エッセイ「普通に考えてみると(九)」

@SyakujiiOusin

第1話

          普通に考えてみると(九)


                              百神井応身



1.女子アナシリーズ


 鳥取の白兎海岸近くに、白兎神社というのが有るそうで、今年は干支に因んでか参拝者が多かったのだそうです。

 アナウンスに曰く、そこの「ケイナイ」には・・・


 オイオイちょっと待ってくれ。

 境内は、「ケイダイ」って読むんじゃないのかね。

 小学生の読み間違いしやすい漢字テストに出てくる問題ですぜ。

 日本では、兎は可愛らしいものということになっていますが、かの国では狡いという形容詞がつくようです。

 飛鳥尽きて良弓仕舞われ、狡兎死して走狗煮らる。

(飛んでいる鳥がいなくなると、良い弓は仕舞いこまれ、狡い兎が死んでしまうと、猟犬は煮て食べられてしまう。)

 狡兎三窟(こうとさんくつ)・・・意味は辞書で調べてネ!


 たいそう仰天したのでおじゃります。

 ヒトヨを風靡したロカビリー歌手の山下敬二郎さんが・・・と読んだからであります。

 アソウさんは、漢字が読めないと言っていた友情無情(有象無象)の側にいた人達がです。

 ヒトヨヒトヨニヒトミゴロとか、ヒトナミニオゴレヤってのはありましたが、一世を風靡ってのは、近頃出てこない言葉なのかしら?

 世論をヨロンと読むかセロンと読むかというのもありますが、これは別の話。



2.食べ物の好みが変わると


 このところ寒い日が続きます。信州では、非常に寒いのを「凍みる」といいましたっけ。

 凍みるといえば、豆腐を氷らせて作る、いわゆる高野豆腐のことを「シミドウフ」と言っていました。

 子供のころは、このシミドウフというのが苦手でした。うちのサイも同様で、これが食卓にあがることはまずありませんでした。

 年を重ねると、食べ物の好みは変わってくるらしく、今まではどちらかと言えば嫌いな部類に入っていた干し柿が好きになったらしく、お茶の時間になると食べているから可笑しなことです。

 今年なんぞは、干し柿を自分でつくるのだといって柿を買い込んできて、軒先にぶら下げていました。

カラスにとられないようにネットを張ってくれというから、長いものには巻かれろということで、言われるがままそうしました。

 家でつくるようになったものには、味噌・甘酒・豆腐・石鹸・納豆・燻製・お葉漬け・パン・各種ケーキ・ジャム等々いろいろあります。

 お店で買ってくるのと較べれば、原材料費だけでも勝負にならないくらい高くつきますから、全部自前でというわけではありませんが、味と食の安全だけは確かなものだと思います。



3.神社詣でのご利益


 それなりに努力はしているのに、何となく上手くいかない。

或いは、この望みは是非とも叶えたいということで、神社仏閣に詣でる人は多い。

 普段、神も仏も信じていないような人も、そういう場合だけは別なのか、お賽銭をあげて神妙な面持ちで手を合わせ、願い事を叶えて欲しいと祈っております。

 人智を超えた力というものは、信じていないようでいて、どこかで経験上からか在るのだと思っている人が多いようです。

 それは、確かにあるのだと思えます。現に叶えてしまう人がいるのですから・・・

 もし、全く無いのだとしたら、詣でる人は皆無となり、神社も仏閣も歴史的建造物として残るだけになってしまうでしょう。


 ただ、祈れば簡単に願い事は神仏に届いて直ちに叶えられるかというと、それはそうとばかり言えないようです。

 精妙なエネルギーに触れるためには、何らかの手順があるようです。

 人は、意識を向けて見ようとしなければ、そこに有るものでも見えないし、耳を澄ませて聞こうとしなければ、気づきということには結びつかないのではないでしょうか。

 そういうことのできる環境に身を置くということが大事になってきます。


 神社に詣でるのは、大抵の場合お願いのスジがあってということでしょう。

 お願い事をするのであれば、無作法であってよい筈がありません。

 人に頼みごとをするときだって、礼儀正しく丁寧にしなければ聞いてはもらえません。


 1.まず一の鳥居をくぐる前に軽く一礼します。

 2.参道を通るときは、道の端を歩きます。真ん中は、神様の通り道です。

 3.参拝の前に手水をつかいますが、

  右手で柄杓をとって水を汲み、まず左手を洗い清め、次に柄杓を左手に持ち替えて右手を洗い清め、更に右手に持ち替えて左手のひらに水を注ぎ、その水で口を濯ぎます。

  その後、左手に水をかけ、残った水は柄杓を立てて柄杓の柄を洗い流します。

  柄杓を元の場所に静かに戻します。

 4.神殿前では軽く一礼して鈴を鳴らし、何処そこの誰がお参りに来ましたと告げます。

  (神様なんだから、そんなことは先刻ご承知だろうなどというのは、心得違いです。)

 5.二礼二拍手してから願い事を心に響くように唱えます。音に観応するのです。

  このとき、自分の内なる神と合体するようにイメージすることも大事です。

  その後一拝して、神前を下がります。

 6.参道から鳥居を出たら、振り返って一礼します。


  参拝は、できれば午前中に、遅くとも2時までに済ますようにします。

  大勢の参拝者が落としていった罪穢れが払いきれず淀むからだといいます。



4.身の危険を察知して


 おじいさんの会の昼食は、鎌倉山でのローストビーフでした。

 食後に中庭に出ると、植木の枝をリスが飛び回っていました。

 かなり近くまで寄って来るのをみて、Sジイサンが「連れて帰ろうか」と言ったところ、身の危険を察知したのか、リスは逃げ去ってしまいました。

「リスって食えるんですかね~」と聞くと、Oじいさんが「コイツは人を食ったヤツなんだから、リスなら平気で食うよ。」という。

 おまけがあって、「ただコイツは煮ても焼いても食えない男だけどネ。」と言ったので大笑いになった。



5.凄いぞ日本人


 ニュースで知るほどにますます広がる、地震で甚大なる被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。


 私の昨日は、その時間東急東横線の車内で、まもなく中目黒に差し掛かろうという高架の上でした。

 長時間の激しい揺れの後、1時間ほど車内に閉じ込められましたが、皆さんは普段目にする行動とは全く違い、冷静に車内アナウンスを受け止めていました。

 ことの重大さを予見するに足る揺れ方だったのです。

 中目黒駅で全員降ろされ、駅員の誘導で安全な場所へ移動することになったのですが、整然と並び、騒ぐ人は皆無で混乱はありませんでした。


 そこから渋谷駅まで1時間ほどかけて歩いたのですが、そこも鉄道は全て途絶していて、黒山のような人人人の有様。わずかに時々動くバスに頼るよりない状態だったのですが、寒風のなか順番待ちの列に一人として割り込むことなく、近くの人と励ましあって長時間並んでいました。

