第11話 妖しい愛の行方


 二人の関係は3ヵ月目に達成した。関係が進むに連れて、最近あることが少し心配になってきた。そのことを尾上さんに言ってみる。

 毎回、精子提供の行為をした後の彼女は、人が変わったように私に優しく接してくれるのだが、怒られるかもしれないので、聞くのにはなかなか勇気が必要だった。

「尾上さんが、妊娠したらもう終わりなんですよね?」

 帰り支度をしている彼女に。意外とストレートに聞くことができた。

「ごめんね。まだ妊娠しなくて時間がかかってしまって」

彼女が申し訳なく言ってくれるのが、私には心外だった。

「いや、それはそういう意味ではなくて、むしろ時間はかかってくれた方がいいんですけど」

「え?」

彼女は不思議そうに私を見つめている。

「いや、この関係が好きなんです。あなたとの関係が好きなんです」

 あなたが好きだと言いたかったがそれは禁句なのは分かっていた。彼女は長い間何も言わずに帰り支度を続けた。てっきり無視して何も言わずに帰るのかと思っていたら、

「あんまり、長いと情が移るからいけないよね。ごめんね」と言うと、悲しそうな顔をして部屋を出て行った。


 先週、この関係を続けたい、と言った時から、彼女の私に対する何かが変わってような気がした。

 彼女は相変わらず行為中にいろいろな命令をしてくるのだが、すべての行為に、今までの厳しさや冷たさがないのだ。すなわち、500万円であなたを買っているのよ! という感じがないのだ。

 最近、彼女は決して触らそうとはしなかった美しい胸を、私に開放した。ライトブラブルーの細いブラジャーを外して美しい胸の弾力を楽しむ。

 昔だったら思い切りつねられていたのは間違いない。

 今まで無理して我慢していたのだろうか? 行為の最中の甘い声は私を虜にした。

 とうとう、彼女はセックス中に私の自由を奪わなくなった。

 今だに、少しノーマルで無いことと言えば、、、

 最近はもっぱらお互いのセックスを動画や写真で取り合うことを始めたことだ。

 最初に彼女からそうしようと言われた時は流石にビックリした。

 でも「寂しいときに私のことを思い出したい」と言われた時はうれしかったし、お互い共通の秘密を持つことが楽しかった。

 彼女は、私が好きな時に塾の中でいつでも、私の好きな格好で自由に撮らせてくれた。写真はポートレイト的なものから始まり、何らかのポーズをとらせたもの、お互いフルヌードで撮影したものから、抱き合っているもの、結合部分を大写しにした下品なものまである。 

 携帯を見られることを恐れた私は、職場のパソコンにその画像を移し、暇なときに自分達の写真を見て楽しんだ。

 彼女が塾にいる時間も長くなり、セックスの前後を快適に過ごす為に、キャンプ用の小さく折りたたみができるマットレスを買ってきた。

 やがて写真だけでは飽き足らず、ビデオ撮影までするようになり、二人で裸で抱き合う姿をホームビデオに撮影して、終わった後、反省会と称して裸で抱き合いながら一緒に見た。

 最近は、金曜日の午後はなるべく塾の予約を受けないようにした。塾を休塾の状態にして、お酒を飲めるようにして、二人で気持ちよくなりながらセックスを楽しんだ。

 そんな感じで毎週接していると、私は尾上章子のことを章子と呼び捨てするようになった。

 これは章子が私にそう呼ぶように頼んできた事から始まったのだが、この、どうやっても手の届きそうでない女を、呼び捨てで呼んでいいことに対して、私は大きな満足感を覚えた。

 そして、そのうち章子はプライベートな話を聞きもしない私に、いろんな話をしてくるようになった。そして、また彼女は私の過去の恋愛話を聞きたがった。

 そんな時私は、子供の頃からエロ本を読み続けたことから、昆虫好きの女の子の話、中高生のときの全然持てなかった話、大学留学時のもう少しで童貞を捨てれた話など、志穂にも言えないような話を章子に聞かせた。

