第2話 魔女と僕
「朝ですよ」
僕は彼女を起こしに部屋をノックするが、この行為はなかなかに命がけであった。
この家に案内された日の翌朝のこと、つい眠ってしまった僕が朝のまだ陽も昇り始めて間もない頃に彼女を無理に起こそうとした際、それが起きた。
彼女がピクリと体を動かした瞬間に、僕の体は重力に逆らい家の天井へと叩きつけられ、なんだと思う隙さえも与えず重力が戻ったように床に落とされた。
それが三往復したあたりで彼女は、自分がなにをしているのか気付いたようで地面に倒れ込んでいる僕を起こし、軽く謝罪して頭を何度かくしゃくしゃと撫でた。
その謝罪の中で、彼女は自分が魔女の一族の生まれだということを僕に白状した。そして自分の正体が魔女とバレてしまったということで有無を言わさず僕をこの家に監禁した。
その時の彼女の笑顔は誰がなんと言おうとまさしく魔女そのものであった。彼女は僕を家出した不良少年Aだと思っているのか、食事つきで身を置いておく代わりに家事全般を僕にやらせるということで、契約として半強制的にその書類のような紙に署名させた。僕としては、すでに帰る家も無くなっているため、これと言って何も問題と思うことはなかった。
それに彼女は自らを魔女といっても、不思議な力を使うだけで他の人間とこれといって何も変わらず、昔読んでもらった絵本に書かれていたような毒を作っていたり、誰かを呪い殺すような感じはなく、少しばかりわがままなお姉さんという印象の方が強い。街ではあまり見かけることの少ない綺麗な金髪にどこか品のある整った顔つき、普段の彼女からはこれといって邪悪なものを感じなかった。
それから数日、僕は彼女の世話役として、家事を任されている。何度か天井と床を繰り返したこともあるが、目覚ましだって契約上の仕事の一つだ。
「起きてくださいよー」
「……んー、あと少しだけ……、卵が焼けた頃にまた起こしに来てくれ」
「それ、さっき来た時に同じこと言われて、もう卵も焼けてコーヒーも淹れてますよ」
僕がそう訴えると首筋がヒヤリと冷える。
「(それならコーヒーじゃなくて紅茶にして、紅茶が淹れた後に来なさい)」
声なき声が頭に響く。もはや口を動かすのも面倒なようだ。
この頭に直接声が響くのは正直心地の良いものでもなく、これ以上彼女を起こそうとしても無駄だと察したので、僕は一人でリビングに戻った。
古びたアパートの一室だが暖炉もあり、冬の日を過ごすには丁度良い場所であった。
「いただきます」
自分で用意した朝食を一人で食べ始める。
「……紅茶の用意もしなくちゃ」
もくもくと食べて、さっさと食器を片付ける。せっかく淹れたコーヒーは僕が持っていた水筒に移す。
一度ざっと洗い、いざ紅茶を淹れる用意をしようとしたところ、茶葉が切れていることに気付く。
「なくなっているなら言ってくれればいいのに……」
普段の生活の中であれば茶葉を買いに近場の商店まで行くのだが、僕はこの家に幽閉されている身であり、ここは自分の家ではなく魔女の家である。そうそう簡単にこの家から出ることが出来ないのだ。
不思議なことに僕がこの家の玄関扉の取手をつかみ、引こうとも押そうとも、はたまた横に動かそうとしたところでそれは微塵も動く気配がない。それは扉ではなく、取っ手の付いたただの壁があるようであった。
家の主である彼女のみがこの扉を開けられる、僕はそう教わったし、実際に彼女が開けるところも何度も見ているので、ここが壁ではなく扉だという認識に間違いはない。
再び彼女の寝室へと向かう。
「マリーさん、紅茶の茶葉が切れてしまっているんですが……」
マリーさんとはいまだに起きようとしないこの家の主の魔女である彼女の名前だ。ただ、それ以上の名前は教えてもらっていない。
「んー……? それならば買いに行けばいいだろう。小銭がコートのポケットにある……」
柔らかそうな彼女の金髪がチラリと見えるが、モゾモゾとするだけで、彼女は体を起こすことはなかった。
「いや、あの、僕、外に出れないんですけど……」
「あー……、そうだったな」
やっと姿を見せたと思ったが、左手が人差し指を立てて出てきただけだった。
「ほら、扉開けといたぞ」
さすがに若干の呆れも感じながらも、素直に彼女の言いつけ通りコートからいくらかの小銭を持ち、先ほどまで壁の一部であった扉をそれ本来の機能を取り戻したかのようにガチャリと開く。僕は数日ぶりの外気に触れることが出来た。
町の風景は当たり前だが以前と変わらず、犬の散歩をする人、路地で話し込んでいる主婦、パン屋の前で列をなしている炭鉱夫やベンチに座り込んで何かを考えているのかぼうっとしている老人など様々に飾り付けられるクリスマスツリーのようだった。
空は雲一つない晴天。
街の裏口の関所には優しい顔をした兵士が立っている。
その関所の向こうには『暗闇の森』がある。そこは太陽のない世界とも呼ばれていて、立ち入りを禁じられている場所として有名で、許可なく立ち入ることは許されない。僕は一度も入ったことがなかったし、少なくとも両親はそれを許さなかっただろう。数ある関所の中でも常に警備兵が立っているのはここだけだ。
その関所の近くの商店に茶葉の店がある。
「いらっしゃ……」
「お、おはようございます……」
もちろん、両親が生きていたころにも何度も来ている店なので、ここの店主は僕が誰だか知っている。