 1時間半ほど並んで漸く乗り込んだバスも、渋滞のため遅々として進まず、歩くより遅いので、青梅街道に出たところで降車して歩くことにしました。

 同様に歩く人の群れが延々と続くなか、見ず知らずの人たちがお互いに声をかけあい元気付ける様子は、快いものでした。普段考えられないほどの一体感であったと言えます。


 足をマメだらけにして歩きズメに歩き、なんとか家にたどり着いたのは23時過ぎ。

 携帯電話が不通で、数少ない公衆電話も人が群がっていて使えず心配だった人たちに夜遅くではありましたが、無事を伝えました。


 歩いていた道すがら何箇所もで、お茶の無料接待をして労いの言葉をかける親切な近隣住人がいたのも、日本人、まだまだ大丈夫だと意を強くさせるのに十分なものでした。



6.雪のやんだ朝に


 雪の朝 はだしの猫ガ 足の跡 (腰折れ)

 中折れではありません。


 夜来の雪がやんで、少しばかり積もった雪の上に、猫の足跡が続いていました。

 寒がりの筈の猫が、炬燵で丸くなっていられない事情があるのか、はたまた野良なのか、人間様でも寒い早朝に、どんな思いで歩いていったのであろうか。

 雪景色を愛でてというような風流なものではなさそうです。


 ひとにより 珍しくもなし 雪の山

 無性に雪山が見たくなった。

 車を2時間も走らせれば行かれる那須岳。

 昔ならば見る聞くなしにアイゼンを鳴らして冬山に登った。

 登るまではともかく、雪を見たいと思って出かけた山の景色は、美しかった。



7.舌なめずり


 舌を巻く、舌鼓etc, 舌にはいろいろありますが、舌禍っていうのもあるから気オつけねばなりませぬ。

 シタがってホドホドにしときますが、アノ日の月は私も見ていたのでおじゃる。

 雲が多かったのですが、切れ間から覘いたツキはたいそう美しゅうおじゃりました。

 家内に「綺麗だから見てごらんよ」と申しはべりしところ、「オンナは月の光を浴びるものではないと言うけれど・・・」といいながら、窓辺に来ました。


 前にも書いたと思うけれど、「竹取物語」のお爺さんお婆さんは、熊笹を食していて元気になった結果、子をなしたのであるが、外聞を憚って竹から生まれたということにしたのだとか。

 爺さんも婆さんも老けていなくて、耽ったのでおじゃる。  (竹と狸の翁)



8.洗うということ


 清掃のなかには、洗うということが大きな部分を占めています。

 心を洗うということもよくいわれるが、洗うということにはいろいろの意味があります。

 さて、食べ物を洗うということについてであるが、体の中に入れるものは出るものとは違い、なんであれそもそもが綺麗なのではなかろうか。

 それでも、洗って綺麗な方が美味しいことは違いない。


 宮崎県串間市の幸島(こうしま)の雌サルが、あるとき餌の芋を洗って食べることを覚えた。泥や砂がついていないことは、さぞ口当たりがよかったことだろうが、身内のサルを経由して島全体のサルに伝わった。それが100匹を越えるころになると、突然、海を隔てた大分県の高崎山の猿に伝播した。猿のことであるから、電話もTVも手紙もないのにである。

 この101匹目の猿の話は、シンクロニシティの説明に使われることが多い。

 よいことが皆に広まって、誰もが幸せになるというのは喜ばしいことではある。


 話はがらっと代わり、昼食を摂ろうと会社の外に出たところ、道路のそこここにカップラーメンの空カップが、捨ててある。というよりは置いてある。

 近所にある高等学校の生徒が、コンビニで買い求めて食した後、そのように置き捨てして帰ったものである。誰がそれを片付けることになるのかは、意識にない。自分には関係ないというわけである。

 一人一人のときにそんなことはしないが、何人か群れると、イキがって恥ずかしいことでも平気でする。

 他人への慮りなどという人間の持つ徳目などどこへやら、互いに戒めあうことなどさらさらない。「自分さえよければ」という育ちの悪さが如実に現れてしまうところが情けない。

 猿にも劣るこういう行為も、そうする人が増えて伝播したのだろうか。


 私権は公共の福祉に従うということが、絵空事であっていいはずはない。義務と責任はセットなのだとまではいわないが、恥ずかしいことはしないに越したことはない。

 でも、話をしてみると一人ひとりは本当はいい子が多いのも事実。

ワルぶらないと仲間の付き合いができないという風潮を、どこで断ち切るか。

 微力をつくしてはいるけれど、先は長い。



9.卒業式


 卒業式といえば、昔は「蛍の光」か「仰げば尊し」を歌うのが定番でした。

 今は、先生方ではなくて生徒が希望する歌を歌うようです。


 それはそれでいいのですが、仰げば尊しなどと呼べる先生がいないのだと生徒や父兄が平気で口にし、あろうことか先生までもがそれを受け入れているのだとか。

 先生方の先生のことを思ったら、そんなことは口が裂けても言えない筈だし、尊敬される先生であろうとする努力をしてもいないということなのだろうか。

 いろいろあっても先生は先生であり、教えを乞うたことは沢山あったのではないのか。


 仰げば尊し 我が師の恩・・・・思えば「いととし」・・・

の、「いととし」ということの意味を、むかし歌ったことがあるのに、知らない人が多いというのも不思議といえば不思議なことです。

 「いと疾し」

 「いと」は、たいそう。「疾し(とし)」は、早いという意味。



10.たんそく


 豚足ではありません。まあ、ソレに近いくらい短足ではありましたけどね。

嘆息したのであります。


 けさっぱら、電車の隣の席に乗り込んできた初老のおばちゃんが、座るなり短い足を組んだのであります。ことの当然、その足は私の脚を蹴飛ばしたわけであります。

 犬の糞かなんぞをどこかで踏んでいるかも知れない靴なのに、神経がかなり鈍いのか素知らぬ顔をしたまま携帯メールかなんかをしているから「混んでいる車内で脚を組むのはやめたら?それに、人の脚を蹴飛ばしたらごめんなさいでしょ!」と、教育的指導をしたわけであります。

