10 住人たちの語らい


 優美と豪が対峙して10分は経とうとしていた。

 優美は、豪に対して横顔を見せている。腕を組んで表情は険しく、苦虫を噛み潰しているようだ。

 豪は格好こそ相変わらずだったが、表情そのものは真面目である。妹がこちらを向いてくれるのを、辛抱強く待っていた。

 先にしびれを切らしてきたのは、豪篤と彩乃だった。


 ――なあ、いい加減にしろよ。せめて兄貴の目を見てやれよ。


 豪篤の進言を優美は、ギリッと歯を鳴らして応える。


 ――もうこの際、私みたいに抱きしめてさ、頭をなでてあげればいいんじゃないかな。


 彩乃のアドバイスを豪は眉をしかめ、小さく舌打ちをして応える。


 ――いつまでもこうしてるわけにはいかねえだろ。

 ――ちょっと変化球かもしれないけど、ほっぺを手のひらでこねてびよーんって伸ばしてみるのもいいかもっ。

 ――一歩踏み出してみろよ。兄貴の言葉だけど、『勇気を持て! 声に出せ! 気持ちで相手をぶん殴れ!』を実践してみろって! なんなら、姉貴が言ってたとおり、本当にぶん殴ったっていいんだ!

 ――でさ、目の疲れを取るツボがあるんだーって言って、手加減気味のアイアンクローをかけてあげるとかねっ。あと、首とかもツボの宝庫だから、押してあげてマッサージに持ってけばいいんじゃない? あとは全身マッサージで身も心もほぐれたところで――

「うるさいっ!」「うるせえッ!」


 ハッとして顔を見合わせるふたり。


「ご、ごめん。アンタのことじゃないから……」

「あ、ああ……」


 ふたりの間にどぎまぎした空気が流れる。


「……そっちは豪篤の奴がワーワー言ってんのか」

「……うん。そっちは姉さんが何か言ってるの?」

「そうなんだよ。わけのわからんことをベラベラ言ってんだ」

「ふふ、姉さんらしい」


 久しぶりに見る優美が漏らす笑みに、豪の口元も自然と緩む。

 しかし、豪の様子に表情を改め、優美は腕を組み直した。


「で、今さら何よ」


 場が凍りつくようなひと言が、優美の薄い唇からはっきりと言い渡される。豪にとっては、冷えた手で心臓を鷲づかみされたようなものだ。たちまち表情を硬化させた。


「そんな言い草ってあるか」

「ありだと思うけど?」


 底冷えしてしまいそうな豪の声だったが、優美はまったくひるまない。


「早く言いなさいよ。私は男に指図されるのが大っ嫌いなの」

「テメェ!」


 拳を作って一歩前に踏み出した豪を、彩乃が心中から懸命に呼びかけた。


 ――豪ちゃん、抑えて抑えて。

(しまった。俺としたことがッ……)

 ――まだ大丈夫。豪篤もついているんだから。ほら、おでこに手を当ててみな。


 豪は拳を振りほどき、手を額に当てて目を閉じる。

 優美は豪に容赦なく氷のような視線を注ぎ、黙っているだけだ。


「……俺のせいだよな。俺だけでなく、男さえも嫌いになった原因は」


 豪は顔を上げて優美の視線を真っ向から受け止める。優美の真一文字に結ばれた唇がピクリとも動かない。


「こんないい加減な奴じゃ、そりゃおめぇにも嫌われるわな」


 余裕があるように見せたいのか、自嘲気味に笑ってみせる。


「この際はっきり言ってみろよ」


 少し挑発めいた口調で促してみる。すると、目に着火したかと思うほど、優美の視線が熱くなっているではないか。やがて、口から火炎のごとく言葉が噴き出してきた。


「そうよ、男なんて大っ嫌いよ! バカやって、バカなことに夢中になっちゃって。一向に大人にならない子どものまま。夢見たり、格好つけてばっかり! 何がロマンよ! 何がこだわりよ! 意味わかんないっ。なんで私だけ見てくれないの? 私は大事じゃないの!?」


