07 不意打ちの抱擁
6
「おはようございまーす」
ここ数日顔を出さなかった美喜が来店する。
「いらっしゃいませ~。あら、美喜ちゃんじゃない。久しぶりね」
食器を片した直後で、優美はお盆片手に美喜のもとへ赴く。
「前に言ってたネット友達とすっかり仲良くなっちゃてね。毎日遊んでたんだ」
毎日遊んでいたと言うわりには、疲労を感じさせない顔色と口調の美喜。
「そうなの。いい娘(こ)でよかったわね」
「だから」
「だから?」
美喜は口元を緩ませ、もったいつけて小さく笑っている。何も知るよしもない優美は、頭に疑問符を浮かべることしかできない。
「今日はいっしょに来たんだ」
「あら、うれしいわね」
そうは言ったものの、得体の知れない寒気が優美を襲った。
――おい、なんだか嫌な予感がする。今すぐ離れたほうがいい。
(私もそう思ってた……)
「外は寒いし、待たせるのもかわいそうだから呼ぶね?」
「うん。あ、私、飲み物とお手拭の準備をするね」
やや早足で立ち去る優美。美喜は少し疑問に思いながらも、ドアを開けて外で待っている友達を呼んだ。
「入ってきなよ」
「うん!」
「……」
カウンター席で飲み物とお手拭きの用意を終えた優美は、出入り口を黙って見守ることしかできなかった。
この場から逃げ出したいと思っても足がガクガク震え、もう思うように動けないのだ。
その一方で……。
「ねえねえ萌ちゃん、どんな人だろうねっ?」
成実は純粋にどんな人物が現れるのか楽しみで、期待に胸を膨らませている。
「想像はつかないですわね……でも、大丈夫だと思いますわ」
萌は美喜が連れてくる人物なら大丈夫だろうと、物腰柔らかく見守っている。
「……」
郷子は普段どおり、厨房の陰から射抜くような視線を出入り口に送っている。
「はい、どうぞ」
美喜はレジカウンターの近くで、ドアが閉まらないよう押さえて待っている。
「ありがとう」
女が美喜によって開けっ放しだったドアの近くから現れ、店内に入っていく。
豪篤にとって見慣れた白く、鼻筋の通った顔。かわいいというより、美人の顔立ちの――元恋人――杉江(すぎえ)渚(なぎさ)である。
――最悪だ。
「初めまして、杉江渚と言います」
一礼した渚が店内を見回す。
そして、優美と目が合った瞬間、渚の双眸(そうぼう)が限界まで見開かれた。
――おいおい、目が合っちまったぞ!
(わかってるわよっ。体が動かないの!)
――バレたら相当まずいことになる!
(それもわかってる! けど……あっ、来たわ)
渚があっという間に近づき、優美の視界は渚の姿しか捉えられなくなる。
依然として眉ひとつ動かさない渚は、顔を上げて優美を見つめている。
(こ、怖い……)
――何を考えてるんだ……?
正面を向いて固まっていた優美だったが、視線の暴力に耐え切れず、顔を下に向ける。
渚とばっちり目が合う。
――こんなに近くで見たのは、フラれた日以来だな……。
(しみじみしてないで、何か対応策を考えなさいよっ!)
不意に渚の口の両端が上がる。なんらかの表情が顔に表れるのかと思われたが、
「大好きっ!」
と言い放つと、抱きついた。それと同時に、優美が持っていたお盆が床に落ちた。
(痛い痛い痛いっ、何このバカ力っ?)
――運動系のサークルに入らない代わりに、体を鍛えているらしい。
(なんで鍛える必要があるのよっ!)
――暴漢対策だとさ。
(はあっ?)
両肩をつかまれ、力強く引き離される優美。
(つ、次はなんなのよ?)
おそるおそる視線を合わせると、渚は子どものように目を光らせ、頬を赤く染めていた。
(これってどういうこと……?)
――……考えたくないようなことを言われそうだな。
(え?)
――そして、考えたくもない事実かもしれん。
「優美さんっ」
優美の体が驚き跳ねる。
「は、はいっ?」
「あたし、優美さんを見てひと目惚れしてしまったの! 付き合うなんておこがましいことは言わないから、友達になってくれませんか!?」
(えええええ!? どどどど、どうしよう!?)
