第305話 白百合

たった一人の蹂躙劇を終えた八城を見た生徒十人は何が目の前で起こっているのか分からない。

恐ろしく、歯が立たず、逃げ回る事も出来なくなりそうになっていた化け物相手だった筈だ。

それをたった一人、それも一本の無骨な鉄の塊で退けてみせた。

華麗でもましてや美麗でもない、荒々しく汚らしい技術でもってして叩き伏せた。

そして今、八城の視線は教室を向き歩みだす。

「オヤジ、そっちは終わったか?」

「あぁ、というか教室に居た感染者は殆ど全てが八城の方に向かって行ったからな、やったことなんてほんどない……」

七瀬は不可解な現象に思わず首を捻る。

何故なら一瞬止まった感染者の挙動もそうだが何より、感染者の動きは今までに見た事が無い程不可解だったからだ。

動きが止まり、次に動き出したときまるで八城へ優先順位を決めたと、廊下に取り残されていた感染者の群れは八城へと殺到した。

そして七瀬の予想外は続く。

廊下の奥に立つ息子に似た何か……

あの数を……七瀬では手も足もでなかったあの暴力を、いとも簡単に封殺して見せた姿は七瀬の記憶にある東雲八城とは大きくかけ離れているが、その声は仕草は間違いなくよく知る『東雲八城』息子だ

「おい!オヤジ!大丈夫か?ボサッとしてる暇なんてないぞ、防火シャッターも急場凌ぎだ。いずれ突破される」

「あっ……あぁ、そうだな。八城お前が非常階段で屋上まで登って来た時、校舎の中の様子はどうだった?」

「校舎の中?……そういえば一階部分はかなりの感染者が居座ってたな、二階もそこそこって所だが三階は最悪だ、そんで四階は一番数が少なかった。俺が見たとき校舎内を通って行くのは不可能だった、だから俺は非常階段を通って屋上からロープをつり下げて此処まで来たんだ」

窓の外で揺れているロープを指差す。

廊下は防火シャッターで塞がり校舎内には感染者が蔓延っている。

校舎内から階段を使って下に降りる事は不可能だろう。

「さっき八城が伝って来たロープ、あれで屋上に行って非常階段で一階まで降りよう」

「方法としてはそれしかないか、じゃあ俺が先に上がるからオヤジは下から自分の生徒を落ちない様に支えてやってくれ」

「分かった、上は大丈夫なのか?もし感染者が屋上に居たら一人じゃ厳しいんじゃないか?」

「多少は感染者が居るかもしれないが、俺ならまだ大丈夫だ」

そう言って八城は降りて来たロープを校舎の壁伝いによじ登る。

屋上には人影はなく、下に続く梯子を見ても感染者の姿は無い。

四階校舎から続く鉄扉の向こうには多くの影が見て取れるが、鍵が掛かっているため入っている事はできそうにない。

「オヤジ!上の準備は大丈夫だ!一人目を上げてくれ!」

八城の声と共に一人目の女子生徒が上がって来る。

四階フレグラを飲んでいなければ、足がすくみ動けなくなっていたのは言うまでもないが、女子生徒はそれでも懸命に壁を登り、八城は手を伸ばし一人目の女子生徒を引っ張り上げると、服越しにゴツゴツとした無骨な感触が手のひらに当たった。

それが何かは直ぐに理解した。

手のひらサイズの鉄の塊。

少女が持つにはあまりにも無骨で、似つかわしくない代物だ。

「お前そんな物一体どうするつもりで……」

「変態、勝手に乙女の一物に触れるなんて許されざる蛮行」

少し長い髪の毛に不機嫌そうにムスッとした態度に即座に八城も言い返す。

「乙女が一物持ってたらそれは乙女じゃねえ、それよりお前……」

「私の名前はお前じゃない、私の名前は紬、白百合紬」

如何にも現代っ子という感じに、会話が嫌いなタイプなのだろう、早々に話を切り上げ全世界に対して喧嘩上等と言わんばかりに、睨みつけて来るのは年頃の女子ならではといった所だろう。

