第169話 非凡と偶像5
日が落ち、月明かりが照らした道を時雨は歩き通して深夜に差し掛かった時間帯にようやく目的の場所に到着した。
薄明かりが輪郭を結び、意味を持ったその場所は天王寺にとって懐かしさの余り、口元を覆い隠す。
何故道のりで気付かなかったのかと思うが、それはその筈である。天王寺催花が見た外からの景色など、この番街区に初めて入った時と、出て行ったあの時ぐらいのものだった。
『旧8番街区』奴らの襲撃の為に落ちた『旧』と名が付くその場所は間違いなく、天王寺催花と看取草紫苑が過ごした、楽しくも切ない思い出の地である。
時雨がバリケードの扉を引きずって人一人が入れるスペースを確保して番街区へと入っていく。
不気味な静けさの中時雨は目一杯息を吸込み、誰とも分からない相手に問いかけた。
「居るんだろ!出て来いや!てめえの提案通り連れて来てやったぜ!」
誰も住んではいない筈の建物内で時雨が叫ぶと、一人の人物が建物奥から姿を現した。
「おや?随分と早かったようだね?人の心の掌握は流石に手練手管の元アイドルと言ったところかな?」
時雨にとって薄暗闇から現れた男と顔を合せるのはコレで二度目だが、天王寺はそうではない。
実際に目の前に現れ顔を合せるのは二度目だが、天王寺催花は彼の顔を何度も見せられた事がある。
「じゃあ、人も揃った事だし改めて自己紹介をしようか?初めまして……いやこの場合は二度目ましてかな?看取草紫苑の元彼をやってました『月下かおる』です。ああ、大丈夫だよ、君達二人の自己紹介は要らない、こっちで調べ上げているからね」
真っ暗闇を背後に引っさげたその男は、不気味な笑みを張り付けて何処からともなく現れた。
「こんな所で立ち話もなんだね、何も無い所だけどゆっくりして行ってくれて構わないよ。まぁ俺より詳しい人間も居る様子だしね」
視線はゆったりと天王寺を指し示すが、何かから逃げる様にずっと俯いている天王寺はそれすらも気付いていない。
「おい、催花」
時雨が天王寺へ手を掛けようとしたところで、天王寺はその手を払いのけた。
天王寺はどう言う事かと責め立てる視線を時雨へと打つけるが、時雨は何の事かさっぱり理解できない。
「あぁ!てめえなんだよ!!私の手が汚ねえってか!ふざけんじゃねえ!確かに私は汗クセえよ!だがそれはてめえも大概だからな!」
秋口とはいえ、日中の気温は二十度後半になる事が殆どである。
その汗は染み出ては乾き染み出ては乾きを繰り返し、強烈なスメルを漂わせている。
「あ?なんだよ!不服そうな顔しやがって!言いたい事があるなら言えや!急に手払いのけれたら感じ悪いだろうが!」
時雨のそんな言葉が、天王寺催花の最後の理性の糸を切った。
そう、時雨自身が言っていたのだ。気に食わないなら、殴って黙らせろと。
ツカツカと無言で歩み寄る天王寺を怪訝な目で見つめたが、次の瞬間ノーモーションから放たれた拳が、時雨の脇腹にめり込んだ。
完治していない脇腹からは熱さに近い痛みが身体の隅々まで響き、時雨は思わずその場に片膝を付く。
「ああぁぁぁあああぐっ!痛ぇええええ!クソ!クソ!てめえ!!何しやがる!」
天王寺はポケットに入ったペンの蓋を口で外し、紙が無いので自分の左の手のひらにその文字を書く。
『クソ!』
「ハハッ……てめえ!上等だ!何が何だか知らねえけどよぅ!味方殴って、ただですむと思うんじゃねえぞ!」
左手が『クソ』の一文字で埋まってしまったので、天王寺はペンを左に持ち替え拙い文字で右の手のひらに文字を書く。
『上等!』
その文字は、時雨の短過ぎる導火線に火をつけるには十分だった。
「クソの素人が!雑魚だからって!手加減して貰えると思わねえことだなぁ!」
時雨は勢いのまま、天王寺へ覆い被さり馬乗りになるが、天王寺もただでは転ばない。慣れない手つきで反撃を繰り出し時雨の顔を二発殴打してみせる。
時雨も持ち前の運動神経で拳を二発振り下ろす。
やって、やられて、キャットファイトの様相を呈して数分、体力の有無が勝敗を決した。