 こんなのにかぎってよそでは偉そうに躾がどうだのマナーがどうなのとほざいてるにちがいないから、たまには薬になるだろうということで注意したわけでありました。

 つける薬がない類なのかと思ったら以外にも「ごめんなさい」と素直に謝った。

 途中の駅でおりていくときにも、「先ほどは大変失礼致しました」と、いやに慇懃に挨拶したから、真意がなへんにあるかは知らないが、形は整ったということでありました。



11.長者の列


 明けましておめでとうおじゃりまする。本年も宜しくお願い致します。

 原宿に長者の列ができたというニュースがTVでアナウンスされたから、「こいつあ春から縁起がいいわい」と思ったら、どうも長蛇の列のことを言ったらしい。

 そうかと思えば、「自動逆態」って言うから、なんのことかと思ったら、「児童虐待」のことであった。

 こんなくらいは、ちゃんと読み分けてアナウンスしてネ。プロなんだから。

 まあ、長蛇の列を長者の列とアナウンスしたのに較べれば、マシかも知れないが。


 つらつらカンガミテ、恥を雪ぐってことも他人事じゃない。火山じゃなかった他山の石ということでおじゃる。



12.南天


 お正月のお飾りに彩を添える赤い実には、千両・万両・南天と、見るからに目出度いものがあります。

 そういえば、南天は重箱に詰めたお赤飯や結婚式の引き出物のお料理に南天の葉の小枝が添えられていたものでした。

 飾りということだけではなく、梅干やハーブ、山葵の葉などと同じで、毒消しの意味があったのだそうです。


 南天は難転と同音なので、難を転ずるということで、縁起ものとして使われているのかと思っていました。

 庭木にもよく使われますが、赤や白の実を沢山つけるためには、花の時季に傘などをして雨に当てないようにするとよいのだとか。

 私の南天は、紅白ともにそういう手入れをしないので、実はまばらにしかついておりませんが、幹の太さはかなりあります。

 と言ったって、鹿苑寺の金閣の庭にある茶席の床柱ほどじゃありませんがね。


 聞くところによると、柴又の帝釈天にも南天の床柱があるのだとか。見たことはありませんが、直径30センチもあるとのことですから、金閣寺のものよりかなり太いことになります。



13.入学試験合格


 よほど嬉しかったようです

 いつも週刊誌などを買っている駅の売店のおばちゃんが、嬉しそうに話しかけてきました。

「今日、高校入試の発表があって、孫が合格したんです。」

「そう、それは良かったですね。おめでとうございます。」

「こんなおばあさんがと思うでしょうが、嬉しくって嬉しくって。」

「わかるわかる。僕もこの年になるまで、いくつもの試験を経験しているから。」

 受験生も大変だが、周りの家族も大変なのです。

 合格するのは、まわりをも幸せにする。



14.破落戸


 「ならずもの」と言えば、上に“命知らずの”という形容がついたものである。

 近頃においては、「命知らずの無法者」というのは、そういう悪事を働くならず者のことばかりではなくて、ごく普通の一般人が、無分別にも自分の命を危険にさらしているという認識なしの行動をすることに表れることが多い。

 自分の命を守るのは自分ではなくて、誰か他の人だと思っているらしいから始末に終えない。傍迷惑この上ない。

 車が行きかう道を信号無視どころか、横断歩道でもないところをノロノロ横切るなどが最たる例といえる。

 事故に結びつけば、双方にとっての不幸ということにどうして思いをいたさないのでしょう。傍で見ていても肝を冷やします。


 生存本能のみを司るという爬虫類脳よりも劣る脳の構造というのは、一体どうなっているのかと、不思議でなりません。

 本人の言い分を聞いたことはないが、多分自己中心的なものなのではなかろうか。



15.不埒者


 庭に蛇が出たからとか、台所にゴキブリガ出たから取ってくれと110番電話をする迷惑な人がいる、ということを前に聞いてはいました。


 しかし、いくらなんでもこれはヒドイ。

 「パチンコの玉が出ない」と電話してくるのがいるのだとか。

 ぱチンコのタマなんぞ出してたら、逮捕ですぜ。


 今朝、いやに早くから道に大勢の人が並んでいるから、何事ならんやと思ったら、新装開店のお店がその先にあるとのことであった。

 仕事や学校はどうしたのだろう?



16.勉強不足?


 テレビで朝からテンパッた声で「表情の厚い戦い」とわめいているから、何事ならんと思ったら、「氷上の熱い戦い」という女子スケートのニュースであった。

 アクセントが違えば、意味も違ってくる。

 視聴者の素養に頼るようでは、プロのアナウンサーとして如何なものなのか。


 また、戦いというのも、この場合は競い合いというのが普通の表現なのではなかろうか。

 相手を打ち負かすというようなことではなく、磨いてきた技術を採点してもらうということであれば、自己をひけらかすことでも相手のミスを誘うことでもないはず。

 言葉には魂があるのだから・・・



17.母は強し


 歯ははつよし

 23日前から、なんとなく奥歯がしくしく痛んでいたのだが、昨夜はとうとう眠れないほどに痛くなったので、仕方ないから歯医者さんに行ってまいりました。

 夜年並庭糧梨(寄る年波には勝てなし)ってことか、なさけねー。

 で、寒いし痛いし草臥れたしで、とぼとぼ駅の階段を登っていると、大きな荷物を肩に、眠ってしまった子供を乗せたままの乳母車を小脇に掻い込んだ母親が、かたわらをさっさと登っていきました。

 あの華奢な体のどこに、かほどの力が潜んでいるかと思うばかり。

 私も背負っている荷物が重くって・・・。

 なに、腹についた脂が重いんだろうって?

 なにをおっしゃる鵜鷺産、あたしのはシラガミおっとシガラミが重いのっ!



18.本当にそうなの?


 世論調査によると、消費税のアップに賛成の人が、70パーセントを越すのだという報道がされるが、私の周りのひとの9割以上は反対だという。

 どっちが本当なのだろう?


 アンケート調査というのは、どういう設問をどういう対象者に何人くらいした結果なのかも合わせて正確に公表するべきだと思う。質問の仕方でいかようにだって変わる。

 賛成の人も反対の人もいて当然だと思うが、誘導するような方法であってはなるまい。

 それにしても、どのチャンネルもその話題ばっかりで、出てくる人出てくる人正義の味方ばかりで恐れ入る。

 どこもかしこもそれ1色になるというときは、得てして裏に作為が働いていることが多い。

 間違ったコメントをしても、後に間違いだったとわかって謝った、というのは聞いたことがない。


 勝負の世界でも、審査のあるコンクールでも、政治の世界でも、ウソかホントか判らないけれど、多かれ少なかれいろんな噂をきく。



19.門外漢


 紋がイカン(いけない?遺憾?)


