買い直す
「お化けとか、幽霊とか、そういう話ではないんだけど」
会社の歓迎会で意気投合した八原の部屋で、二人きりの二次会を開いていた。
彼は前月にこの現場に来た新人である。現場歴は私の方が二年早いが、派遣元の会社では同期であるため、口調にかしこまった様子はない。
彼に、何か怖い体験、奇妙な体験、そんなものはないか、と話を振ってみたところ、しばらく考え込んだ後、自信なさそうにつぶやいた。
「気味が悪かった経験はある」
彼の実家は、ここから遠く離れた場所にある。
進学のために引っ越すことになった際、実家の自室を整理することになった。。
彼には年の離れた弟がおり、彼が引っ越した後、弟の自室にしたいと、両親から言われたためである。
もう着られない古着、遊ばなくなった玩具、幼少時に集めていた石、いらないものはまとめて処分した。
それらの中に、本も含まれていた。実家のそばにチェーン展開している古本屋があったため、まとめて売却したという。
彼は大学を卒業し、私と同じ会社に就職した。
前の現場、つまり彼が最初に派遣された現場では、英文を読む機会が多かったという。
「理系に進んだ理由が英語の授業が1時間減るからってくらい嫌いだから、何が書いてあるのかまったく分からなくて」
さすがにこのままではまずいと考え、英語を基礎から学び直そうと思ったという。
そこで、彼はアパートそばの古本屋に向かった。
「英単語や文法って、ソフトウェアと違って、情報が更新されないじゃん。だから、古本で十分と思ったんだよ」
その古本屋は、私も絶版になった実話怪談本や、古典怪談や怪奇小説を求めて、たまにお世話になる。今時珍しく、店主一人で切り盛りする、古風な店だ。
英語とタグ付けされたコーナーに並べられた背表紙たちを、視線でなぞる。
あるタイトルが、目に留まった。
「高校のときに使っていた、英文法の参考書だったから、懐かしくて」
思わず、手に取り立ち読みをした。
それを用いて勉強をしていたであろう、前の持ち主と思われる書き込みが散見された。
「最初は、微笑ましく思っていたんだけど」
驚きのあまり、取り落としてしまいそうだったという。
「それ、俺が使っていた参考書だったんだよ」
筆跡、ペンのインクの具合、ページについたコーヒーのシミ。どこからどう見ても、彼が以前使用していた参考書だった。
運命を感じた彼は、すぐにレジに持っていき、それを購入した。
「それは、すごい偶然だね」
私は酎ハイを舐め、つぶやいた。
奇跡とも思える偶然の話は、過去にどこかで見聞きしたことがある。本が何人もの人々、いくつもの古書店を巡り、再び元の持ち主の手に帰ってくる話。
伝え聞くことしかなかった奇妙な話を、体験者本人から聞ける。そういった機会に嬉しく思いつつも、彼の言った『気味が悪かった経験』ではないな、と考えていた。
「いや、そうじゃあないんだよ」
彼の眉間に皺が寄った。
その年の年末、彼は実家に帰った。
自室は弟に使われたままだったため、仏間に布団を敷いて寝ることにした。
「四分の一くらいが物置になっているんだよ」
雑多に積まれた本の中に、あの参考書が置かれていた。
その瞬間、引っ越しのとき、売れなさそうな本はここに突っ込んでおいたことを思い出した。
「参考書、売ってなかったんだよ。書き込みだらけで、売れないと思ったから」
実家から戻り、持ち帰った本と、帰省する前とまったく同じ状態で自室の机上に置かれた本を見比べた瞬間、彼はそれらをまとめてゴミ袋に突っ込んだ。
「ゴミ出しのルールを破ったのは、後にも先にもあのときだけだな」
彼は現在、本は必ず新品で買うようにしており、古書店には決して入らないという。
「さすがに、四冊目はもう見たくない」
小さい声で、彼はつぶやいた。
了
本にまつわる偶然の話を聞いたことがありますが、この話は創作です。
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