だが八城としても追求している暇はない。

また一人、また一人と登って来る子供の手助けをして、最後に父親である七瀬がロープに体重を乗せた瞬間、結びつけていたフェンスが軋みを上げた。

麻縄のロープが蛇の様にのたうち重さの分だけ勢いを増したロープは腐食したフェンスごと食い破る。

八城は重さに引っ張られながらもロープを腕に巻き付けるように食い込ませ

ギリギリの淵で踏みとどまる事が出来たが、最悪は止まらない。

四階教室に続く踊り場は封鎖したが、四階から屋上に続く通路に隔てはない。

感染者は生者の居る場所に集まる習性がある。

屋上に人が増えればそれだけ扉の前に集まる感染者も増えて行く。

そして扉の前に増えれば、扉の脆い部分から壊れる。

つまり、屋上に続く扉のガラスが割れた。

割れただけなら良かった。

ガラスの割れた狭い隙間から比較的小さな人影が水気を伴ってポトリと落ちた。

屋上の緑に塗装された灼熱のコンクリートの上を這いずりながら小さな体躯の感染者は立ち上がる。

遮蔽物のない屋上では感染者にとってビュッフェ形式の食べ放題と変わりない。

手近な生徒の一人である最初の生徒である紬へと歩み寄っていく。

「こっちは手が離せない!お前が撃ってくれ!」

白百合紬が持っていた拳銃は飾りではない。

それを紬自身も理解しているのか紬は即座に腰の拳銃に手を伸ばし、感染者の頭部に向けて狙いを定める。

だが屋上鉄扉の暗がりから日が陰る隙間のない屋上へその姿が明らかになれば、紬が構えた拳銃を持つ手は震えだす。

「私の名前はお前じゃない……それに……この子ユキ……ちゃん?何で……」

ユキと零れた名前が紬にとってどの程度の関係なのかは知らないが、今は誰を気遣う事すら出来る状況じゃない。

ロープの先には父親が辛うじてぶら下がっている。

八城は全筋力をロープに集中させ、後ろで数名の子供が引っ張り上げるのに協力している。

戦える者などいないのだ。

白百合紬が持っている拳銃という武装以外にこの場を切り抜ける方法はない。

「頼む紬!お前だけなんだ!お前だけがこの状況をなんとかできる!頼むから生きてる人間の事だけを考えてくれ!」

必死な八城の言葉に紬はただ小さく否定する為に首を振る。

「だって……でも……まだ生きている、動いてるから……」

「そいつは生きていないだろ!死んで人を殺す為に動いているだけだ!お前の知ってる友達は何処にも居ないんだよ!」

七瀬は未だにロープの先でぶら下がっているため、今八城がロープから手を離すわけにはいかない。

感染者の闖入に怯える子供達の中で戦える武装と心構えを持っているのは紬だけだ。

だが幾ら八城が声を掛けようと紬はさっきまでの強気な態度とは裏腹に、ガラス向こうから一体の感染者に茫然自失に立ち尽している。

「クソったれ!」

八城は片腕でロープを引っ張りながら、足でギリギリに踏ん張りながら空いた片手で刀を抜き放つ。

父親が命を賭けて守って来た生徒をこんな形で失う訳にはいかないだろう。

感染者と紬までの感染者の距離は数メートルとない。

僅かでも時間が稼げれば良いと、八城あらん限りの力で振りかぶった刀を小さな感染者へと投擲した。

投げた刀はまっ直ぐに感染者の中心……刃はその鋭さを伴って人間で言えば心臓のある部分へと突き刺さるが、感染者は身体に刀が刺さったぐらいでは動きを止める事はない。

刀が刺さりその勢いに若干よろけはしたものの、刀が刺さったままの感染者は体勢を整えると平然と紬の方へと歩き出す。

「目の前の相手をちゃんと見ろ!それが人間に見えるのかよ!胸に刀が刺さっても痛がる事も死ぬ事もないんだぞ!」

「でも!でも!この子は私の友達で……ずっと一緒に居るって!」

腕の痛みはとうに限界を超えている。引きちぎれそうな腕の痛みは増すばかりだがこのロープの先を手放す訳にはいかない。

「目を開けて前を見ろ!それは本当にお前の友達か!」

感染者と紬の距離は残り二メートルを切っている。

腕力に組み敷かれてしまえば紬ではどうすることもできないだろう。

「間違わない!だってこの子は、私の友達……見間違うはずがない!」

「なら!本当にお前の友達なら!お前の手で決着をつけてやれ!」

どんなに変わり果てても、顔までは見間違う事はない。

狭い学内で感染が拡大したのならこういう事もあるのだろう。

見知った顔の感染者。

その声がもう届かないと知っていても声を出さずには居られない。

それが友人だというのならなおさらだ。

「やめて……来ないで、私は友達を……撃ちたく……ない」

イヤイヤ頭を振る紬に感染者の歩みは止まる事はない。

「何でお前はその武器を取ろうと思ったのか思い出せ!お前自身が生き残りたいからだろ!今お前が今生き残ろうとおもわなけりゃ此処にいる誰かが死ぬ!お前が出来なきゃ誰かがその役目を引き継ぐ!そうして誰かを犠牲にして誰かが生き残るんだ!」

「誰かが……?」

僅かに視線を上げる紬の先には空虚を蓄えた、それでも見知った顔をした紬の友人が立っている。

「そうだ!お前がやらなくても誰かがやる!それで生き残ったその時思うんだ、あの時自分がってなぁ!俺はそういう思いをした奴を知ってる!だが!今なら!まだ間に合う!」

「まだ……間に合う……?」

揺らぐ視線と微かに強ばった指先に鉄の感触を確かに感じながら、もう一度人間ならざる存在へ紬は銃口を向け直す。

「そうだ!まだ間に合う!今なら誰も死なずに済む!お前しか出来ないんだ!」

一度見て、もう一度目の前の相手を見る。

感染者から伸びて来た手を振り払い、正面に見つめれば夏の太陽が姿を照らし出す。

友人の顔は青白く、身体のあちこちにも裂傷がみてとれる。着ていた服はボロボロに破け今までに見た事もない友人の姿ではあるが紬にとっては紛れもない友人だ。

「ユキちゃん……」

紬が構えた拳銃は真正面に見えるユキと呼ばれた友人の額を捉えている。

変わり果てた友人の何処を撃てばいいのか、紬は知っている。

一呼吸、の後。

一歩また一歩と近づく友人を想う。

楽しい記憶と過ごした時間は紬の判断を鈍らせるが、籠った指先の力は逃げ場を探し出した。

「ごめん……なさい」

手向けの言葉と共に紬は目と鼻の先の友人へ躊躇いなく引き金を引き絞る。

それは紬にとっては生き残りを賭けた始まりの音だ。

八城にとって野火止一華が始まりだった様に、白百合紬にとって東雲八城が始まりだったという些細な違いだ。

撃鉄の衝撃とほぼ同時に炸裂する発砲音と一拍の静けさの後、崩れ落ちる友人の姿を見て紬は握っていた拳銃を落とす。

「……ごめん……なさい……助けられなくて……ごめんなさい」

悔恨を口にしても戻る事のない時間にそれでも呟かずにはいられない。

「諦めて……ごめんなさい……」

身体の力が抜け膝から崩れ落ちる紬を気遣う事も出来ず、八城は上がって来る七瀬に手を貸してようやく教室内の全員を屋上へ引っ張り上げる事が出来たのだった。

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