 章子はいつも大笑いして私の話を聞いた。

 章子も子供の頃、昆虫が大好きだったらしく、特に、ミユキと見てた、死んだカマキリの話になると、目を輝かせていろいろ聞いてきた。彼女の小さい頃は、ミユキといろいろと重なる点が多いらしい。しかし、ミユキの話をすると、昔の嫌なトラウマがよみがえって来るのでその話に関してはこれ以上掘り下げることを辞めた。

 尾上章子は私より10歳以上年下の28歳4月20生まれ、東京の有名私立大学卒業後、1年だけ外資系エアラインのキャビンアテンダントをしているときに、ファーストクラスを利用してロンドンまで行っていた夫の洋(ひろし)と知り合う。そして結婚して5年子供が生まれずに現在に至る、と言うことらしい。

 なぜ英語が話せるのに、私に英語を習おうとするのか?という私の素朴な疑問は解消された。最近は章子は、夫婦のもっと詳しいことを話したがる。どうやらかなりのストレスを抱えているようだった。

 彼女の旦那、洋は経営者の立場上いろいろな付き合いが多く、飲み歩くことが多く、朝になっても帰ってこないことが多いらしい。ルックスも良くて、お金持ちで人当たりも良いので女にももてる。

 簡単に言うと、私とはほとんど正反対な「持っている男」なのだ。

 彼女の話の中にも頻繁に、クルーザーだのフェラーリだの、私が一生手に入れることができないであろうアイテムが普通にならぶ。

 大きい家・別荘・ゴルフ等のいろいろな会員権、輝くばかりのステータス。これは章子にとってもかけがえのないものかもしれない。

 ただそういった物質的なモノではなく、彼女が飢えるほど欲しいのは素朴な愛なのかもしれない。

 ひょっとしたら? これは私の大きな勘違いかもしれないが、章子の心は既に私に大きく傾いているように思えた。

 章子の問題は愛情の問題だけではなかった。

 章子は、旦那のストーカー的な過干渉に悩んでいた。彼女の位置はGPSで管理されていて、いつも行動をチェックされている。

 旦那自身は自由に行動して、必要なときに章子を呼びよせて、そして欲求を果たす、と言った感じの夫婦関係だった。

「ねえ、男にも生理があるの知っている? うちの夫は週に1回はあるのよ」

 章子は、家でなにか夫と悪いことがあると、決まってこのフレーズを言った。そんなときはいつも黙ってやさしく抱きしめるようにした。

 私と章子の距離はもはや誰よりも近い気がしていた。

 しかし、彼女の話は時々、ある意味不可解でもあったし、そういう気持ちが強くなればなるほど私を不安にもさせた。仕事が暇な時間はいつも章子のことを思った。

 出会ったきっかけを冷静に考えてみれば、このような旦那の性格であれば、私のような第三者に、妻に子種を直接注入するという、キチガイじみたことに承諾することができるのだろうか? 聞こうか聞くまいか?1週間程度悩んだ挙句、章子にたずねた。

 そのときの彼女の返答が忘れられない。

 私が彼女に聞いた直後、まず彼女は涙を流した。

 泣いたわけではなく、大きな瞳に次第に涙が溜まっていき目の表面がかすかに波立ちにじみこらえ切れずに頬を伝って落ちて行くのがとても綺麗だった。

「ごめんなさい。最初に会ったときから、どうしてもあなたの子が欲しくて、旦那は精子バンクに行って一番ましなのを選べとしか言われてなくて、、、騙してごめんなさい」

 これを聞いた瞬間、正直な話、旦那がこのことを一切知らないことに背筋が寒くなった、と同時に、章子の心と身体を完全に得たことが誇らしかった。

「いいよ。何も怒ってないよ」

 彼女を強く引き寄せるといたわるようにキスをした。

 既婚者である私は間違いなく人妻である章子に恋をしていた。

 しかし、ここからが現実との葛藤の始まりでもあった。私の思いが遊びでなく本気になる度に二人の未来を想像せざるを得なくなった。

 かわいそうな章子、なんとか助けてあげたいと思う一方で、実は、彼女が本当に尾上章子であるのかと言う疑いを持っている自分が現れた。

 彼女の話によれば彼女の夫は会社をいくつも持っている実業家ということである。どうしても彼女の事を詳しく知りたくなり、グーグルで検索を繰り返す。そして尾上章子・尾上洋を検索するが一向にそれらしい名前は見当たらない。彼女の話が正しければ仮名を使っていることになる。

 多分そのうち本名を教えてくれるのは確信しているのだが、本名さえもしらない事が、夫の洋と差をつけられているようで悔しかった。

 最近の私の頭の中では、いつもどちらを選ぶかのシュミレーションが行われており、

 それは妻と子供を選ぶのか? 