 で、“いけない”の方なんですが、さるTV番組において、K・H氏が「墓石に家紋だけは入れるものではない」との発言を支持するかのような放送をしたことは、全く根拠を欠くものであると、放送事業者の番組編集につき石材産業会からクレームがついたのであります。


 それに対しての局の回答は、宗教に関わる事項については、一般的な意味で根拠や証拠を求める(今回の場合、家紋が不幸を齎すのか繁栄に繋がるのか)のは妥当ではなく、視聴者も宗教的な枠内で判断理解しているものとして、発言を紹介することは許される範囲のものと考えるというものであったようです。


 自分が、狭い知識の中で思い込みに近い発言をしてしまったのだとしたら、素直に訂正すればいいだけのことのようにも思える。

 そんなのどっちでもいいと思うけど、自分で考えない人は引きずられる。



20.ヴォランティア


 Volunteerとは、義勇とか義捐の意味であろうが、義とは一体なんなのであろうか。

 人の踏み行うべき正しい道筋というような意味で使われるが、足りないところを補うというような意味も含まれているように思える。

 孔子が『論語』の中で著した、「義を見てせざるは勇なきなり」というのは、人の道として当然行うべき事と知りながら、これを実行しないのは勇気がないのと同じだということ。

 孟子は、「仁」は人の心であり、義は人の道であるとし、その人の道を捨てて顧ず、その心を見失って探そうとしないのは、なんとも悲しむべきことかであるとした。人は物を見失っても探し出す方法を知っているが、心を失えばその探し方が判らないのだ、とも述べている。

 であるから、義理とは義の道理ということになる。

 ボランティア活動にためらいもなく、或いは何かに突き動かされるように出かけられる人は、有る意味で神の領域を体現しているのだと思う。神とは、示し申すということ。

 現場に行って働くということは、行かなくては解らないことが解るということであり、解るから親身になれるし、その経験に基づく話しが説得力をもつ。事実に勝る真実はない。

 誰とは言わないが、視察に行って何も見えないで帰ってくるのとの違いがここにある。


 私も、長いこと現場人間であったから、何が嬉しくて何が悲しいかわかる心算でいながら、なかなかボランティアに出かけることはできないでいるが、別の働きをしようと思っている。


   敷島の 大和心を人問わば 朝日に匂う山桜花 (本居宣長)



21.どうでもよいが気になる


 遅い目の昼食を摂りに行きました。

 隣のテーブルに着飾って、綺麗にお化粧もした若い女性が二人で食事をしていました。

 ところが、その一人がどうにもいただけません。お茶碗もお椀も、縁に人差し指をかけて持ち上げていたのでございます。育ちを見られちゃうわな。


 牡丹のようなお嬢さん 尻尾だすぜと浜松屋 (弁天小僧菊の助)



22.な~んでか


 山菜を採りに行って簡単に見つかるのが、ノカンゾウ(別名ピョンピョングサ)。

 野兎が好んで食べるから「ぴょんぴょん草」というのではなく、カンゾウの葉っぱが、ぴょんと立った兎の耳に似ているところからきているようです。

 ノカンゾウの新芽は、お浸しにして食べるとうまい。


 珍味といえば、芽をだした蕗の薹を摘んできたので、これをたまり漬けにしようと思っています。これは、嘘偽りなく滅法うまい。

 珍は鎮。しずこころなく はらのへるらん


 食べられる山野草の知識を持つことも、サバイバルだけでなく自然と一体化した人間性を養うのによいことです。



23.一所懸命やっている


 一生懸命やっているんだけど、って言ってるらしいが、 そりゃそうでしょうとも。

 命がけでやっていないなんてことでは、もっとみんなが怒る。

 でも、「やり方が違うんじゃないのか?」と思われてしまうくらい、何をやっているのか解らないし、効果がでるのも遅い。

 現地視察にしても、「何しに行ったんだ?」と言われる始末では、どうにも宜しくない。

 トップというのは、何をやってもやらなくても大体は文句をいわれるのものだが・・・


 それでも、文句を言う側にいて細かな不備を追求していた時は向いていたが、いざリーダーシップを発揮しなくてはならない側になってみたら、その立場には向かないんじゃないのかということで、支持を失うことは往々にしてある。

 リーダーは決断し、責任をとることができるというのが、その資質であるから、その意味では心もとない。なってみないとわからないのがトップだということ。

 諮問会議だか専門家がこう言っているから、というのも他人任せと捉えられ、自分の判断はどうなんだということになる。

 前面に出て、覚悟を決めた言動がないと、信用も共感も得られないし協力者も出てこない。



24.見える


 「アノヒトにはオーラがある」という言い方をよく耳にします。

 その光が目に見えてというのではなく、醸し出す雰囲気を感じてのことが多いようです。


 オーラの色の違いや強さの大小の差はあっても、大抵の人は、その光をまとっているから、ちょっと意識をむけるようにすれば、誰にでも見られる筈です。

 精神修養をした昔の人は、それがよく見えた証拠に、仏像の後背や天使の頭上のリングを表現したのだと思われる。

 オーラが見えたらどうだということではない。どのような人がどのような光をどのくらいの強さで出しているかがわかり、自分もそのようになるのに何をどう努めるかということに気づかねばならないということです。

「見る」とは、そこに意識をむけるということであり、「見える」というのは、目に映っているということなのであろうが、英語でいうlookとseeの違い、ということを言いたいのではない。

