第296話 錯誤9

「八城〜お客さんが来たわ〜」

警戒色と楽しさをない交ぜにした声音は、此処数週間で聞き慣れた戦いの合図だ。

一華は食べていた缶詰を即座に放り投げ、爪楊枝を口にくわえながら刀に手を伸ばす。

「感染者が来ました!全員急いで撤収準備を急いで下さい!」

急かす八城の声に、しかし住人のほとんどが焦る様子を見せず、午後の休憩の余韻をそのままに談笑混じりに立ち上がり始める。

「早く!皆さん急いで下さい!もう直ぐそこまで来ているんですよ!」

肉眼で見える範囲で感染者は未だ彼方と言っても良い。

そしてだからこそ、住人は油断しているのだろう。

感染者を前に絶対にあってはならない油断が住人に蔓延している。

「八城〜無垢なお客様に構ってる余裕はないわよ〜向こうのお客様は待ちきれないって言ってるわ〜」

自然公園を囲う鉄柵の向こう側には、既に数匹の感染者が張り付いているのが確認できる。

「私達はもう、囲まれているわ〜それに……これは一筋縄ではいかないかもしれないわね」

珍しい事もある。

一華が感染者を前に警戒をしているのだから。

「一筋縄じゃいかないってどういう意味だ?」

「そのままの意味よ、見なさいな。感染者の中に服を来ていないのがチラホラいるでしょう?そいつらは普通の感染者とは訳が違うのよ、だから十分に気をつけなさい!」

真夏の昼下がり八月も中盤に差し掛かった頃合いに一華は真っ先に駆け出し、一刀の元に青い芝を感染者の体液で染め上げる。

「八城!今回は私が引き受けるわ〜八城はその無垢なお客さんを安全に安全な場所までお届けして差し上げなさいな〜」

とびきりの皮肉を利かせた言葉は、残念ながら住人には届かずその代わり、住人たちはようやく自分たちの置かれている状況の重大さに気が付いたらしい。

目に見えて初めて気付いたと言っていいだろう。

だが目に見えて気付いているのでは遅過ぎる。

東出口と南出口付近まで此方を見る様に溜まった感染者の虚ろな瞳が部外者と信じきっている住人たちに告げているのだ。

どれだけ八城が懇切丁寧に説明しようとも、理解しなかった事柄をただの一瞬で理解させる説得力が目に並べられて否が応でも理解する。

『お前らはもう、当事者だと』

住人の誰も彼もが目を白黒させながら、事実を分かっていても目を逸らして来た大人達に単なる真実を直面させている。

骨身に染みて、染み過ぎて色が抜け落ちないほど濃密に植え付ける。

感染者から逃げて来た彼らが、避難所という名のまやかしで安心安全な『無垢なお客様』としての無意味な自覚をいとも簡単に破壊した。

だからこそ、正気を保つ事が出来なかったのだろう。

まず一人が駆け出して、続いて止める間もなくもう一人また一人と計三人が駆け出した。

その判断は根本的思想に基づけば正しいのだろう。

助かりたい、助かる為に動かなければならないと思うのは間違いじゃない。

動かなければ助からないのは事実だ。

だが助かりたい彼らが助かることはないのだろう。

何故なら彼らは最初に動いてしまったからだ。

野火止一華が感染者を引き受ける為に前に出た様に、彼らもまた感染者の少ないと言えど集団の輪から離れてしまった。

「駄目です!戻って下さい!」

必死の八城の叫びは虚しく響き、離れていった三名の背中は遠ざかっていくと同じく、フェンス越しに集まっていた感染者の群れの一部が走り去っていた三名へ引き寄せられる様に追従していく。

「八城さん!私達はどうすればいいんですか!指示を下さい!」

「八城さん!早く!何を迷っているんですか!」

「もうすぐそこまで来てます!早くどうにかしてくださいよ!」

ある意味で当事者だと気が付いた三人はまだマシだったのかもしれない。

彼らは他人任せではなく自身で選んで逃げたのだから

それが半ば狂乱であろうと自身の命を自身で請け負った結果なのだとしたら、八城は素直に尊敬する。

「全員纏まって今は冷静でいる事を第一に考えて下さい。大丈夫です、絶対に俺が皆さんを安心安全に避難所まで誘導しますから」

一回りも年齢の若い八城へがなり立てる住人の言葉に、むしろ冷静さを取り戻す事が出来た八城は心情とは逆に住人へ柔和な笑顔を振り撒いた。

人数が多いとは言え、此処にいるのは全員が大人である事に違いはない。

子供より走る子供の様な大人には違いない。

子供を守る時のように戦う必要はないのだ。

であるなら、楽に状況を打破する事が出来る。

「やるぞ!一華!」

丁度二十体目を切り終えた一華へ声を掛けると、一華は上機嫌に高揚した頬を赤らめながら、振り抜き様に振り向いた。

「なぁに?八城?」

「走るから、ついて来い」

短くそう言った八城の言葉を一華は鍔なりで返事を返す。

八城が一ヶ月を通して学んだ事は、真夏日においての水分補給の重要性。

そして感染から逃げる為には両足を常に動かし続けるという事だ。

「皆さん、水分補給だけはしっかりして絶対に俺から離れないで下さい!」

出来る限り明るく言ったつもりなのだが、住人の大半はポカンとしたままだったが、八城が最初の一歩を踏み出せば彼らも付いて来ざるを得ない。

「私は〜周りの奴をやるから、安心安全に心配無用でお客様を走らせなさい〜」

近づく感染者を一華が蹴散らし、八城は先頭で感染者の隙間を縫いながら走り抜けていく。

あぁ、今なら分かる。

感染者対策の倉庫から出た時、何故一華が『武器を手放すな』と言ったのか。

彼らは武器を一度は手に取った筈だ。

誰しも感染者を知る者であるのなら握った筈なのだ。

避難所へ逃げる為に

家族や自身を守る為に

武器を手に感染者と戦った筈だ。

それにも拘らず、今は誰も武器を手にしようとはしない。

誰かを守る為ならいざ知らず、自身を守る為の武器すらも手にすることをしない。

あまつさえ、武器を握らないにも関わらず自分たちの命が保証されていると勘違いしているのだから笑えない。

だが、何より笑えないのは、何も知らなければ八城も彼らの一人となっていたかもしれない事だ。

だからこそ『東雲八城』が『野火止一華』が『子供達』がこれまでの道で知って来た実情の僅かでも知ってもらう必要がある。

一華の言葉を借りるなら、安心安全なこの道で『無垢なお客様』に環境の実情を目に焼き付ける為に、後ろから感染者の迫る紙一重な安全を享受してもらうのだ。

走る住人に向かって左右から迫る感染者の腕を斬り落とし、斬り飛ばしてもなお呻き声の漏れる首を住人の足下へ蹴飛ばして縺れる両足を動かし続けながら先へと進んで行く。

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