 それとも章子を選ぶのか?

と言うことだった。考えれば考えるほど分からなくなり、最終的に頭がグルグル回ってめまいまでするようになった。

 それでもそのまま悩考え続けた結果、私が気分が悪くなるほど悩んでいることは、

「二人のうち一人を選ぶ」という選択ではなく、どうやってスムーズに妻志穂と別れるかということを悩んでいるのだということに気付いた。

 志穂とわかれるということは、もちろん息子の博人も捨てていくということになる。

そして、妻の優しそうな両親の顔もちらつく、両家の親に資金的にも援助を受け盛大に行った結婚式と披露宴はすべて無駄になる。

 離婚した昔の同僚が居酒屋で言った独り言を思い出した。

「別れるときのエネルギーは結婚するときのエネルギーよりはるかに大きい。離婚する時はまるで地獄のようだ」

そのときは何の気無しに聞いていたこの言葉だったが、今となってはこの言葉の意味が理解できた。そしてこの言葉が心が安らいだときに不意打ちで私の心に入り込み、わたしの心をかき回した。

 そんなことを、何万回と繰り返していると、いろんな意味で、私が地獄に向かって落ちていく覚悟を持ち始めていることに気付いた。

 金曜日ごとに私と章子の愛は深まっていく。

 今回、章子は言葉攻めにうれしそうに反応した。耳たぶを甘噛みし、卑猥な言葉達をささやき問いかける。

「どうしてこんなに濡れてるの? すぐここはよだれ垂れちゃうんだね? どうして?」章子は、こういったねちっこい質問をすると、息を荒くして苦しそうにもだえる。そして口を塞ぎたくなるような大きな声で悶えていく。

 正常位からバック、そして騎乗位といろいろな体位を楽しみ、時折腰の動きを止めて焦らし、腋の匂いを散々嗅いだ後なめまわした。

 狂った動物のように抱き合って、彼女の中に放出した後、抜きもしないで抱き合う。彼女の膣の中が痙攣するようにピクピクするのが心地よかった。

「もう私耐えられない」

 繋がれたまま章子は言った。

「旦那とは相変わらずなの」

 正直なところ彼女があまり上手くいっていないことがうれしかった。

「左腕思い切り殴られたの」

 殴られたという一言にドッキリした。先程のうれしい気持ちが一瞬で不安に変わった。幸い彼女の左腕に一目で分かる怪我はないようだが、今まで夫からの暴力に関しては、章子から聞いたことがなかった。

「暴力、、、ふるわれてるの?」

 聞いた後、いたたまれなくなり、中に入っているまだ少し硬直したモノを静かに取り出した。章子は両足をペタンと足をひろげて座り込むと苦痛いっぱいの顔で静かにうなづいた。

「危ないよ! 離婚しないと!」

「でも」

 彼女も離婚するまでの勇気が無いのだろう。言葉に詰まった。

私は章子の返事を待つ。「私ね、わたしね」そこから話が進まない。私は章子の身体を再度抱きしめた。

「私ね、怖いの、最近彼がすごく私を邪魔者にしてて、とにかく言葉や暴力がひどくなってきて」

 章子は相当追い詰められているようだった。

「これ見て!」

 言うやいなや彼女のブランドバックを乱暴に引き寄せて何かスカーフに包まれた物を目の前に取り出した。

「これは?」と聞いたが、彼女は何も言わずに私に包みを突き出した。

 あけてみて!ということらしい。スカーフを開いていくと、見たことが無いとても大きなサバイバルナイフが出てきた。刃の部分だけで20センチもある頑丈なナイフは冷たくてずっしり重かった。