「見る」も「見える」も、それがどのような意味をもっているのかが理解できなければ、心に残らない。

 「わかる」という領域が、その先に広がっている。

 「見えるようになる」ということでもある。


 スピリチュアルなものについては、お許しのあったものしか書けないとしてはいるが、日々書いているブログの言外にある意味を汲んでもらえると嬉しい。



25.後先


 原発が危ないというのは、誰しもが感じている。今に始まったことではない。

 しかし唐突に、浜岡の原発の停止を要請したというのは、どう考えても自分の人気取りのためにやったのだとしか思えない。

 大地震や大津波が来ることは予想されるが、対応策を考えて対処するまでの余裕があるのかないのかは、誰にもわからない。

 自然の猛威は想定外だから、対処の方法は無いといえばそれまでであるが、原発を停止すればそれで良いというものでもあるまい。

 近代文明で使われる道具は、飛行機でも自動車でもガスでも電気でも、危険性を伴うが、その危険性を乗り越える工夫をして使ってきた。

 ただ、原子力の場合は一旦事故が起こったら、その被害は極端に甚大となる。

 まだ、このエネルギーは神の領域に属しているものであり、人類には許されていないのかも知れない。

 しかし、本当に対処する方法というのはないのだろうか。


 全原発にもいえることだが、原発を廃止するとしても、使用中であった、或いは使用済みの核燃料はどうするのか。

 電力不足が産業構造に及ぼす影響をどうするのか。

 原発施設のある地域で働いていた人たちの雇用をどうするのか。

 更に言えば、原発による電力の供給を受けていた人たちが、今後電力不足に陥ると被るであろう不自由に、国民が耐える覚悟が必要であることへのコンセンサスをどうするのか。

 30%の電力供給不足が、どれほどのインパクトを持つか。

 工業・農業・食料・水道、こんなところにまでというくらい、電力のエネルギーが使われていることに気づかず過してはいないか。

 原発反対を唱える人たちが皆、電気のない生活がどのようなものになるか想定しているとも思えない。


 浜岡への言及は、海江田経産相が先ずしたのなら兎も角、カンさんがするのなら、エネルギー政策の今後への考えを述べねばならなかったのではなかったのか、ビジョンを全く示さないでやるのでは、リーダーとは言えまい。大向こう受けすることをいうだけなら誰にでもできる。影響は、自分ではなく誰かが後で考えるというのであろうか。

 そんなだから、自分の人気取りのためだとか、横須賀の軍港からの圧力だとか言われてしまって、別のもめごとにもなる。


 大地震が来る前に、経済や国民生活が破綻してしまう可能性だってあるのだから、苦渋の選択をしたのだとわかる丁寧な説明がないと、雰囲気だけのことでは済まない。

 国民が一致団結して事に当たることができるためのリーダーとは、どのような人なのであろう。


 断っておきたいが、原発が賛成だということではない。なくて済むのなら無いに越したことはないと思っている。

 しかし、その恩恵にこれまで意識することもなく浴してきた身にとって、軽々にものがいえないのも厳然たる事実だと思うのです。

 忸怩たるものはあるが、いろんなバランスの選択の上に成り立っていることが殆どであることに思いを致さないわけにはいかない。

 悪者をつくっての魔女裁判ではなく、比較考量ということも必要である。

 電気がないことの不自由を覚悟して、ということになれば別だが・・・、そうできる人が何人いるのやら。


 子供の頃に停電が茶飯事であった経験から、漆黒の闇がどれほど恐ろしいものか知っている。

 便利さに慣れた今は、その比ではないことも想像に難くないが、電力の利便性が当たり前となっている現代人が、果たして耐えられるものなのかどうか、極めて心もとない。



26.手当てする


 病気や怪我の治療をすることを、「手当てする」という。

 文字通り本当に手を当てることで、病を治すことができることがある。手のひらには、ある種のエネルギーがあることを、昔の人は知恵として知っていた。


 両手のひらを合わせて力強く擦り合わせていると、手のひらに熱をおびてくる。

 その温かくなった手のひらを、患部にあてる。まさに、手当て。

 少しくらいの腹痛なら、これで治まる。

 手のひらは、常にマッサージして柔らかくスベスベ艶やかにしておくのがよい。運の強い人の手は、そのようになっている。

 ゲンノショウコ(現の証拠)と呼ばれる、フウロソウ科の下痢止めなどに使われる薬草の他にも、山野には効能が期待される薬草が多い。

 しかし、そのような知恵はうまく伝わっていないようである。



27.宗教とイデオロギー


 この双方は、どこまで行っても平行線をたどり、互いの説得が効かない。

 どちらが主張するのも正義であり、折り合いをつけて一応の平和を作り出すには、新たな智恵が必要とされる。

 どちらか一方の正義の名の下にあれば、何をやっても許されるということではないと思われる。


 ウサマ・ビンラディン(NHKではオサマと読んでいる)「容疑者」が殺害されたと報道された。

「容疑者」といっている以上、犯罪事実が確定しているわけではないだろうし、どの法律に基づくかは別にして、裁判の結果を待つのが民主国の手続きなのではなかろうか。

「容疑者」不在のままで裁判が結審し、死刑が確定して国際手配がされていたのだろうか?


 いきなり他国に軍隊を送り込み、実況中継しながら武器を持っていない「容疑者」を殺害?してしまうのは、別段庇い立てする気はないが、かなり乱暴な所業なのではないのか?


 テロの被害にあった人が喜ぶのは、その感情として解らなくもないが、ニューヨーク市民のお祭り騒ぎのような喜びようは、一種異様に思えた。

 力が正義ということか?

 力が足りなければ、テロかゲリラということになりかねないが、徹底的に力で抑え込むということなのだろうか?


 原発事故の処理についても、放射性物質が世界中に拡散するのを阻止するということで、福島原発の国際管理、ひいては無能な日本政府の国際管理などということになれば、主権侵害もヘッタクレもあったものじゃなくなる恐れだってありうる。



28.地図で見ると


 南北2800キロメーチルもあるのに、世界地図で見れば日本は小さい。

 外国人がそれを見たら、福島原発から出た放射線被害は、日本をすっぽり覆ってしまっているに違いないと誤解するに違いない。

 だから、日本に観光客は来なくなっているということなのだろうけれど、外国人から日本を見たらどのようなものになるのかという視点が全くないのか、そのように想像する能力が欠如しているのか、海外むけにキチンとアピールしないから、蒙る国益は風評被害どころの騒ぎではあるまい。

 現に倅が留学している先の知人たちは、日本が全滅状態にあるのではないかと、私たちの心配をしてくれていた。

 トップや外務省の役割は大切である。日本製品が売れないばかりか、最近は海外にいる旅行者だって日本人とわかると避けて通られるのだとか聞く。


 自分のことばっかりになって視野が狭くなっていると、大局的な判断が難しくなるから、打たねばならない手に思いが及ばないのではないか。



29.選択の余地が


 消費者が物を買うときは、欲しい商品が売られている店が沢山ある中から一つの店を選ぶ。

 同様の性能を持つ商品も、数あるメーカーの中から、どこのメーカーの製品かいいと選定する。


 電話回線も、以前はNTTだけであったが、選べるようになった。

 インターネットのプロバイダー契約も、好きなのを選んで利用する。


 しかし、電気は独占企業のものしかないから選択の余地が無くて、それを使うしかないということになっていた。

 電力会社だって、何社かの競争がないと、消費者は、その独占企業の言いなりにならざるを得ない。

 電気料を値上げするということが突然でてきても、その前にやらなくてはならない手立てを尽くしてのことなのかどうなのかの説明は一切提示されていないようである。

 中部電力も関西電力も九州電力も東北電力も、電気料を上げるということでバランスをとるらしいが、増税論議と同じで、簡単な方からやりたい思惑が見えるのがどうもいただけない。