「いい拳だが、力が足りちゃいねえなぁ!もっと飯と肉を食ってから出直してこい!」
当然ながら、時雨が勝ち天王寺は床に大の字に倒れていた。
手加減無しの問答無用。
歯向かうのなら敵も味方も関係ない。
素人だろうが容赦はない。
それが時雨の信条であり、ポリシーだ。
「君達は一日歩き通しで此処まで来たのに本当に元気だね」
時雨と天王寺の一部始終を廊下の端で眺めていた月下が時雨に声を掛けて来る。
時雨は反応するのも面倒だと、手に付いた天王寺の汗を隊服で拭き取り余裕しゃくしゃくの月下へ白けた視線を飛ばす。
「こんな事で疲れちまうなら八番隊は勤まらねえよ。それよりだ。てめえちゃんと約束は守るんだろうな」
「もちろんさ、後の事は俺に任せてくれればいい。『藤崎 時雨』さん……あぁ、今は『橘 時雨』だったね。君がここまで歌姫を連れて来た。俺にとってはそれが何よりも難しかった。俺がやったら八城に怪しまれてしまうからね。でも、以外だったよ、あの時は拒否した君が何で今度は協力してくれる気になったんだい?」
あの時とは、孤児院で発砲音が鳴り響いたあの後、月下は時雨とコンタクトを取っていた。
無論最初は八城を裏切る内容に対し時雨は絶対に反対した。だが、状況が変わった今。
というのも、天王寺催花の声が出なくなってしまったという事実が多くを占めている。
連れて行けば無駄死を強いられるのであれば、天王寺催花を7777番街区へ連れていく理由が無いのである。
「私はてめえの指示通り此処に催花を連れて来た。これで、催花は助かんだろ?中央じゃあ、歌姫だなんだって大層な名前で呼ばれちゃいるがよぅ、その前にこいつは単なる私の友人だ。その事実だけは世界が変わろうが今も昔も変わっちゃいねえ。此の四年間で催花に何があったか私には分かりゃしねえが、何処とも知れねえ人の都合で死ななけりゃいけねえ程の奴じゃねえのは確かだ」
「ふ〜ん、でもそれじゃあ君は、八城を裏切る事になるんじゃないのかい?八城はアレだけ大掛かりな作戦を練って『歌姫』を守ろうとしているのに、隊員である君が裏切って良かったのかい?」
「ハハッ!テメエは何も分かっちゃいねえなぁ!」
そう時雨が言った瞬間月下の不気味なにやけ顔が僅かばかり崩れていく。
元では在るが友人と呼び合った仲の八城を分かっていないと言われるのは、幾ら月下と言えども面白くはない。
「大将はそんな柔じゃねえ、それにこの作戦だって『歌姫』が歌えないんじゃ意味が無いつう話だろ?」
「歌えない?それはつまり今の彼女は声が出ないという事かい?」
月下は確認する様に、時雨に押し倒されて今まさに後ろで起き上がろうとしている天王寺催花へ視線を投げ、直に視線を時雨に戻した。
「まあな、何故かは分かりゃしねえが、今のこいつが壊れたスピーカーより使えねえ事は確かだ」
「成る程ね、だから君は『歌姫』が殺されてしまう前に此処に連れて来たと言う事だね」
「声が出ねえ事には、有用性とやらの証明もできやしねえからな」
「有用性の証明かあるいは死か、何方かしか残されていない今の『歌姫』にとって声が出ないのは、些か酷な話だね」
「本人はそれも分かってて、この作戦に付いて行こうとした節があるんだが、まぁ私が、そんな事は許さねえよ」
何処までも不遜な物言いだと月下は思う。
時雨が語るのは、他人の命の所有にも等しい事柄である。
死ぬ事を許さないとは、裏を返せば生きる事を強要しているという事だ。
明日をも見えぬこの世界で、生きる事を強要する事がどれだけ残酷な事か誰もが理解するこの世界で、それでも時雨は自身本来の在り方を否定する事はない。
「こいつには、あっちの世界で負けっぱなしなんだよ。こんな所で、こんな形で勝ち逃げされてたまるかってんだ。私との勝負が付くまでは死なれちまう訳にはいかねえんだよ」
「そうかい。まぁ俺も概ね同じ考えだね。彼女に死に逃げされてしまう訳にはいかないんだ。その点に関しては君と同意見だと言わせてもらおうかな」
「そうかよ、ならさっさと連れてけってんだ。私も時間がねえ。とっとと戻らねえと、作戦開始までに追いつけなくなっちまう」
