第2話 ビフォア・サンセット

「やだなあ。キスぐらいでそんなに驚かないでほしいっすよ。女の子同士のチューなんて、挨拶みたいなものなんだから」

 唐突なキスに戸惑っていると、あさひは笑いながらそう言った。まだ口の中に、あさひの体温が残っている。

「ふ、ファーストキスだったのに……。もっと、こう、遊びとかじゃなくって、恋人と愛しあいながらしたかったのに……」

「なら、今のはノーカンってことにすればいいんすよ」

 される。全然カウントされる。私の初めては奪われてしまった。もう戻らない。

「さ、それより。帰るっすよ」

 そう言って、あさひは廊下を歩きはじめる。私は眉をひそめながら、無言であさひの後をついていった。

 初めてのキスは有栖川先輩と出来たらいいな、という私の妄想は一生叶うことはなくなってしまった。私はちょっと、あさひを恨んだ。


 河川敷を私達は一言も喋らずに歩いている。

 私の頭の中にあるのは、さっきのキスのことだ。何だかあの一瞬、あさひとひとつになったみたいな。そんな気がした。とても不思議な感覚だった。

 私は自分の唇を、指でそっとなぞる。もしかすると、口ってキスのための器官なのだろうか。そんなことを考えながら橋を渡っていると、

「あ」

 あさひが何かに気付いたようだった。私はあさひの目線を追って、橋の下を見る。すると、高校生男子が私達の中学の制服を着た男子を殴っているところが目に入った。

「カツアゲでもしてるんすかね。橋の下でそんなことするなんて、コテコテというか」

 こんなことを黙って見過ごすわけにはいかない。だが、大人を呼んでいる暇はない。ぼやぼやしていると、いじめられている子が大怪我をするかもしれないから。だから。

「……あさひ、カバン持ってて!」

 私はあさひにカバンを押し付け、橋の手すりに足をかける。キスの気まずさなんて、どこかへ消えてしまった。そんなことよりも、今はイジメを止めないと。

 地面までの距離を確認する。この程度の高さなら、私なら飛び降りたところで問題はないはずだ。私以外の誰かが同じことをやろうとしていたら絶対に止める程度の高さではあるが。

「おー。まさかここからジャンプするつもりなんすか。まるでゴリラっすね」

「……次、ゴリラって言ったら、怒るから」

 そう言った次の瞬間、私は橋から飛び降りた。ふわり、と一瞬、重力から解放される。ついでにスカートも重力から解放され、まくれあがる。スパッツを履いていて良かった。そんなことを着地までの数瞬の間に考えた。

 衝撃はかなりあったが、着地は上手くいった。私の眼の前にいる高校生も中学生も、一瞬何があったのか理解できず、目を白黒させていた。中学生の方は多分、一年生だろう。もう夏だが、まだ制服に着られているという感じがする。

「なんだ、テメェ……!?」

 高校生は突然の乱入者である私に戸惑いながらも、凄みを利かせながらそう言った。

「さっさとその子を離して」

 と、着地の衝撃で若干足がしびれながらも、可能な限り冷静に私は言った。

「舐めてんのか、犯すぞコラァ!」

 元号が令和になったにもかかわらず、その高校生は昭和のヤンキーみたいな風貌だった。お兄ちゃんみたいに、昔の週刊少年マガジンの漫画が好きなタイプなのだろうか。いや、今はそんなことどうでもよかった。

 ヤンキーが私に向かって近付いてくる。私も近付き、にらみ合う形になる。

 勝負は一瞬だった。

 相手が私の胸ぐらをつかもうと、その大きな手を伸ばしてきた瞬間。

 私は掌底でヤンキーの顎を思い切り打ち抜いた。

 ガキッ、という手応えと共に、相手はぐにゃり、と地面に倒れ込む。

 どうやら気絶したらしい。口ほどにもない。最近のヤンキーは根性が足りないみたいだ。

 と、後ろから拍手が聞こえてきた。振り向くと、そこにはあさひがいた。当然、私と同じように橋から飛び降りたわけではなく、普通に回り込んでここまで来たようだ。

「さすがは刑事の娘。強いっすね。一撃なんて」

 あさひはそう言いながら、気絶したヤンキーの顔を足で軽く蹴った後、写真を撮っりはじめた。

「何してるの」

「逆恨みされて複数で襲ってこられたりすると面倒っすからねー。念の為、写真撮っとくんすよ。もしもの場合は、女子中学生に一撃でのされた情けない写真が全世界に拡散されるって脅しになるから。ああ、君も撮っとくといいっすよ」