 わけのわからないアンケート結果を出して、増税も値上げもこれだけの人が賛成しているとムードづくりをしたいようだが、賛成の人だって無条件で賛成しているとは思えない。

 必ず前提条件があるはず。現に私もそうである。賛成というよりやむなし。

 公的なものであっても、民だけが負担するのではなく、官も政府も相当の覚悟をして実行に移し、そこまでやったんだから後は・・・という形をとらないと、多くの人の納得は獲られまい。



30.筍狩り


 孟宗竹、マダケ、ハチクと、次々に出るから、食用にする時季が長い。

穂先の向いている方に唐鍬(トンガ)の刃先を打ち入れて掘り出すのだが、収穫してから2時間以内が食べごろであるから忙しい。

 旬のものを食べるというが、筍という字はまさに旬と同じもの。


 蓮田の地主さんのところに招待されて筍狩りに行ってきました。広い竹林の中に生えているタケノコを好きなだけ掘っていっていいと言われましたが、そう沢山は食べられないから、5本ほど頂き、タケノコご飯と手打ちそば(二八ならぬ一九の割合)も、ご馳走になりました。

 たいそう美味しゅうございました。



31.High(灰になるまで)


 言うまいと 思えど今日の暑さかな

 毎日暑い日が続きます。

 ラジオを聴いていたら「年だから諦めたほうがいいかしら?」という相談をしている女性がいました。

 近くのお店に勤めている男性に懸想?(言い方が古いね)したのだとか。

 年だからという件の女性、いくつなのか聞かれて答えるに喜寿なのだという。

 灰(high)になるまで、とは聞きますが、女性は元気です。男だって頑張らねば。



32.オリーブの花芽


 東京の気候でも、オリーブの実を成らせることはできる。

 何年か前に小さな苗を鉢植えにしておいたものに、今年は沢山花芽をつけた。

 聞くところによると、オィーブは1本の木だけでは結実しないのだとか。

 そんなわけで、昨年に違う種類のオリーブの苗を植えたのだけれど、こちらには花芽がついていない。

 果たしてどうなるものやら、楽しみではある。


 暖かい所でないと育たないと思いつつも、植木屋さんで何年か前に小さな苗を買ってきて、植木鉢に植えたものが、昨年は沢山の花をつけました。

 ところが結実しませんでしたので、やっぱり無理なのかと思っていました。

 そんな話をしたところ、オリーブは1本だけでは実をつけないから別の種類のオリーブが傍に必要だと教えてくれた人がいたので、今年はそうしてみたところ大きな実をつけて、夏は緑色だったものが段々濃紫色に染まってきました。

 地植えではなく鉢植えでも楽しめるということが解ったのは、チャレンジしてみたからだということかも。



33.お茶の花を浮かべ


 お茶の花が咲く季節になりました。

 突然、「お茶の花を浮かべて抹茶を飲みなさい!」という声が頭の中に聞こえました。

 いわれるままにお茶を点ててもらい、摘んできたお茶の花を浮かべて飲みました。何か良いことがありそうな豊かな気持ちになりました。

 この、なにか良いことがありそうな、という気持ちに浸ることは、とても大事です。


 東日本大震災のあと、子供たちの価値観が変わってきたのだという。

 「何が大事か」という問いに対し「家族です」と答える子が多くなったのだと。


 人と人のつながりの中でも、縦のつながりが薄くなったと言われるようになって久しいが、人は、縦も横もお互いの気持ちが通じ合うようになっていない世の中では苦しすぎる。

 困難や苦しみ悲しみに遭遇したとき、心底助け合える善なる性に立ち返ることができるようになってきていのかも知れません。

 年寄りはお茶が好きだが、若い人は余り飲まないようである。せいぜいがペットボトルに入ったお茶。

 でも、ちゃんと点てるか淹れるかして飲むときの心の豊かさというのには気づいてほしいと思っている。



34.幸せと優しさ


 自分には厳しく、他人には優しくとよくいうが、果たして本当なのだろうか?

 自分に厳しい人が、他人に優しくできるわけがない。

 同じように、自分が幸せでない人が、人を幸せにできるわけがない。


 では、自分がどのように幸せになるのかというと、自分の本来はそもそも幸せなんだということに気づくことから始まる。

 今よりもっと幸せになりたいと思うなら、そこから始めなくてはならない。

 なぜなら、幸せのないところに幸せは来ないからである。人のいないところに、人は集まらないし、金のないところに金は集まらない。


 金持ちになりたいとか、名声を得たいとか、成功したいというのは次のステップということになるのだが、第一段階の気づきというところに気付かないと次には行きにくい。



35.しんしゅしなのの


 赤花蕎麦の花が見事に咲いた畑がありました。これも古代米のように赤い実をつけるんだとしたら、赤飯ならぬ赤蕎麦なんてことになって大層メデテーんだけど・・・。


 ソバを見ると思い出すのが、毎度お馴染みの中学のときの理科の先生。

 担任ではなかったけれど、移動教室というので教わった。私は授業中の怒られ頭でもありました。

 この先生がその授業中に教えてくれたのが、“しんしゅしなのの しんそばよりも あたしゃあんたの そばがいい”だとか“あたしゃあんたに ほうれんそう”だとか、そのほか他聞を憚るようなこと多数。私は、結構この先生が好きだった。

 先生が定年で退任されてから、その頃の話をすると、「どうかご内聞に」なんてことを言ってたらしいけれど、誰も教師らしからぬなどと言って怒った人はいません。


 なんでソバの話しになったかっていうと、友人の親しくされている方が今年ソバを育てているということで、新蕎麦がとれたら私に蕎麦を打てということになっているからです。

 その昔は10割蕎麦なんてのを打ったりしましたので、大見得をきって「まかしとけ」なんて言ってましたが、どうなることやら。

 いまじゃ二八そばだって怪しいもんかも。

 いっそ蕎麦掻きってことにしちまったらいい鴨(パクリ)。それも、茶碗を炙って温めたところにそば粉をいれ、熱湯を注いでかきまわしただけのものに生醤油をつけて食べるっていうの・・・