思わず月下は瞳を見開いた。彼女が何を言ってるのか分からないというよりも、その選択が彼とって信じられない物だったからだ。
「君はまだ戻るつもりなのかい!?」
月下が驚くのは当然の反応だ。
八城の考えた作戦の要である『天王寺 催花』をこの場で月下に明け渡すという事は即ち、この作戦全てを無駄にするという事に他ならない。
人員移動にも多くの物資を必要とする今作戦において、何も出来なかったは通らない。
それは民衆が許さないからだ。
死ぬか成功か、究極の二択は、作戦を始めた瞬間から何方かを選ばなければならない。
そしてだからこそ、『月下 かおる』は『東雲八城』へ死の手向けを送る形で横須賀からの虎の子の一品を横流しにしたのだから。
だがそれを知ってか知らずか、時雨が道中に天王寺催花を失ったと報告した所で、作戦の決行は決まっているのだ。
であればこそ、天王寺催花を連れて来た『橘 時雨』は紛れもない裏切り者である。
ならば時雨はこの場所で天王寺催花と共に、東京中央という場所から消えてしまうという選択を取った方が遥かに効率的と言えるのだが、それでも時雨は首を縦に振る事はない。
それは少し前自身が隊長と呼んでいた、最も許せず許されない存在と同じ事をしてしまうという事に他ならないからだ。
「おうよ、約束は守るのが乙女ってもんだぜ、ほれ、立ちな催花。てめえはこっちだ」
殴ったせいでフラつく天王寺を立たせ、時雨は月下へと頼りない身体を押し飛ばす。
状況を把握出来ていない天王寺は目を白黒させながら、月下の腕の中に収まった。
「いいか?催花、死ぬのは何時でも出来る。生きるのが嫌になるならそれでもいい。だが、私も同じだ。こんな場所で生きるのはクソもいいとこだ。クソみてえな大将とクソ見てみてえな飯を毎日食って、クソして寝るんだぜ!クソもクソったれだぜ!だがなぁ、クソみてえな世界でも、私はそんなに変わっちゃいねえんだ。それにこの世界もそんなに変わっちゃいねえ……と私は思う。平和でも人は死ぬ、突然の別れもあるんだろ、この世界はそれが少し多いだけさ。そうやって私達から見えねえ場所で消えて行く誰かが、何かをやってくれたから、私達はこのクソの四年間を生きてこれた。平和なら気付きもしねえことばっかりだ。平和な世界で私がやってきた事はこの世界では必要とされねえのかもしれねえ……」
コレが今生の別れだと言わんばかりに時雨は天王寺へ背を向ける。
「だから、私は少しだけだが、お前が羨ましい。お前からしてみりゃ、ふざけんなっつう話かもしれねえが……私は四年前に私を置いて来ざるを得なかった」
『藤崎 時雨』は、あの時に置いてきた。きっと平和になっても、終ぞ蘇る事はないのだろう。
片割れは、偶像として
片割れは、歌姫として
求められる役割は似ていたのかもしれないが、蓋を開ければはっきりと突き付けられた。
「てめえはまだ……こんな世界でも歌姫なんだろ?今その声が出ねえなら、お前に出来る役割は此処にはねえ!それから!私は橘時雨だ!藤崎じゃねえ!だからよぅ、今の私『橘時雨』には役割がある。だからてめえとは此処でお別れだ」
どうしようもない、ちっぽけな意地だった。
それでも四年かけてこの『ちっぽけ』な役割を手に入れた。
四年前に『藤崎 時雨』を捨ててきた、だから今度ばかりは捨てる訳にはいかない。
橘時雨だけは、この命と共に最後までやり遂げる。
時雨が一歩踏み出そうとした、だが次の一歩が出なかったのは、袖を掴むか細い手が時雨をその場に繋ぎ止めたからだ。
「ん?どうした?催花?」
思わず振り返った時雨の表情に、天王寺は見覚えがあった。
そうあの時……
「なぁに、私は私のやれるとこまでやってやる。だからテメエも、今の自分がやれるところをやればいい」
ずっと前のこの場所で歌声の響いた最後の夜。
最後に見た『看取草紫苑』の表情は今の時雨の様に柔らかで、天王寺を安心させる為の笑顔だった。
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