第8話 生と死の狭間
勢いよく走っていた足も、森のあまりの暗さに少しずつスピードを緩め、次第にはぴたりと止まってしまった。
先ほどまで晴れていて明るかった世界が、急に電球を消したかのように暗くなる。
うっすらと見える木々はなぜか僕を見ているようにも思え、湿気だらけの地面が僕の足の運びを絡みつくように邪魔する。
ひんやりと冷え切った空気も頭に直接流れ込んでくる言葉の時のように嫌な感じだ。
「こんなところで……、あの人はなにをしているんだろう……」
足を止め、辺りを見回してしまったせいかだんだんと方向感覚もわからなくなってきてしまった。
不安からか心臓がドキドキと高鳴り始める。
頭の中はいつの間にかあの人に追いつくのだろうか、という疑問からちゃんと家に帰れるのだろうか、という心配にシフトしてくる。
「す、すみません! だれか!」
必死に足を進めていくうちに、この森が立ち入り禁止でわざわざ関所を設けていた理由も、大人たちが禁止にした理由も理解できるようになっていた。
ぼやっとしていた視界に何かが目に留まる。この状況であればどうしても目に入り、頭がそれを理解しようとしてしまう。
「うわああッ!」
木に寄りかかっている人の形をした何か。もはや面影というものはないが、それは人であったということだけはわかる。そんなものを目の前にして、とうとう脚の力がガクッと抜けてしまい、泥の上に尻餅をついた。
「あ……、あ……」
人の形をしたものを探していたのだから、その形に敏感になっていたことは確かだ。
理由はわからないが、それは左足や左肘から手にかけてまでが無くなっていた。
「……帰りたい」
空を見ようとしても森の葉たちがそれを覆っていた。
「……父さん、……母さん」
こんな星も見えない場所で死ぬのは嫌だ。溢れ出てくる涙を拭って、僕は力を振り絞って立ち上がる。そしてまた歩きだそうとした時、すぐ近くの木の裏側からガサリと音がするのが聞こえた。
「…………!」
身体を強張らせ、もう一度その音がするのを待つ。行動はそれからだ。何しろ、目の前に体の一部が無くなってしまっている遺体を見た後だ。なにか得体の知れないモノがいても不思議ではないことは理解していた。
「…………」
その後、しばらく様子を窺うも、何も音がしなくなった。
もしかしたら普通の人間かもしれないという小さな希望が天秤に乗っかり、声をかけてみようか迷い始める。
「……お、お姉……さん?」
震えきったその呼びかけには返事はない。
そろりそろりと足音を殺しながら進むも、泥のせいで嫌な粘着音が静かな森に響いてしまう。
物音のした草むらに近づく。
耳を澄ませてみると荒い鼻息が聞こえる。最初は自分のものかと一度呼吸を止めるも、それはやはり聞こえてくる。
……誰かが、寝ている?
ゆっくりとその草むらの中をそっと覗いてみる。そこには毛に覆いつくされた見たことのない生物がいた。人間ではないことはわかったし、近くの大木と比べて見ても体格も大きく、か弱そうな動物でもないことはわかった。呼吸をしていることと、何も動きがないことを考えると、やはり寝ているようだ。
僕は生唾を飲み、何もなかったかのように木にもたれかかっている死体の前まで戻った。そして息を殺しながらいち早くそこから去ろうとする。
絵本や物語ではここで音を出して見つかってしまうのが定石だ。でも彼らはまだ助かる余地が何かしらあったりするものだ。今の僕には助かる余地がほぼゼロだ。ここで何か音を出してしまえば、あの毛むくじゃらは目を覚まし、あの死体の横に僕の死体が並べられてしまうのだ。
慎重にかつ急いで歩こうとすればするほど、泥に足を持っていかれそうになってしまう。
ついには段差があったのか、前のめりで転んでしまう。
体中は泥だらけだったが、今はそんなことを気にしている余裕はない。立ち上がろうと地面に手をついたときに、他の人の手と触れた感触があった。
なんだ、とそれを持ち上げて視線を向けたのは賢明な判断ではなかった。
「うっ、うわああああ……!」
それは先ほど寄りかかっていた死体の、切り飛ばされたであろう左手で僕はそれに気付いた瞬間、今までにあげたことがないほどの大声で叫んでしまった。
はっとして口をつぐむも、不思議と先ほどよりもさらに静まり返り、そこは真空の中のようで、空気というものが存在しないような気味の悪さだけが感じ取れる。
その無音の空間に入り込んでくる荒い鼻息。光のない中でも赤く光るその目。体は毛むくじゃらでもしんなりと伸びている刀のような爪。
そいつの目と僕の目が合致した時に、僕はもう死を覚悟する他なかった。
昔、父さんに見せてもらったバイクのエンジン音のような遠吠えをその生物が上げる。
「うっ……、ううっ……」
なんで僕はこの森に来てしまったんだという後悔で頭がいっぱいだった。
両親が死んでしまい、この世に僕を必要としている人なんてもうほとんどいない。それならばもう死んでもいいや、なんて考えたこともあった。それでも僕は、改めて自分の死というものに直面してわかった。
死が怖い。
未知の世界が怖い。死んでも絵本のようにみんな天国で暮らせるなんて作り話だ。きっと僕がここで死んだとしても両親に会うことはできない。星も見えない暗闇の森の中で、その森の一部になってしまうのだ。
「…………」
マリーさんが教えてくれた言葉が頭に響く、人は生きていればこそ、死んでしまった人たちを悼み、敬うことが出来るのだ。ここで僕が死んでしまったら誰が僕の両親を敬うのだ。生かされてしまった命、生かしてくれた命。こんなところで絶やしてしまっていいわけがない。
――僕は、死にたくない!