 蕎麦好きだって自慢してても、これを旨いといって食える人は少ない。

 子供のころ、ときどきこれを食したが、旨かったという記憶はあまりありません。

 ほんまもんの蕎麦好きとは、どんなものなんだろう。

 戦後の一時期、そば粉だけで食べる時代がありました。

 かくいう私も、やんごとなきというか破ん如なき家の、隙間風が吹き込む囲炉裏端で、粗朶を燃やした炎で茶碗を炙り、自在鍵に吊るし煤で真っ黒になった鉄瓶から湯を注いで、素早くしかも力強くかきまわして固めた蕎麦かきに、タマリをつけた(表面につくだけで中まで味が浸みない)だけで食べたものでした。

 いうなれば、ソバの素材そのもので食べていたということになります。


 私は、いくつかの食べられない食べ物(平たくいうとキライ)を除いて、食べ物には基本的に美味い不味いは言いません。

口にできるものは全て、滅法美味いと思っているからです。


 昔、米不足のとき、緊急で輸入したタイ米をまずいまずいと言う人が多かったですが、私は美味いねと言って食べていました。

食べ物を口にできず、ひもじい思いを経験したことがなければ、口に入ったものを有難く噛み締めて、滲み出てくる美味さを感じることはないんじゃないかと思っております。


 巷間ソバ好きを自認する人が多い。

 ツウを自称する人に「ソバかきって好き?」と聞くと「大好きだ」との返事が返ってくるが、それは大抵だし汁に沈んだソバかきのこと。

 そうじゃなくって、前述のようなものを、一口や二口でなく、腹いっぱいになるまで食べられたら、ソバ好きといえるんじゃないないかと思っております。


 このところ、昼食は蕎麦を手繰りに(ソバを食べるのを手繰るという)行くことが多い。それもモリソバを。

 蕎麦打ちを自慢するような店ではないが、顔見知りになった店主は道で行き会っても愛想がいい。

 ま、そんなわけで蕎麦通ってわけじゃないから、どこがここがと言わず、奥歯でかみしめて美味しく頂戴しておりますが、さしてソバ好きであると思っているわけではない。



36.それは無責任なのでは


 識者と称するコメンテーターが、なぜかTVで声高に主張する。

 「諸外国の消費税率は25パーセントであり、それに較べれば日本は低すぎる。」と。

 でも、待って頂きたい。諸外国の物価は、その25パーセントの消費税がかかっていても、日本の物価よりかなり安い。

 そのことに一言も触れないで、したり顔で税率だけをいうのは可笑しいのではないだろうか。

 それを指摘すると黙り込むか、話題をすり替える人が多い。

 単純な比較だけを言うだけでは、庶民を惑わすに等しい。


 消費税が導入されたときのことを思い出していただきたい。

 商品やサービスを購入する人たちは誰もが、消費税分の値引きを要求した。

 いま、消費税のアップがなされたら、購入者がとる行動は、それと全く同じになるであろうことは想像に難くない。

 これだけ値下げ競争が激化していて利幅がなくなっているところに消費税を上げたら、一体どうなってしまうだろう。

 税収のアップどころか、経済活動が冷え切ってしまうのではと危惧されてならない。



37.チェコの焼き菓子


 クリスマス用に、倅がペルニークを大量に焼きました。

 厚く固い木材に、伝統職人が細かく模様をを掘り込んだ型の台木に、練りこんだ材料を押し付けて型抜きしたものをオーブンで焼き上げるのですが、やたら手間がかかります。

 根気よく作業を続けて50枚も作ると、もう他のことは一切考えられなくなり、変に集中してしまうから不思議です。

 かなり長期の保存が効きますが、形が可愛らしいので知人が喜んで欲しがり、あっという間になくなります。

 この時季のある種の縁起物です。



38.チュウチュウ


 トレインじゃなくてタコかいなの方のおはなし。

 アシュジュポ~ンというのは、フランス語で蛸のこと。(ウソです)

 大体、足が十本なのは烏賊といいます。

 オクトバーフェスティバルのオクトっていうのは、そもそもが蛸の足とおなじで8のことだから、オクトーバーは8月のことでありました。それが今は10月なんだと。


 音楽でいうオクターブというのも、8音のことなのでおじゃりまする。

 因みにセプテンバーのセプトだってそもそもはセブンの筈なのに9月だっていうからややこしい。

まあ、ビールを沢山飲んでしまえば、そんなのはどっちでもいいんだけど。



39.つくなる


 信州弁でいうところの「つくなる」という言葉のニュアンスを表すのに適当な他の動詞が見つからない。

 蹲る(つくばる)或いは蹲る(うずくまる)が、それに近いのだろうけれど、ちょっと違う。

 疲れて体の芯を保つことができないでへたり込むときや、株で咲いていた花が咲き終えて倒れ伏している様子などを表すことが多い。

その片付かない乱雑な状態を「らんごく」という。


 長い暑さにやられて、シャンとできず「つくなりそう」な此の頃は、周りを取り散らかして「らんごく」にしています。

 夜ともなればコオロギが鳴くようになったから、そろそろ涼しくなるかしら。



40.つわもの


 軽く3~4時間歩くべく、丹沢に行きました。

 総勢7名の参加者の一員としてでしたが、女は強しです。


 ちょっと早くはあったが、風が涼しい小さなピークで昼食をとった後、お花摘み(山言葉で、小の方をお花摘み、大の方を雉撃ちという)に行くという女性に「熊に気をつけてね」とその友達が声をかけると、もう一人が「凄いから、熊が逃げるわよ」とちゃちゃをいれた。

 すると件の女性が振り返って言ったもんだ。「見たな?」

 そんな熊なみの毛並みなんだろか?


 麓に下って渋沢あたりで一杯やって帰ることになった。これを別名「駅前遭難」と言います。

 で、ここで酒豪と称する女性が教えてくれました。焼酎をロックにして、そこにオオバと鷹の爪をいれると、これが滅法うまいんだとか。

「やってごらんなさい」といったとき、信州弁でいうところのコタエサレンという顔つきになったから、きっと美味いに違いない。



41.てんぷら


 てんぷら屋は儲かる?

