第5話 77番街区 橘時雨

77番街居住区内部は争乱のただ中にあった。

建物一階部分には、奴らが雪崩込み逃げ後れた住人は二階奥の部屋に息を殺して押し込められていた。

その部屋から少し離れた場所。

扉の向こうにはには避難民、階段下のバリケードには奴ら、その板挟みの間に一人髪をポニーテール結い上げた少女がバリケードを背に深いため息をついていた。

少女の名前は橘時雨。

元々は藤崎時雨という名前でアイドルをやっていた少女だ。

それも四年前のあの日までの話だが。

彼女は四年前のあの瞬間にアイドルである事を捨てた。

今までの全てを掛けた人生の輝かしき過去は、あの一瞬で無意味にも崩れ去った。

楽屋で待機していた時雨にその知らせを届けたのは腕を抑えながら楽屋に駆け込んで来たマネージャーだったのを覚えている。

だがマネージャーも二十分と経たないうちに時雨を含む関係者に無差別に襲いかかった。

守られながら進んでいくうちに、一人また一人居なくなる人間を見ながら、時雨が感じていたのは恐怖ではなく焦りだった。

戦う方法が分からない。

自分の身をどうやって守ればいい?

そんな焦りが時雨を満たした。

だがその焦りも時雨は持ち前の運動能力と憶えの早さでどうにか乗り切る事ができた。

奴らを殴り。

斬り。

焼き殺す。

そうして生き残る手段を得た時雨が求めたのは次だった。

アイドルの仕事は今の仕事をしながら、次の仕事の準備をする。

そうして動き続けている間だけ、自分が自分でいられた。

水を泳ぐ魚のように、時雨にとって次とは言わば呼吸に等しい意味がある。

だから時雨は停滞を恐れた。

時雨が一番恐れたのは、あの時間が止まったかのような無気力な人間達の一員になる事だ。

だから時雨は次を求めて常駐隊に入った。

面倒だが衣食住に困らず、人から感謝されるのは悪い気分ではなかったし、頭を動かす事より身体を動かしている方が時雨には向いていた。

だが、今の現状に時雨は次を見いだせずにいた。

「終ったなぁ〜私の人生」

住人を守っていた隊員は、奴らに食われたか逃げたのだろう。

三十人居た隊員も、建物の中では時雨を残すのみとなっていた。

そして時雨は見た。

時雨が居住区内の取り残された人間を助けようとするのとは逆に走っていく数名の隊員とその中に混じって時雨が隊長と呼んでいた人間が居た事を。

「あんの!玉無しどもがぁ!クソったれ!今思い返しても胸糞わりい!彼奴ら尻尾巻いて逃げやがった!」

時雨は苛立ちを紛らわせる様にエレベーターホール横の壁を殴りつけると、ジンとした熱に鋭い痛みが身体を伝わる。

激情に思考を割っても仕方ない、今なお一枚壁を鋏んだ向こうには行き場のない人々がひしめき合っている。

安全のためと言って押し込めたが、階段下のバリケードが少しずつ崩れていっているのが傍目にも分かる。

また上にいくか?

……いや上の物を総動員してこのバリケードを作ったんだ、もう逃げる場所も無い。

屋上に出て鍵を閉めるか?

駄目だ。

それこそ下を見た住人がパニックになる。

時間を稼げても、それだけじゃあ意味がない……。

時雨の思考はそんな事をぐるぐると考えるばかりで答えが出る事はない。

そもそもこんな状況に追い込まれている時点で答えなど出ないのだ。

時雨は諦めたように壁に背中を預けながらゆっくりと座り込む。

「ついてねえなぁ〜私が助けに来て、結局は助けを待つなんて、最悪じゃあねかよ!格好わりぃ」

そんな独り言を言っている間にも、奴らは確実に歩を進めている。

椅子が階段から剥がれ落ち、また一つバリケードの壁が薄くなる。

「つっても……こんな僻地に誰が助けに来るんだって話だけどな……」

東京中央から二桁も離れ、しかも最寄りの居住区は研究員が数人居る程度だというじゃないか。

一か八か窓から飛び降りるか?

……それで時雨だけが仮に生き残れたとしても、逃げた隊員と同類になるぐらいなら、ここで戦って死んだ方がましだ。

時雨は奴らの体液に塗れた刀を手に立ち上がる。

バリケードは保って後十数分。

いやもう少し早いかもしれない。

「どっちにしろ、限界か……」

そう言葉にした直後建物に向かって何かがぶつかった音が響くと共に建物自体が揺れた。

かなりの質量を持ったものでなければこんな芸当は出来ないだろう。

「おいおい!次はなんだよ!」

時雨はとにかく住人を上に避難させようと住人を収容している部屋の扉を開けた。

するとそこに、住人に混じって一人の男が窓を割って侵入してきていた。

「てめぇ誰だ?」

その男の歳は二十歳そこそこ。

腰には二振りの刀をぶら下げた奇妙な出で立ちの男だった。

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