現代病床雨月物語  第二十五話  「民とマリア観音 (その六)   魔王・信長に苦しみ秀吉に 明石城を返上した 信仰の人・高山ジェスト(右近)」秋山 雪舟(作)  

秋山 雪舟

「民とマリア観音 (その六)   魔王・信長に苦しみ秀吉に 明石城を返上した 信仰の人・高山ジェスト(右近)」

 高山ジェスト(右近)は摂津国で生まれました。現在の大阪府能勢町高山です。父は高山ダリオ、母はマリアです。妻はジェスタ(志野)です。

 高山ジェストは、一五七八年(天正六年)の荒木村重の謀反のとき荒木村重勢から脱落し魔王・信長の直参になります。その結果、魔王・信長から荒木勢の処刑の責任者にされました。これより高山ジェストは大きな十字架を背負うことになり、サムライとしての身分と信仰のあり方をめぐり自問自答する日々を送り続けることになり信仰の深みへと純化の道をたどって行くのです。

 思えば高山ジェストが魔王・信長の軍門に降ったのは自分が助かりたい為ではなかったのです。それは高山ジェストが味方になり力を貸さなければキリスト教の布教を許さないとオルガンチーノ神父に魔王・信長が脅迫したからです。その時に日本に布教に来ていた

オルガンチーノ神父や他の宣教師達はヨーロッパでキリスト教の新教徒・カルヴァン派によるオランダ独立戦争が一五六八年(永禄一一年)から始まっていて荒木村重が謀反を起こした一五七八年(天正六年)には、スペイン(旧教・カトリック教勢力)の戦況が思わしくないのを知っていました。だからこそ日本で旧教・カトリック教の布教をやめるわけにはいけない状況だったのです。

 オルガンチーノ神父達は、高山ジェストに魔王・信長の味方になり布教の自由を確保する道を進めたのです。高山ジェストは荒木村重を取るかキリスト教の布教の自由を取るか二者択一を迫られたのです。彼は、キリスト教の道を選びました。

 一五八二年(天正一〇年)に起こった「本能寺の変」について私は大胆な考えに行きつきました。よく語られる明智光秀が徳川家康へのおもてなしのあり方で叱責を受けたと言われるのは後に徳川方が創りだしたものです。また明智光秀が四国をめぐり魔王・信長と長宗我部との間で悩んでいたのは本当ですがそれが総てではありません。

 私は、高山ジェストの側近であるキリシタンサムライ達が明智光秀の決起をうながす決定的な情報を与えたと思います。その当時の日本の人口は約一二〇〇万と言われ多くの人達が都のある畿内に集中していました。およそ畿内には三〇万とも四〇万ともいわれるキリシタンが存在していました。全国の人口の二%から三%を占めています。現在の日本のキリスト教徒の二倍から三倍の信者が存在しその多くが摂津・河内(現在の大阪府)に存在したのです。

 高山ジェストの側近のキリシタン達は、明智光秀の側近に神(デウス)になろうとしている魔王・信長を打倒したいと伝え本能寺に逗留している時が一番の機会だと教えたと考えます。そしてその後には必ずキリシタン勢力も細川藤孝(幽斎)殿も味方すると言ったのです。

 その情報が同じキリシタンの黒田シメオン(官兵衛)にも知れ渡り秀吉の「中国大返し」が成功したのです。

 何故そこまで高山ジェストの側近のキリシタン達がその様な事をしでかしたのか、それは高山ジェストが魔王・信長に苦しめられている姿やこれ以上の大量殺戮をやめさせるためには自分達側近のキリシタンが高山ジェストに知られず行動をおこすしかないと思っていたからです。この時の魔王・信長は高山ジェストを自分を裏切らない信仰を大切にする真面目な人間と観ていました。

 「本能寺の変」の後は一部のキリシタン勢力が明智光秀に参戦しましたが肝心の高山ジェストも細川藤孝(幽斎)殿も参戦せず中川清秀等の旧荒木村重勢がいる秀吉方に付くことになってしまいました。側近のキリシタン達の考えとは異なる結果になりました。しかし魔王・信長の打倒は実現しました。この時、荒木村重もいとこの中川清秀方からの情報でこの事を知っていました。

 また徳川家康も後にこの事を知り徳川方は新教(カルヴァン派・プロテスタント)を味方に付け当時のキリシタン勢力(カトリック)を徹底的に弾圧するのです。豊臣秀吉もこの事があり後にキリシタンである黒田シメオン(官兵衛)を九州に遠ざけるのです。家康も秀吉も同様に「本能寺の変」の裏で活躍したキリシタンの役割を歴史から総て抹殺し主君殺し明智光秀の謀反として書き換え共に政権の盤石化を図るのです。

 「本能寺の変」後に政権を奪取した秀吉は、一五八七年(天正一五年)に伴天連追放令を出します。それと同時に家臣達にキリスト教の棄教を厳命します。それでも高山ジェストは棄教せず明石六万石を秀吉に返上します。高山ジェストは、魔王・信長に屈服した後の処刑命令を決して忘れてはいませんでした。時の権力者に屈服することが信仰においていかに苦痛と犠牲をしいるかを知っていました。

高山ジェストは信仰以外は総てを捨てる覚悟をしていたので多くの武将の説得も何の効果もありませんでした。

 高山ジェストは信仰を続け一六一四年(慶長一九年)長崎から家族や内藤ジョアン(貞弘)と共にフィリピンのマニラに十二月に到着し翌月の一六一五年(元和元年)二月三日に長旅の疲れから六三歳で亡くなります。その年は「大坂夏の陣」の終結の年でした。

 明石市の宝蔵寺にはマリア観音の十字架が伝わっており、キリシタン禁教令後も礼拝のため壁に埋め込んだと言われています。そして現在の高槻市とマニラ市とは姉妹都市になっています。また二〇一七年二月七日にローマ法王庁が「福者」として認めました。高山ジェストの記念日は病没した二月三日となっています。彼の信仰の精神は死なず今も現代人に信仰とは何か宗教とは何かを問い続けている様な気がしてなりません。

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現代病床雨月物語  第二十五話  「民とマリア観音 (その六)   魔王・信長に苦しみ秀吉に 明石城を返上した 信仰の人・高山ジェスト(右近)」秋山 雪舟(作)   秋山 雪舟 @kaku2018

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