、聖ユメリア学園は、『エモーション・ハート』の舞台となる学園であり、平民である主人公が入学するところからスタートするからだ。

 その学校に、原作通り進めば私も入学することになる。

 最初、その学校に入学しなければ私は平穏無事に過ごすことができるかもしれないと考えた。が、その考えはすぐに捨てた。

 いくら自分の平穏のためとは言え、私に期待してくれている父や母を落胆させるわけにはいかないし、私が私としてよりよい人生を送るためには聖ユメリア学園に通う必要があるだろう。

 多少のリスクがあったとしても、通うべきだと私は考えたのだ。

 それに、学園生活が楽しみ、という純粋な私の期待もある。私は前世では常に周囲の女子からの羨望を浴びる生活で、対等な友人関係というものをなかなか持つことができなかった。

 しかし、この世界は違う。この世界では、私は確かに公爵の娘という選ばれた出自だが、それと同等の貴族は他にもいるし、学園では純粋な能力で判断される。つまり、私が望んでいた「女の子らしい生活」を送るチャンスなのだ。

 そう思うと、私は期待に胸を膨らませることを抑えられなかった。


「……ふぅ」


 そんなことを考えながら、私はそれまで座っていた机から立ち上がり、窓の外を見る。

 窓の外からは玄関を見下ろすことができ、その玄関には大きな馬車が止まっていた。

 どうやら私が勉強している間に、お客様はこの屋敷に到着したらしい。

 なら、私はしばらくこの部屋でじっとしていればいい。母に言われた通りに、黙って。


「…………」


 コツコツと、時計の音が部屋に鳴り響く。

 部屋は壁が厚いのか、あまり外の音は聞こえてこない。

 静かな、私だけの空間。


「……暇だ」


 暇だ。暇すぎる。

 私は正直、じっとしているのは苦手だ。前世では常に体を動かしているのが好きで、それが高じて陸上部に入ったぐらいだ。

 ああ、体を動かしたい。さっきまで座って勉強をしていたから、尚の事その欲求が高まっている。


「……少しぐらいなら、いいかな?」


 少しだけ、少しだけなら外に出て体を動かしてもいいのでないのだろうか?

 お客様はきっと、来客室にいる。

 ならば、裏庭にこっそりと行って、少しばかり自然と戯れても問題はないのではないか。

 よし決めた、そうしよう。

 私は決断すると、動きやすい服装に着替え――と言っても、短めのスカートにしただけであるが――部屋の外に出た。

 そして、こっそりと裏庭に向かう。

 途中、何人かメイドと出くわしたが、ニッコリと挨拶を交わしただけで、特に咎められることはなかった。

 当然だ。別に自室謹慎しているというわけではないのだから。何かを言われるはずもない。

 そうして、私は裏庭へと訪れた。

 我が家はなかなかに大きい。それゆえ、裏庭もかなりの広さを持っている。

 整えられた芝生に、ところどころにある彫像。綺麗に整えられた花畑。

 それが我が家の裏庭だ。正直、私の前世の庶民的感覚では立派な庭園なのだが、庭園は庭園で別にあるのだから驚きだ。いやあ、豊かさというのは凄い。

 とにかく、私はそこで軽く体を動かすことにした。

 まずは準備運動をしっかりとし、そして、軽く走り出す。

 予定としては、この裏庭を適当に走り回るつもりだ。これと言った運動器具があるわけでもないし、さすがに木登りをするのは淑女としてどうかと思うので、それぐらいしかできることはないからだ。

 でも、それでいい。転生してから、ろくに運動ができていないので、まずは軽く流すぐらいがちょうどいい。


「ふっふ、はっはっ」


 私は軽く走り出す。そして、広い裏庭を大きく周回する。

 うん、軽く走るだけでも気持ちのいいものだ。やはり運動はいい。

 私は爽やかな気持ちになり、ランニングを続けた。


「……あの」


 と、そうやってある程度ランニングをしていたときだった。小さな声が、私の耳に入ってきた。


「ん?」


 私は足を止める。そして、声の方向を見る。

 すると、そこには驚くことに、あの第三皇子、アレックスがいるではないか。


「……アレックス皇子、ですか? どうして、こんなところに……」

「あ、あの、僕は家庭教師の先生がこの家を訪れるから、見識を広めるために一緒についていきなさいと言われて来たんです……でも、先生は少し大切な話があるから、公爵様と二人きりになりたいと言ったので……それで、僕はこうして屋敷を見て回らせてもらってて……」


