愛と憎を叫ぶ

「高校三年の秋だったよ。受験勉強が毎日つらかったから、よく覚えている」

 島原さんは私と同い年なので、今から十三四年前のことである。

 当時、彼は毎日、夜遅くまで塾に通い、受験勉強に勤しんでいた。

 その日、彼は二十一時過ぎに塾を出て、帰路についていた。

 川沿いの堤防を道なりに歩く。左に直角に折れて伸びる階段を降りる。その先は窪地になっており、なだらかに、川面よりも低く坂が下っている。彼のいつもの帰宅コースである。


「愛しています」

 階段に一歩、足をかけたところで、大きな声が聞こえた。

 前方に目を向けると、ゆるやかに右にカーブしている坂、視線の真正面に、木造二階建ての古いアパートが建っている。扉側を彼の方に向けているアパートの上に、女が立っていた。

 女は、リクルートスーツを着ていた。

「憎んでいます」

 浪々と謳い上げるような、調子の付いた声。

 その女が、喉が壊れそうなほどの声を張り上げていた。

 階段を降り、坂を下る間、彼はその女から目を離すことができなかった。

「一瞬、目が合ったんだよ」

 しかし、女は彼を見ていないように思えたという。


「こう……」

 彼が私の眉間を指さす。指先を、上へ、下へ、ゆるやかに動かす。

「人間は、というか、生物は皆そうなんだけど、目の前に動くものがあると、無意識に視線で追ってしまうんだよ。でも」


 その女の視線は、微動だにしなかった。

 それどころか、女は口以外の何も動いていなかった。

「あなたは私の一番なのに」

 彼は、なぜ誰も、様子を見に外に出てこないだろうと思った。

「私はあなたの一番じゃない」

 このとき、人どころか、車が一台も、周りを走っていないことに気付いた。夜とはいえども、まだ時刻は二十一時過ぎ。街が眠るには早すぎる。

「今死にます。すぐ逝きます」

 不穏な空気を感じ取った。何をするつもりなのか、不安が彼の心の中で震える。

「今死にます。すぐ逝きます」

 同じ言葉を、女は何度も繰り返した。声もさらに大きくなり、言葉も速くなる。


「そのとき、俺は完全にアパートの前に突っ立っててさ。動けずにその女を見ていたんだよ」


 十回か、二十回か、言葉を繰り返した後、唐突に女は口を閉ざし、飛び降りた。


「こう、垂直に立てたペンの尻から指を離したときみたいに、体がまっすぐなまま、前に」


 次の瞬間、女は消えていた。

 体が地面に叩きつけられる音も、苦痛のうめきもなく、唐突に女は消えた。


「一応塀を回って女が落ちたであろう場所を見てみたんだが」

 何もない地面があるばかりだったという。

「そのとき、急に音が戻ったんだよ。車も普通に走っているし、道を歩いている人もいる。じゃあ今まで何だったんだってね」


 それから数年後、彼が大学生のとき。当時交際していた彼女が、彼の留守電にその女と同じ言葉を残した後、飛び降り自殺した。

「彼女、その女を見た場所とまったくかかわりがないし、顔も体型も全然似てなかったんだけどなぁ」

 ただ、そのとき二股交際をしていたため、文言に心当たりはあったという。


 了


 十年前、ここではない小説投稿サイトに、二階から女の霊が飛び降りる小説を書いたことがありますが、この話は創作です。

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