跳び返る
「父に、あそこは通るなと言われていました」
森下さんが小学生の頃住んでいた家のそばに、南北と西に道が伸びる丁字路があった。
通るな、と言っていたのは、西に伸びる細い路地のことであった。
「理由は言わなかったです。とにかく通るなとしか言わなくて」
丁字路は通学路になっており、西への道は真っすぐ小学校へと続いている。対して、北へ進むと一区画ぐるりと大回りしてしまう。しかし、彼は父の言いつけを守り、登下校はいつも北の道を使っていた。
「そっちに建っているマンションに住んでいる子と仲が良くて、いつもそいつと一緒に登下校していたので」
遠回りは苦にならなかったという。
「あとは、その道、雰囲気が不気味だったんですよ」
道幅が狭く、常に日陰で薄暗い。薄汚れた民家が両側に建っており、すぐに曲がり奥が見えない。当時の彼にとって、その道は近寄りがたく、入りたいと思わなかった。
彼が小学五年生のとき、寝坊をしてしまった。
急いで着替えを済ませ、家を飛び出す。
彼は、初めて西へ進んだ。
「怖かったので、目をつぶって、でも転ぶから全力で走れなくて、今思えば間抜けなんですけど」
他の子が登校する時間を過ぎており、車通りもないため、辺りは静まり返っている。
日陰に沈んだ空気が、彼の体と心を冷やす。
すぐ左で、音がした。
「ざく、という、土に何か突き立てている音でした」
目を開き、音のした方へ視線を向ける。
「おそらく、杉だったと、思います」
板が、垂直に立っていた。
家と家が背中合わせになっている間に、用水路になっているのであろう、細い溝が掘られていた。板は、溝の中に、彼の方へ広い面を向けて、支えなしに立っていた。
ひとりでに、板が跳び上がる。彼に遠ざかるように数センチ向こうへ。降りると、ざくりと土が鳴る。
その後も、板は一定の間隔で跳ね、遠ざかる。降りると土を鳴らす。
彼はしばらく、黙って板を見ていた。
「現実感がなくて、寝ぼけているんだと思っていました」
呆然と眺めていたとき、彼はその音を、毎日聞いていたことを思い出した。
「その音、鍬で土を耕している音に似ていたんですよ。それで、向かいの家はいつも畑仕事しているんだなぁ、と思ったことがあって」
つまり、そいつは毎日、この用水路を跳んでいたことになる。
「そう思った瞬間、急に怖くなって」
喉から絞り出すように悲鳴が漏れた。
板の動きが止まった。
板は、物理法則を忘れさせるかのように、垂直に立ったまま、微動だにしない。
数秒後、突然、板が真上に跳んだ。
跳ねるたびに、板の角度が少しずつ変わる。
「忍者屋敷にあるどんでん返しみたいに、回転していったんです」
前後が完全に入れ替わった、次の跳躍。板は、彼の方へ近づいた。
こっちに来ている。そう分かった瞬間、彼は全力で駆け出した。
二度と、その道に入らなかった。
土の音は、彼がその家から引っ越す日まで、毎日聞こえていたという。
その路地を通るな、という父の言いつけの理由は、すでに亡くなっているため、聞くことはできない、と森下さんは語った。
了
近所に建物の隙間に挟まれた細い用水路がありますが、この話は創作です。
一実百虚恐話 川村人志 @arucard66
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