 揚げる前の材料にくらべ、できあがった量が数倍になる。


 山菜を採りに出かけた。

 山菜は、お浸しかゴマよごしか煮しめかってところが主な食べ方であろうが、天婦羅にすると、これがまた大層な量に増えるのであります。

 で、これも近所に配ったり知り合いに食べさせちゃうことになるのがつね。


 高地のものは軟らかくて美味いから、これならしばらくは一所懸命たべても大丈夫だというほど山椒を摘んでいて、日が暮れました。 

 山菜採りの帰り道、地卵を売ってる所に立ち寄ると、「まだ産み始めたばかりの若い鶏の卵だから、形は不ぞろいだけど美味しいんです。」と店主が薦めるのにコロッとのって、残っていた4~50個の卵を買ってきたのだが、渋滞に耐えて帰りつくや、あらかたカミさんが近所に配っちまった。


 で、ようやく旨いもののはなし。

 山独活の皮をキンピラにすると、これはもう、め~っぽう旨い。酒の肴、ご飯のオカズ、お茶請けなんでもござれです。



42.ときそば


 ひいふうみいよう、いまなんどきだい・・・

 落語でおなじみの“とき”っていうのは、現代でいう何時にあたるのかがなかなかピンとこない。

 暮れ六つとか午の刻(午前午後)とか、ひゅ~どろどろとなんておっかないのが出てくる草木も眠る丑三つどきなんての位しか意識になかったけれど、丑の刻を4つに分けた2つ目のことを建礼門院さまはおっしゃっておいでだった文があるから、1刻を更に分割していたということがわかります。

 でも、時計なんてのは持ってなかったでしょうし、どうやって時間がわかったのでしょうか。



43.ノムリエ


 おじいさんの会で、熱海「ふふ」に行って参りました。

おじいさんと言っても会員は各社の現役トップで、それぞれが何種類もの薬を飲んでいながらも皆さん元気がいい。

 最年少の私が今年の会長という名前のお世話係をつとめました。

 例によって、減らず口のオンパレードでありました。


 長幼の序の話題になったとき、最長老が「年の順番なんか考えないで、オレより先に逝ってもいいからね。」と言ったので大笑いになった。

 食事の時間になってワインを選ぶ段になったとき、席の係りについた人が、ワインについて詳しいので「貴方ソムリエさん?」と尋ねたところ「いいえ、私はノムリエです。」と応えた。

 この会の席につくのに相応しいということになって、ずっと席につききりで対応してもらった。



44.ハマグリは虫?


 蜃気楼の蜃は、蛤のことなんだそうです。

 蛤が怪しの気を吐いて中空に楼閣を築いて見せるのが蜃気楼の名の由来なんだと、富山大学市瀬和義教授のお話の中にありました。

 天球の外の、時間のない世界をイメージし創造したむかしのひとの話は、竜宮城にしてもかぐや姫にしても面白い。

星だって天球にあいた筒状の穴から漏れ出る光だということになっていたらしい。



45.ビールは酒に非ず


 ノミスケは、禁じられても飲むための知恵を働かせ、抜け道を考えちゃう。

 

 かなり前のことになるが、深夜自宅に電話がかかってきた。社員が救急車で病院に運ばれたのだという。

 私はイッパイ呑んだ後だったので、タクシーを拾って病院に急いで駆けつけたわけです。医者に「どんな様子なんでしょうか?」と尋ねると、「ああ、いわゆる急性アルコール中毒ですね。」と、いともあっさりした返事。

 たいそう心配してかけつけたことでもあり、翌日その社員にしばらくの間禁酒を申し渡したという次第。

 ときどき呼んで「飲んでないだろうね?」とチェックしていたのだけれど、そのたび「一滴も飲んでません。」との返事が返ってくるので安心していた。

 それにしては朝酒臭い息をしているように思える時がある。それで、「本当に飲んでないだろうね?」と問い詰めると、「はい、酒はやめてビールを飲んでます。」

 酒を般若湯と言い抜ける生臭坊主よりタチわるい。



46.比翼の鳥


 雛(ひよこ)の鳥か~・・・いい間違いだとしてもうめーもんだね。いや、食ってじゃなくって・・・。

 比べて同じ穴のエビ(偕老同穴)ってことにはまだまだ間があるようで・・・

 

 鳥の子色というのがある。鶏卵の殻の色、淡黄色のことだが、卵が鳥の子というのが面白い。



47.閃きの出どころ


 物事が何事もうまく運んでいるときは、それが当たり前だとして意識することもないが、そういう時というのは、神様(ほかの言葉があれば、その言葉)が、「それでいいのだ」と後押ししてくれているとき。

 しかし、一旦躓いて困難に立ち至ったり、逆によりもっと多くを望むようになったときには、何かに祈るということになる。

 自分の内なる神ともいうべき潜在意識は、願い事を叶えさせる「気づき」を「ひらめき」という微かなエネルギーとして意識に知らせてくるようであるが、気をつけていないと見過ごしてしまう。

 願い事は、潜在意識に届きさえすれば必ず叶うものらしい。

 ただ、困難のさなかにいるときに絶対言ってはならない言葉がある。

 それは「もう駄目だ」という言葉。そう口にすると、それは確実に叶ってしまうからです。



48.ピンからキリ


 世界遺産である「聖ポール天主堂跡」は、今あるこの壁を残すのみで、焼け落ちてしまったのだとか。


 現地案内人がこの前で、日本語になっているポルトガル語で「ピンからキリ」の説明をしてくれた。

 ピンは点を表し1のこと。キリはキリストの十字を表し10のこと。

 だから、1から10までということなのだと。

 聞いていたおじいさんが曰く、1は花札の1月で、キリは12月を表す桐のことであるという説もあると、賭博の国にふさわしい話題を出した。

 まあ、ピンが1であるということから考えると、ポルトガル語由来の言葉なのかも知れない。



49.プラハから寄せられた写真


 今年は辰年だというので、息子の友人が龍の透かし彫りが施されている鍔の写真をメールに添付して送ってくれました。


 彼はチェコ人なのに日本の文化が好きで、蒐集した刀の鍔を1冊の本にまとめて出版したほどです。

 日本人は、技術や腕前もさることながら、その内に秘める心のありようを大切にしているのだということをわかっている。

 こういうことを、外国の多くの人も理解できるのか、サムライが武道をどのように考えどのように修練したかを日本人以上に知っている。

 刀も弓矢もその技を鍛えて身につけるが、最終的にはそれを使わずともよいようにすることを目指しているのだと。



50.マカオタワーから


 オジイサンの会の幹事役として、最高齢者82歳を連れてマカオに行ってきました。

 日本語の表示は殆どないので、怪しげな片言の英語で押し通して、何とか全員無事に帰国することができました。

 旅というのは、勇気をもって取り組めば、いろんな経験を積むことができます。


 勇気と言えば、マカオタワーの展望台233メートルからのバンジージャンプに挑んだ若い日本人の女子2名と別グループ男子2名が飛ぶところに丁度居合わせることができました。

 落下時間4秒の、あっという間のできごとでした。

 私ももう20歳若かったら挑戦したかも知れません。ウソだろうって?













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エッセイ「普通に考えてみると(九)」 @SyakujiiOusin

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