 しまったと言わんばかりに両手で口を押さえる優美。


「……そうか」


 豪がおもむろに土下座をする。


「顧みてやれなかった俺が全面的に悪い。今さら謝っても許されないかもしれない。でも、謝らせてくれ。おまえのことを気にかけてやれなくて――大事にしてやれなくて、本当にすまなかった」

「……」

「言いたいことはこれだけだ。俺がいなくても、おまえはもうひとりじゃない。元気でな」


 豪はスッと立ち上がると、踵を返してリビングから出て行こうとする。


「ちょっと、待ちなさいよ!」


 首だけ優美のほうに向けると、目を瞠(みは)った。すでに眼前に優美が移動していたからだ。


「またアンタは私のことを見捨てる気? それじゃ、今までと変わらないじゃない!」


 優美の鬼気迫る表情に、少し当惑しつつも持論を述べた。


「いまごろ兄貴面したって、うれしくもなんともねぇだろ」

「あほ―――っ!」


 優美の平手が飛ぶ。


「謝るだけ謝ってもう出てきません? 何言っちゃってんの、この自己満野郎!」


 今度は反対側の頬を張る。


「罰として月に2回はどこかに連れて行くこと! わかったわね!?」

 ――おいバカ、やめろ!


 豪篤の声はわずかに届かず、答えを逡巡していた豪のみぞおちに、優美の拳がめり込んだ。


「……」


 完全にノーガードだった豪は、白目を剥いてその場に倒れ伏した。


「あっ」

 ――言わんこっちゃない……。




 * * *




 ソファに寝かせられていた豪が目を覚ます。かたわらには優美がおり、物憂げな顔をしていた。


「あ、気がついた……」

「ずいぶんとたくましくなったな……」


 まだみぞおちが痛むらしく、豪の微笑みが弱々しい。


「さっきはごめんなさい!」


 土下座とはいかないものの、それに近い形で頭を下げる優美。


「俺もさっきはすまねぇ。あれは、だれがどう見たって逃げてるようなものだ。……そんなときこそ意識の中にもぐってる奴が、注意してくれればいいんだがな」

「姉さんは何も言わないの?」

「一切な。まあ、意識の中なら殴られてもダメージは喰らわねぇし」

「でもね、わ、私だってか弱いままでいたかったのよっ?」

「その気持ちはわかってるつもりだ。俺だって、なりたくて巨乳になりたかったわけじゃねぇからな」

「……嫌味にしか聞こえないわ」


 優美の目に殺気が宿る。


「わりぃ、失言だった」

「もう……」


 頬を膨らます優美に、豪は直球をぶつけた。


「なあ、気になってんだけど、あれほど嫌ってた男に恋をしたってのはどうしてだ?」

「……わからないわ」

「わからねぇか。とぼけてんだか本当にわかってねぇんだか知らんが、俺にはわかった。おまえ、女みてぇな男を好きになったんだろ?」

「っ?」

「図星みたいだな」

「う……うっさいわねっ!」


 冷静に指摘され、優美はそっぽを向く。


「そいつにはいずれ会ってお礼を言わないとな」

「会わなくてもいいわよ!」

「そうもいかねぇだろ。まあ、何はともあれ」


 豪ははにかみながら優美の頭をがさつに撫でる。


「よくやったな」


 優美の中で、出勤初日に浩介に撫でられた記憶がよみがえってくる。


(ああ、そうだわ。この感じ……)


 まだ中学校に上がりたての豪の面影が浮かび上がり、今の豪と重なろうとしている。


(あのころも、なんだかんだで最後は撫でてくれたっけ……)

「明日はがんばれよ! 中にいる愚弟もな!」

 ――おう、任せといて!


 面影が完全に重なる。その瞬間、優美自身の心の扉が、完全に開かれた気がした。

 優美は自信満々にうなずくと、刺々しさをなくした曇りのない笑顔を浮かべた。


「もちろんよ。……兄さん」

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