「コーギィ、あぁ……、なんてかわいそうな子なのでしょうね」
首を横に振りながら目を細めてそうねっとりするように僕に近づいてきた。口調がクドイのは彼女がそういった演劇が大好きだからという話を聞いたことがある。僕はそのクドイ話し方があまり好きではなく、演劇もこの店主のこともあまり好きではなかった。
「どうしたの、今日は、何か困ったことがあればいつでも言ってね、ほら、これ持ってきなさいよ、お代はいいから、何か困ったことがあったら必ず言うのよ。夜は寂しくない? いつでもお茶を淹れに行ってあげるわ。遠慮はしなくていいのだからね」
ひとしきり機関銃のように言葉を放った後で、西瓜ほどの大きさの茶葉の袋を僕に押し付けた。
「あ……、あの……、お金は、あるんで……」
「いいのよぉ~、気にしないでお持ちなさいな!」
素直にお礼を言うことも出来ず、僕は申し訳ない気持ちと疲労感に苛まれながらもそそくさとマリーさんの家に戻った。
「すごい量ではないか、盗んできたのか」
家の扉を開けるとマリーさんはワンピースを羽織っているだけの起きたままの姿で水筒に入ったコーヒーをカップに注いで飲んでいた。
「ち、違いますよ!」
「いや、私の小銭でそんな量の茶葉は買えないであろう?」
「……これは、その、お店のおばさんがくれたんです」
「ふむ……、まあそこに座れ。お礼に私がお茶を淹れよう」
得意げにマリーさんがそういうので、茶葉の袋を彼女に渡して椅子に腰かける。
毛先が外側にはねた特徴的な癖をもつ彼女の髪がふわりふわりと揺れている。そしてまたこちらへ振り返り、その青い瞳が僕を見た。
「どうした、こんなにもらっておいてあんまりな顔じゃないか」
マリーさんがからかうように言う。
「なんででしょうね……」
少し不貞腐れた言い方だったな、と自分でも言った後に感じる。
「まぁ、お茶でも飲めば落ち着くだろう」
キッチンにあったティーポットがふわりふわりと宙に浮き、葉が落ちるようにゆっくりとテーブルに着地する。
「レモンは?」
「……いらないです」
「そうか、気分も変わるかと思ったが」
彼女は座ったまま、人差し指だけを動かしてティーカップを棚から取り出し、自分と僕の前に置いた。
「魔法なんて使わないで、ちゃんと立って取ればいいじゃないですか」
不貞腐れついでに彼女に噛みついてみる。
座りっぱなしの彼女はそれを見透かしてか、にやりと笑って口を開いた。
「立って取るのと労力は同じ。私はティーポットをここまで運んで、ティーカップを用意し、そしてお茶を注いでいる。何かおかしいかな?」
ほわりと、良い香りの湯気が立ち上がり、部屋が甘い匂いに包まれた。
「だって、マリーさんは今ずっと椅子に座っているじゃないですか」
「残念ながら、私は生まれた時からこれが普通。外に出るときは人間のフリをするのが大変なのだから、家にいるときくらいリラックスさせてくれないかね」
さすがにティーカップは手にもって、コクリとお茶を飲んだ。
「別に、それが悪いって言っているわけじゃなくて……」
「初めて見たときはすごく興奮して、子供らしく喜んでいたではないか」
確かに最初見たときは驚きと少しばかりのカッコよさも感じたが、彼女の怠惰なる生活を見ているとなんだか口を出さずにはいられなくなってしまった。
「さて、それでなんで店から逃げるように出てきたのだ。お礼はちゃんと言ったのか?」
「……! み、見てたんですか?」
驚く僕を尻目に彼女は再びにやりと笑った。
「大事な契約者だ。逃げてもらっては困るだろう」
「……」
じっとした目で見ていると彼女は少し言葉を詰まらせながら続けた。
「その、まぁ、実を言うと、扉を開けてしまったことに気付いたのが、お前が出ていってからでね。少しばかり焦ってちょっと見させてもらっていただけだ」
少し照れたように彼女は言うが、僕は彼女から逃げることは出来ないようだ。しばらくはするつもりもないが。
「で、話を戻すぞ。ちゃんとお礼は言えたか?」
「い、言いましたよ! 子供じゃないんだから」
言った後にはっとしたが、彼女の前で強がりや嘘は無意味であった。彼女は僕が何も言えずに走って店を出たことを知っていた。
「そう、それで?」
彼女は淡々と話を続けさせようとする。
仕方なく僕は少し思い返すようにカップを覗き込んだ。情けない自分の顔が紅茶の中でぐにゃぐにゃと歪んでいた。
「……今まで、こんなに茶葉をしかも無料でくれることなんてなくて」
「憐れむあの女性の目が改めて両親の死を思い出させたか」
心を見透かしたように彼女はそう言った。
「……」
僕はまだ彼女に両親のことを話していなかったので、それを知っていることに驚いた。
「……まぁ、それはいい」
「……」
「コーギィ……」
言葉をなくした僕の名を彼女は呼んだ。
「お前には私がいる。寂しがる必要はないぞ。それにな、人は生きていればこそ、死んでしまった人たちを悼み、敬うことが出来るのだ。だからこそ急ぐ必要はない。ゆっくり生きていくのだ。かつ楽しみながらな」
顔を上げると、先ほどまでの顔とは違う、優しい微笑みがあった。
「さぁ、お茶を飲んで今日という一日始めようか」
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