 その口調は、とてもおどおどとしたものだった。

 見るからに、自分には自信がない、といった様子だった。


「あの……あなたは、もしかして、先日のパーティで僕を助けてくれた……」

「……先日は、お恥ずかしいところをお見せしました。ペンフォード家が長女、レイ・ペンフォードです。どうかお見知りおきを、皇子」


 私はこの場ではさすがに名を名乗らないのは失礼にあたると思い、膝を折り挨拶をする。

 すると、アレックスは嬉しそうに私の元へと駆けてきた。


「やっぱり! あの、あのときはありがとうございました! 僕、弱虫だからいつもお兄様達にいじめられてて……それで、あのパーティ会場でもいつものようにいじめられて……そんなとき、あなたが助けてくれたんです。そのときのあなたの姿、その……とても、格好よかったです!」

「……ありがとうございます、皇子」


 アレックスが嬉しそうに私に言う。

 正直、女の子として格好いいと言われると複雑な気持ちになるのだが、そこは生前そう言われ続けた私である。

 そこはさらりと流し、笑顔で礼を言った。


「……ところで、レイさんは今何をしているんですか?」

「レイ、でいいですよ。それに、敬語を使わなくても大丈夫です。あなたは皇子なのですから」

「うん……分かりました……じゃなくて、分かった。あ、でもだったらレイも敬語じゃなくていいよ。だって、別にそんな歳離れてるってわけでもないでしょ?」

「……ですが」

「いいから! 僕は七歳だけど、レイは?」

「……七つです」

「ならいいと思うな! ほら、レイも普通に話して!」

「……分かった」


 意外とグイグイとくるな……あのとき、正直すごく弱々しい子だと思ったのだが。

 それとも、初めて同年代の友達ができそうで浮かれているのだろうか。まあ確かに、その気持ちは分かるところはある。

 ここで断ると後々に響くだろうし、私は素直に受け入れることにした。


「ありがとう、レイ! ところでレイは、さっきまで何やってたの?」

「……走っていた」

「走ってた? それだけ?」

「ああ。少し体を動かしたくなってね。それで、軽くこの裏庭を走っていたところなんだよ」

「へぇ……ねぇ、僕も一緒に走っていい?」

「え!? 皇子が!? 私と!?」

「うん! あ、皇子じゃなくてアレックスって呼んで欲しいな!」

「……アレックス皇子で許してください」


 正直タメ口ですら大分譲歩した感があるのに、名前まで呼び捨てはちょっと恐れ多い。

 というか普通に怖い。初対面ではないけれど、もうちょっとこの皇子は立場関係というものを学んだほうがいいかもしれない。


「むー……わかった。それで、僕も一緒に走ってもいい?」


 アレックスは少し不満げな顔をしながらも頷き、そして再度聞いてきた。


「……別に、アレックス皇子からしたら面白いものではないと思うが……」

「ううん、そんなことないよ。僕も走ってみたいんだ」

「……どうして、そこまで?」

「その……実は僕、君に助けられたあの日から、ずっと君に憧れていたんだ。自分を顧みず、自分よりも上のものであろうと弱い者のために立ち上がって助けてくれる姿は、お父様や先生がいつも僕に言ってくれる“強き者のあるべき姿”そのもので……だから、僕は君みたいになりたいんだ!」