――「はい」って言うしかないだろ。この肩をつかんでる握力は、並の女じゃない。「嫌です」なんか言ってみろ。まずは、足元をすくわれてマウントポジションに持ってかれる。それから顔面にヘッドバットの応酬を喰らうかもしれん。
(そ、それは嫌ね。わかった!)
「嫌ですか?」
渚の目が捨てられた子犬のようなものになっていく。しかし、肩に込められる力はどんどん増していく。
――そんな見せたことない顔すんなよ、かわいいな。んでもって、そんな力込めんなよ、肩が砕けるだろ。
(代弁してないで何か打開策を考えなさいよ!)
――いやあ、思いつかんな。
(この役立たず!)
優美はあわてて取り繕った。
「いやいや、そんなことないわよ! こっちも渚さんみたいな美人な人と友達になれてうれしいわ!」
「やった! ありがとうございます! やっぱり、男なんかより、女性同士ですよね~」
女装した男なのだが、渚と美喜は知るよしもない。
「う、うん……そうよね」
――確定か。まあ、女受けしそうな格好をしてたが、まさか……。
(これ以上言わないで)
――すまん。にしても、なんで俺なんかと付き合ったんだろうか……?
(知らないわよっ!)
「元気ないい娘(こ)が来てくれてうれしいよー! ほら、渚ちゃんも美喜ちゃんも座って座って」
「あらあら、今の娘(こ)は積極的ねぇ」
成実と萌は、渚のことを好意的に捉えている様子だった。
「よかったね、渚」
「うん! 美喜さんのおかげだよ。ありがとう!」
「わたしのほうこそありがとう。いやあ、美少女同士の熱い抱擁が存分に撮れたからね」
渚は優美を解放し、渚と並んでカウンター前の席に腰を下ろす。
――美喜さんめ、いつの間に……はあーあ、これからどうなるんだか。
(本当、そうよね……あ、郷子さんが呼んでる)
優美は床に落ちたお盆を拾い、初来店記念のチョコレートパフェを厨房へ取りに行く。
すでに作業台の上には、できあがったチョコレートパフェが置いてあった。
「じゃ、持っていきますね」
「まあ、待て」
壁に寄りかかっていた郷子は、作業台をはさんで優美の対面に立つ。
「さっき抱きついてきた女が豪篤の元彼女か?」
「えっ?」
お盆に載せたチョコレートパフェを落としそうになるが、すんでのところで防いだ。
「どうしてそれを?」
「なんとなくだ」
郷子はこともなげに言う。
「それよりも、美喜は自制の利く人物だ。だけど、あいつ――渚は違う。あいつの目は狂信的なものを感じ取った」
思わず生唾を飲み込み、びくびくしながらおどけた調子で言ってみた。
「冗談はやめてくださいよ」
「残念。冗談では、ないな」
郷子がにべもなく断言し、優美の表情が凍りつく。
「何より、近くで見てたおまえがわかってるはずだ」
「は、はい……」
「なんらかの対策を講じないと、後々大変なことになるぞ」
キッとした目で優美をにらみ、郷子は警鐘を鳴らす。
「わ、わかりました……」
その夜。
自室に入った豪篤は照明を点け、座イスに腰かけた。ふう、と息を吐いて伸びをしていると、
――ど、どうしよう!
(なんだよいきなり)
――昼間の渚ちゃんのことよっ。私にベタベタじゃない! めちゃくちゃ話しかけられるし、仕事にならないじゃない!
(うれしくないのか)
――そりゃ、うれしくないと言えばうそになるわ。美人に好かれて悪い気はしないもの。けど、ものには限度があるの。バレる心配だってあるし……そうだ、何か対策とか考えてないの?
(それについてだけど、数日間は様子を見る。それから――)
豪篤は至って冷静に、渚の今後についての対応を語り始めた。
――うまくいくかしら……。
(さあな。やってみなきゃわからんさ)
またひとつ、不安の種が増えた豪篤と優美なのだった。
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