ただ、僕がどれだけ強くそう思っても、目の前にあるこの現状はどうにもできなかった。
「うう、うあああああああああ!」
その叫びは、森の木々にかき消されてしまいおそらく街まで届くことはなかった。
それでも、生きることに執着した僕の叫びは彼女には届いていた。
「ったく、無茶ばかりしおって!」
聞き覚えのある女性の声。その声のした方へ振り返ってみると、マリーさんが立っていた。少しばかり息を切らしている。
右手がライトの替わりか、眩しい光を放っている。
「ま、マリーさん……!?」
「あまり心配をかけさせるな。私でさえ、この化け物の相手は手を焼きかねん」
対峙していた獣はさらに目を赤く輝かせ、僕とマリーさんを見ている。
「まさか、こんなところにキメラがいるとは……。やはり……」
マリーさんは声に力が入っているのが分かる。
「本気を出す。コーギィ、お前は木の陰に隠れていろ!」
彼女の蒼く綺麗な瞳が、だんだんと光を放つ黄色へと変わっていった。
「いいか、何があったも勝手に動くな。お前ひとりではこの森は抜けられん」
そういって、マリーさんは獣に向かって左手を構えた。
「おとなしくしていれば、お前も死なずに済むぞ。まぁ、お前に私の言葉なぞ理解できるとも思えんが」
獣はお構いなしに吼え、マリーさんへ一直線に走り出した。
「キメラの分際で……、放て!」
マリーさんのその号令と同時に森の暗闇の中に稲妻が走るように何度か光が放たれる。
キメラと呼ばれた獣は吹き飛ばされるも、またすぐに身体を起こし、マリーさんへとその長い爪を向ける。
「断ち切れ!」
マリーさんの声が響き、また一瞬光が放たれたのち、ボトリという地面に何かが落ちた音が聞こえる。
心配になり、影から二人の姿を再び覗く。
双方は向き合って、互いに動きが止まっていた。ただ、キメラの陰から腕が消えていることに気付く。マリーさんの言っていた、断ち切れというのはこういうことだったのだろうか。彼女が、あの獣の両腕を……。
数秒して、キメラは地面にそのまま倒れこんで、マリーさんはふらりと力なく地面にへたりこんだ。
「マリーさん!」
闘いが終わったのだと思い、僕はマリーさんに駆け寄る。
「マリーさん、大丈夫ですか!」
体を揺さぶると彼女はだるそうにそれをやめるように僕の手を掴んだ。
「ちょっと、力みすぎたかも、しれん。少し、休ませてくれ……」
そういって、彼女はそのまま目をつむった。つむるときの目は先ほどの光り輝く黄色の目ではなく、いつも通りの蒼く綺麗な瞳だった。
「……休ませてくれっていっても」
目の前には先ほど僕を襲おうとしていた化け物がいる。生きているか死んでいるか確かめることすら怖いというのに、ここで休むことを考えるなんて無理だった。
「随分騒がしいと思ったら……、あなただったの……?」
また別の聞き覚えのある声。そしてこの暗闇の中に奇妙なほどマッチする長い黒髪の持ち主。探していた彼女が暗闇の中から姿を現した。
「あなたは……」
僕はなんとか生きた状態で彼女に会うことが出来たのだった。
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