 いじめられていた子に、あさひはそう言った。

「は、はい……!」

 アドバイス通りに、その子もスマホでヤンキーの写真を撮りはじめる。最初は渋々、といった感じだったが、徐々に熱が入り始めたようで、

「いいねえ……! そのみじめな感じ、実にいいよお!」

 カツアゲされそうになった恨みからか、かなりヒートアップしつつスマホで撮影し続けている。さすがにやりすぎだと思ったので、

「ちょっと、君」

 と私が声をかける。するとあさひが、

「あー、調子に乗りすぎたっすね。このお姉さんを怒らせると怖いのに。君もあのヤンキーみたいに顎の骨砕かれちゃうかもっすよ?」

 そりゃあ、私を怒らせるとちょっとは怖いかもしれないが、別にヤンキーの顎の骨は砕いていない。私はあさひに反論しようとしたが、そうするヒマもなく彼は、

「ぴゃ、ぴゃあああああああ!」

 と叫んで、走ってどこかへと消えてしまった。

「あさひ……」

「ジョークなのに。最近の中学生は根性が足りないっすねー」

 あさひはカシャカシャと写真を撮りながらそう言った。私達も中学生なんだけど。

 それはともかく。あさひは何枚も撮って満足したのか、スマホをカバンに入れる。そして、

「ほら」

と私のカバンをぽいっと投げ渡した後、

「正義感が強いのはいいっすけど、こういうことばっかしてると、いつか事件に巻き込まれたりするかもしれないっすよー?」

 お母さんにもよく同じようなことを言われる。それでも。

「正しいことをしなくちゃ。何があったって」

「さすがは刑事の娘」

 と、もう一度あさひはそう言った。その顔は微笑んでいた。


 家に帰り、玄関で靴を脱いでいると、お兄ちゃんが、

「あーっはっはっは! おかえり、我が妹よ! チーズケーキを買ってきたぞ!」

 いつもどおりのハイテンションでそう言った。お兄ちゃんは優しい。うるさい以外に非の打ち所のないお兄ちゃんだ。まあ、うるさいのもお兄ちゃんの魅力ではあるけれど。

「ありがと。着替えたら早速食べさせてもらうね」

「コーヒーでも淹れようか?」

「うん、お願い」

「任された!」

 お兄ちゃんは、ぴゅん、とキッチンへ飛んでいった。そしてすぐに、手挽きのゴリゴリという小気味の良い音が響いてきた。

 私はお兄ちゃんがコーヒーを淹れてくれている間に、自分の部屋に戻り、制服を脱いだ。

 そして、ふと、姿見を見る。

 あさひにゴリラと言われたが私はゴリラではない。……ないよね? 別に腹筋が割れたりはしていないし。だが、平均的な女子中学生に比べたらかなり鍛えている方であることは間違いない。お兄ちゃんにつきあって走ったり、筋トレしたりしたせいだ。まあ、そんな自分の身体が嫌いではないけれど。

 着替えた後で、ダイニングへと向かう。椅子に座ると同時に、お兄ちゃんがチーズケーキとコーヒーを持ってきてくれた。お兄ちゃん自慢の手挽きコーヒーの香ばしい香りがする。ただ、正直、味だけで言うのならネスカフェのゴールドブレンドと大差はない。ゴールドブレンドが80点だとするなら、お兄ちゃんのは78点ぐらい。味的にはギリ、インスタントに負けているぐらいだ。けど、私はお兄ちゃんのコーヒーが好きだった。

 私はまずコーヒーを飲む。ミルクがたっぷりと入っているが、苦味はちょっとキツい。その後で、チーズケーキを一口。うん、おいしい。チーズケーキの酸味とコーヒーの酸味がよく合う。

