黒鷺が寄る

「黒いさぎって、見たことありますか」

 近畿の大学に通っていた頃に聞いた話。

 その日はサークルの新歓コンパで、何名かの新入生が参加していた。

 井村は、新入生の一人だった。

 私は他人の名前を覚えるのは苦手だが、彼の名前は憶えていた。新入生の中で唯一、東北出身であり、その年新設された学部の所属だったからだ。

 私は、呑みの席では必ず、怪談奇談がないか、周りの人間に聞く。当然のように、新入生たちにも聞いたが、彼らは曖昧な返事をするばかりだった。

 彼らがいったん別の卓に移動し、しばらく呑んでいると、いつの間にか井村が空いていた私の正面の席に座り、黒い鷺について問いかけてきた。

「先輩、さっき蛙の話をしていたじゃないですか。それで思い出したんです」

 蛙の話とは、当時の私の数少ない持ちネタのひとつだ。幼稚園児のときに、自分の身長ほどの巨大な牛蛙を見たことがあるという、他愛もない話。

「黒い鷺? 見たことないな」

 当時、私は鷺といえば白い個体しかいないと思っていたし、実際、白い鷺しか見たことがなかった。

 これは後に知ったことだが、羽毛が黒い鷺は実際にいるらしい。ただし、脚やくちばしは黄色い。


 彼は、嘴から足先まで黒一色の鷺を今までに三度、見たことがあるという。

 一度目は、小学生の頃だった。

 空が橙に染まる時刻、友人の家から帰る途中。ある住宅の瓦屋根の上に、黒い鷺が立っていた。

 初めは、逆光だったからではないか、と考えたという。しかし、背中に当たる陽光の感覚で、すぐに違うと分かった。鷺は、橙の夕日を浴びてなお、黒黒としていた。影と見まごうほどの漆黒。羽毛は一本も逆立っておらず、濡れているかのように艶めいていた。

「綺麗だ、と思いました。そもそも、鷺自体初めて見ましたから」

 実際、鷺の主な生息地は中部以西であり、東北地方にはめったに存在しないという。

 鷺は、微動だにせず、ただ屋根の上に立つばかりだった。


 二度目は、中学生の頃だった。

 家族と共に千葉のテーマパークに行った。

 アトラクションに並んでいる最中、ふと隣の建物に目を向けると、屋根の上に、伸び上がるシルエットが見えた。

 そのテーマパークでは、動物はすべてファンシーにデフォルメされていたので、ひどく場違いに思えたという。

 すぐにそれが、黒い鷺であると分かった。

「そのときは、一度目のことは思い出せませんでした。ただただ、珍しいものがいるなと。その頃には、黒い鷺はめったに見かけないことは知っていましたので」

 前回見たときよりも、距離が近かったようで、そのときは、鷺の瞳には黒目しかないと分かったという。

 どこに視線を向けているか、分からなかった。

 鷺は、微動だにせず、ただ屋根の上に立つばかりだった。


 三度目は、数か月前。

 この大学の二次試験を受けるために、試験の前日に大学の最寄り駅まで、新幹線と在来線を乗り継いで来た。

 宿泊するホテルに着くと、せり出した入り口の屋根の上に、黒い鷺が立っていた。

「そこで、三度目だということを思い出しました。それから、ひょっとしたら、同じ鳥ではないかということも」

 過去二度よりもさらに距離は近く、羽の重なりや、脚の鱗による黒の濃淡を見ることができた。

「不吉な感じはしなかったですね。むしろ、応援されているような気がしました」

 鷺は、微動だにせず、ただ屋根の上に立つばかりだった。


 新歓コンパから数日後の深夜、井村からメールが届いた。当時はまだ流行りのソーシャルサービスがサービス開始しておらず、彼とはメールアドレスを交換していた。

「ベランダに黒い鷺がいます」

 一文だけのメール。写真が一枚、添付されていた。

 夜、明りのない部屋から、フラッシュをたかずに撮ったのであろう。外は暗く、かろうじてベランダの手すりらしきものが見える。

 以来、井村とは連絡が取れなくなった。

 彼が入った学部には知り合いがおらず、その学部は他とは離れた場所に校舎が建っているため、行ってみるのも面倒だ。

 そもそも、彼の消息を追って、何か分かるとは思えなかった。

 後日、その写真をパソコンに取り込み、明るさを補正してみたが、そこには空のベランダが写っているのみであった。


 現在まで、私は黒い鷺を見ていない。


 了


 幼稚園児の頃に、自分の身長と同じくらいの大きさの牛蛙を見た記憶がありますが、この話は創作です。

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