「…………」


 力説するアレックスに、私は少し言葉が出なかった。

 なんというか……この子はそれでいいのだろうか。確かにこの皇子はとても気弱で、人の上に立つには自信とかが足りていないんだと思う。

 でも、それを目下の、しかも女の子から学ぼうなんて、プライドとかないのだろうか。

 ……とは言え、ここで断ればもしかしたら我が家の皇族との関係にヒビが入ってしまうかも知れない。

 私が女の子らしくありたいという気持ちには反するが、ここで断るのはあまりいい選択肢ではないだろう。

 なので、私は彼の気持ちを受け入れることにした。


「……わかった。でもいきなり走ると怪我するかもしれないから、準備体操から始めよう」

「うん!」


 そうして私は、アレックスと一緒に運動することにした。

 初めに準備体操の仕方を教え、その後は一緒に軽く流すように走る。

 アレックスの走る速度はあまり速くなかったが、私はそれに合わせて一緒に走った。

 どうもアレックスは体を動かし慣れていないようで、すぐに息が荒くなった。

 だが、私が「休憩しようか?」と言っても首を横に振って意地でも走り続けていた。

 どうも、わりと根性はあるあらしい。

 私はそんな彼の姿に、昔陸上部で後輩を教えていたことを思い出した。

 そういえば、こうやって私になんとかしてついてこようとする後輩もいたっけなぁ。大半の私目当てで入った後輩はすぐにバテていたのに、中には頑張ってついてくる子がいたものだ。

 彼の姿は、そんな後輩を思い起こさせるものがあった。

 それがなんだか嬉しくて、私は彼と一緒に走り続けた。

 うん、誰かと一緒の走るというのも、なかなか悪くない。


「何をやっているのですか! レイ!」


 そうやってある程度彼と走っていたときだった。母の、鋭い声が聞こえてきた。


「お、お母様……」


 そこには、お母様とお父様、そして知らない大人の男性が一人いた。恐らく、彼がアレックス皇子の家庭教師なのだろう。


「部屋で大人しくしていなさいと言ったでしょう!? それが、こんなところで走って……しかも、アレックス皇子まで一緒じゃないですか!? あなた皇子に何を!?」

「ま、まってください公爵夫人! こ、これは僕が彼女に頼み込んだことで、彼女は悪くは……」

「いいや、これは私が悪いんです、お母様」

「レイ!?」


 私は私を庇おうとするアレックス皇子の前に立って言った。アレックスはとても驚いた表情をしている。


「確かに彼から頼まれたかもしれません。でもそれを断りきれなかった私に問題があります。なので、罰は甘んじて受けますお母様」

「そんな……悪いのは僕なんです! 公爵夫人!」


 私もアレックスも下がらなかった。

 悪いがここで引き下がるわけにはいかない。

 ここで皇子が悪いことにしてしまえば、それこそ我が家の恥になってしまう。それに、私も途中から楽しくなっていたし、監督責任というものから考えれば叱責を受けるべきは私だからだ。

 そうやって私達がお互いをかばい合っていると、「ふははははははは!」という笑い声がした。

 お母様の後ろでことの成り行きを見ていた、アレックスの家庭教師の先生だった。


「夫人、その程度にしてあげなさい。いいではないですか、子供同士が仲良くなって一緒に遊ぶ。そこに何の問題があるでしょうか」

「で、ですが……」

「ならこうしましょう。皇子には私から後で言い聞かせます。そちらはそちらで、後で言い聞かせる、というのはどうでしょう? 家の問題は、自分の家で、ということで」

「……分かりました」


 その家庭教師の言葉に、母は大人しく引き下がった。

 私とアレックスは顔を見合わせ、そしてまた大人達を見る。母はまだ納得がいっていないようだったが、父とアレックスの家庭教師は満足げに笑っているようだった。


「さて、皇子。そろそろ行きますよ。ちゃんとご令嬢に挨拶するのですよ」

「あっ、はい!」


 そう言ってアレックスは駆け出す。そして、家庭教師の足元に行くと、私の方を見て、頭を下げた。


「それじゃあ、レイ。今日はありがとう。また、会おうね」

「……ええ、皇子。またいつか」


 私も返すように頭を下げる。そうして、アレックス皇子は家庭教師の男に連れられ、我が家を去っていった。

 その去りゆく馬車の姿を、私は馬車が消えるまで見続けた。

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