 お兄ちゃんは、自分の分のケーキとコーヒーを持ってきて、私の向かい側に座った。

「父さんの誕生日プレゼントに何を買うか決めたか?」

「ネクタイにしようかなって」

「そうか、我が妹ながらいいセンスをしているな! 父さんも喜ぶに違いない!」

「普通でしょ、ネクタイ……。……お兄ちゃんは何をプレゼントするの?」

「ウイスキーでも贈ろうと思ってな。マッカランの18年辺りにしようかと考えてる」

「それっていくらくらいするの」

「大体30,000円くらいだな」

「安月給なんだから、もっと程々な値段のプレゼントにした方がいいんじゃない?」

 私がそう言うと、お兄ちゃんは首を振った。

「父さんに憧れてオレは警察官になったんだ。3万程度、安いものさ」

 そっか、と私は言った。やっぱりお兄ちゃんは家族想いの優しい人だな、と思った。

 我が兄はコーヒーを飲み終え、

「さて、これからジムにでも行くとするかな。夕実、お前も付き合うか?」

 私は自分の二の腕をつまんでみる。全然ぷにぷにしていない。そんな自分が嫌いではないけれど。

「今日はやめとく」

「そうか」

 と、ちょっとだけお兄ちゃんは寂しそうな顔をした。


 お兄ちゃんがジムに出かけた後、私は自分の部屋に戻る。

 ベッドにぽすん、と飛び込んだ後、枕に顔を突っ込んで、今日のことを思い返した。

 キスの衝撃で忘れていたが、あさひは、有栖川先輩とセックスしたいのか、と言っていた。

 したい。

 有栖川先輩を自分のものにしたいし、私を有栖川先輩のものにされたい。

 そう。だから。近い内に告白をしよう。いや。近い内なんてダメだ。きっとずるずると告白を後伸ばしにしてしまうから。

 明日だ。明日の放課後、告白をしよう。フラれたらフラれたでいいじゃないか。

 そう決めると、途端に睡魔が襲ってきた。


■    ■    ■


 夢の中で、私はあさひとキスをしていた。幸せだ、と夢の中の私は感じていた。


■    ■    ■


 翌日のお昼。

「私、サイコパスなのかもしれないっす」

 屋上でお弁当を食べ終えた後、唐突にあさひはそう言った。空は曇っていた。

「また、どうしてそんなことを……」

「この前、NHKでサイコパス特集やってたんすよ。で、それ見て、私、いろいろ当てはまってるなーって思って」

「例えば……?」

「飽きっぽくて、自己中心的で、平気でウソをついて……」

「そんなの……。みんな、そうじゃない?」

 私はそう言った。あさひは私をじっと見つめている。私の目を通して、私の心を覗き込んでいるような、そんな気がした。

「確かに、そうかもしれないっすね。でも、他にもそう思った理由があるんすよ」

 あさひは、私の右手を突然つかんだ。一体何を、と思っていると、

「サイコパスは、心拍数が低いって知ってたっすか?」

 そう言って、あさひは私の手を、自分の胸へと持っていった。それも、制服越しではない。服の下へ潜り込ませ、直接、あさひ自身のおっぱいを触らせた。私は驚いて、

「何を……」

「私の心臓、夕実に感じてほしくて……」

 かなり戸惑いつつも、何故か断れなかった。私は頷き、手に神経を集中させた。私自身の心臓はバクバク言っているのを感じる。まさか友達の胸を触る日が来るとは。

「どうっすか……?」

 あさひの胸は見た目通りあまり大きくはなかったが、でも、とてもすべすべしていて、柔らかかった。私の胸とはまた違う感覚。かすかに、そして規則的に、とくん、とあさひの心臓が動くのがわかる。

「感じる……」

「じゃあ、私の心拍数、数えといてくださいっす。始めるっすよ……」

 あさひはスマホで一分間のタイマーをセットして、

「スタート」

 とつぶやくように言った。

 何だか奇妙な一分間だった。学校の屋上で、友達のおっぱいを触って心拍数を確かめている。

 一定の間隔であさひの胸は動いていた。生命の鼓動。とても当たり前のことだけど、あさひは生きているんだと実感する。

 だが。不思議と冷たく感じられた。あさひの肌も、そして、心臓の鼓動も。それは、あさひの心拍数が少し心配になるくらいに少ないから、そう感じたのかもしれない。

 ちょっと強引な体勢であさひの胸を触っていたので、楽な姿勢になろうと、心臓の鼓動を数えながら私は少し移動した。それで手が動き、あさひの敏感な部分に触れたからか、

「ん……」

 と、あさひは少し声を漏らした。

「えっちっすね……」

「そんなつもりは……」

「ジョーダンっすよ」

 そうくすぐったそうにあさひは囁いた。

 そんなやり取りをしているうちに、スマホのタイマーが鳴った。私はぱっと、あさひの胸から手を離す。まだ、あさひの胸の柔らかさが手に残っている。

「で、私の心拍数はどうだったっすか?」

「えっと……。私が数えた限りだと、48……。よくわからないけど、これって少ない方なの?」

「そう。徐脈っすね。サイコパスは心拍数が低い。これも、私が自分をサイコパスじゃないかなって思った理由の一つっすよ」

「けど、サイコパスってアレでしょ? 何か、レクター博士とかみたいな……」

「サイコパスだからって、必ず犯罪者になるわけじゃないっすよ。まっとうに生きてるサイコパスだってたくさんいるっす」

「そっか……」

「……引いちゃったっすか?」

 そう、悲しげな顔であさひは言う。

「まさか。サイコパスだろうが何だろうが関係ない。あさひは私の大切な友達だよ」

「……嬉しいっす」

 あさひは、ガバっと、私に抱きついてきた。シャンプーの甘い香りが私の頭の中に広がる。私も、あさひのことを抱きしめた。

「これからもずっと、私達は一緒っすよ……」

 と、あさひは呟いた。

 しばらくの間ハグを続けていると、あさひは、

「……ちなみに。普通は、脈拍って手首で測るものらしいっすよ」

「へあっ!? じゃあ、なんで胸を触らせたりしたの!?」

「なんでって……触ってほしかったから?」

 そう言って、あさひは笑った。


■    ■    ■


 その日の放課後、私は有栖川先輩のクラスへと向かった。告白の覚悟はもう決まった。心臓はバクバクいっているし、軽く目眩がするし、何なら少し吐き気もあるが、それはそれとして。

 有栖川先輩のクラスを、窓から覗き込む。まだホームルーム中だった。有栖川先輩の席の位置はもう覚えている。有栖川先輩は……そこにいなかった。今日は学校を休んでいたのか。私は何だかホッとしてしまった。そんな自分に少しムカつく。

 私は、何を安心しているんだ、と自分の頬を叩く。やるべきことがただ単に後伸ばしになっただけだ。

 明日こそは告白しよう。そう考えながら、私は帰路についた。川が夕焼けに照らされて、とても美しかった。


 翌日。有栖川先輩が家に帰っていない、という噂が、学校中に流れていた。

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