06 目を覚ます瞬間

6




 演劇を観終えた優美と渚は、土手の上を歩いていた。興奮を少しずつ冷ますように、冬の乾いた微風が吹いている。今のふたりにはそれが、とても心地よかった。

 充足した気持ちでいっぱいの優美。渚も晴れやかな顔で両腕を伸ばしている。


「改めて思うけど、すごい劇だったわね」

「本当にそうとしか言えないよね」

「あたしにもあんな彼氏がいれば、よかったんだろうなぁ」


 不意に渚の口からついて出た言葉に、優美は懸命に笑顔を作った。


「……作ろうと思えばできるわよ」

「実はあたし、男が苦手というか恐怖症なんだ」


 反応できず、渚の横顔をまじまじと見つめる。


「だから、あの海の気持ちがすっごくよくわかった。男だってだけで怖いもん」

「あれ? 前に男と付き合ったことがあるって言ってたわよ?」

「言ってた……かな?」

「言ってた」


 優美の目が細まり、つい断定するような口調になってしまう。しかし、渚は気にも留めずに肯定した。


「優美が言うならポロッと言ったのかもね。あー、あいつね。なんだろ、確かに男臭さは全快のバカだった」

 ――チッ、言いたいことを言ってくれるじゃねえか!

(しっ。静かに!)

「でもね、いろんな面で不器用だけど優しくてさ、裏表もなさそうだったし、憎めない奴だったよ。こういう言い方は誤解を生むかもしれないけど、ちょっと女っぽいところもあったし」

 ――ああ、あれか……。


 ツメを磨いてピカピカにしてみたり、リップの代わりに姉のグロスを塗ってしまったり、でもヒゲは生やしてみたり。極めつけはスイーツが大好きで、1週間の大半がスイーツ巡りメインにしてみたりなど、普通の人間なら不可解とも思える行動を豪篤はしていたのだ。


(擁護もクソもないわね……)

 ――なんも言えねぇわ……。

「ごめん、変な言い方だよねー。男らしい外見なのに、女っぽいって」

「世の中にはそんな奴もいるわよ。気にしない気にしない」

「そう? あいつには悪いことをしたと思ってる。だって突然、難癖に近いことを一方的に言って、フッたんだもん。あたしが同じことをされたら、藁人形に五寸釘を夜な夜な打ち込むね」

 ――おまえはやるんかい。帰ったら、同じことしてやりたくなってきたぞ……!

(まあまあ)

「今謝りたいのはあいつかな。本当、申し訳ないことをしたから」

 ――え? いやいや、俺なんかより……なあ?

(違う違う違う違う違う違う)

 ――ダメだ。聞いちゃいねぇ。


 渚の今さっきの言葉が、優美の頭の中で繰り返される。

 渚は気にせずに雑談を続けているが、優美の耳にはひとつも届かなくなった。怒りと悲しみが脳内を駆け巡り、隅から隅まで支配していく。頭に血が集まり、燃え盛る火のように熱くなった。そして――


「そのバカはいいのよ! 今、謝るべき人がほかにいるでしょうが!」

「どうしたの突然……」


 目を丸くする渚に構わず、優美は怒りと悲しみが増幅していく。


「まだわからないのっ? アンタにとって美喜は、そんなちっぽけな存在だったわけっ?」


 優美は前に回り、渚の胸ぐらつかんで力任せに引き寄せる。


「美喜……あっ」


 どこか濁っていた渚の目が、健全な光を取り戻す。それとともに、優美の怒声とツバが、ようやく事の重大さを知った渚の顔に降りかかる。


「美喜さんのことをちゃんと見てた? あの娘(こ)、私たちにあなたとどう接すればいいかわからなくなって相談してきたのよ。どれだけあの娘(こ)が思いつめているかわかる? 私しか見えなくなったアンタを、誰よりも一番心配してたのよ! いい加減、目を覚ましなさい!」


 優美は渚の体を大きく揺らし続ける。

 やがて、渚の目から無数の涙がボロボロ落ちてくる。鼻をすすり上げ、両目が一段と強くつられた。のどの奥では、声にならない声が、絶えず上げられていた。

 優美は揺するのをやめた。そっと胸ぐらから手を離すと、見るともなく虚空に視線を送った。




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