「これでどうするつもり? まさか、、、」

 あまり聞きたくなかったが私は確かめずにいられなかった。

「もちろん私は使いたくないわ。でも夫が本当に私に暴力をふるってきた場合は、これで威嚇しようと思うの」と彼女は自分を奮い立たせるように言った。

 このときばかりはいつもピュアで美しい彼女の顔は、まるで鎌を研ぐカマキリのように妖しく見えた。

「別れたほうがいいよ。別れてくれないか」

 もう章子に対する気持ちを押さえ込むことはできなくなっていた。

「俺と一緒になろう!俺が君を守るから」

 自分の覚悟ができているのか確認するにはとても良い機会だった。

「でも、でも」

 章子は涙を流しながら私の申し出を断ろうとしているがそれをくちびるで止めた。

私が離婚することを心配している章子の優しさは痛いほど分かった。彼女にしゃべらせて湧き上がった気持ちをおさえられるわけにはいかなかった。

 二人はしばらく抱き合った後、二人の将来についてまた来週の金曜日に話し合おうということで別れた。別れ際に、泣きながら何度もおじぎする章子がどうしようもなく愛しかった。 皮肉なことに、章子と会えないときはこの恋愛は私に苦しみしか与えない。

 どう妻にこの別れ話をきりだせばいいのか? 仕事中でさえ考えてしまう自分がいる。皮肉なことにこの大きなことを決断した後に限って、頭の中に結婚する前や、結婚直後の楽しい記憶が甦ってくる。

 海辺のイタリアンレストランで、3時間かけてやっと好きだと打ち明けたこと、

 披露宴の音楽決めや余興の計画を二人で練ったこと、

 新婚旅行のこと、

 初めて息子が授かったと分かった日のこと、

 出産に立ち会ったこと、

 息子が初めて歩き出したこと、

 お互いの両親の顔、思い起こせば離婚に向けていろいろな決断を出来なくなるのは分かっていた。少しでもこのような記憶が頭の中に甦ろうとすると、急いで章子のことを思うようにした。

 章子は、今彼女の夫から暴力を受けていないのだろうか?

 それともさみしく放って置かれているのだろうか? 

夫は浮気を重ね愛人をつくって妻には命令し暴力で干渉するなんて、考えただけで激しく怒りがこみ上げた。章子の夫はなんて最悪なのだろう。

 やはり章子を守らないといけない。

 守るということでは、同じことが妻の志穂と息子にも言えるのかもしれないが、残念ながら、志穂と息子に対する愛情は、章子のそれに比べるとひどく小さく見えた。

 そしてまた章子のことを考える。今彼女は夫に抱かれているのかもしれない。

 自分と同じようなことを章子はあの男にしているのだろうか? 

 いやヤラされているのだろうか? 

今度は夫に対する激しい嫉妬心と怒りが持ち上がる。

 章子の心は自分のものなのに、なぜかあの男が章子を抱いている。許せない。

 自分の心が恐ろしく動いて動揺している。そしてこの動揺は止められそうになかった。

心を落ち着かせる為にスマートフォンの写真アプリのアイコンに指を置く、数え切れないほどの章子との写真を眺めて大きく息を吐きだす。

 このようなストレスフルな状況の中で、最終的に自分の離婚へのモチベーションを高めるのは「章子を抱きたい」という性欲だった。

 写真には惜しげもなく美しい裸体をさらした章子がいる。何回も見たお気に入りの、性器だけを大写しにした欲情的なものから、美しいポートレイト写真と動画まで、全部鑑賞するには数時間かかるほど大量にあった。

 もともと、こそこそと職場のパソコンのファイルの奥底に隠していたものだが、最近は堂々とスマートフォンにいれたままにしている。

 いっそ妻に見つかった方が簡単に離婚の説明ができる気がした。

 木曜日になった。運命の金曜日が近づいてくる。

 今度の金曜日の夜に私は妻に離婚を切り出すことに決めた。

 章子と日中愛し合った後、その足で妻に話しに行く。妻は逆上するかもしれない。泣き喚くかもしれない。思い切り私を軽蔑することだろう。思い切り殴ってくれたほうが気が楽かもしれない。

ほぼ満月の夜だった。世間ではスーパームーンが来たとかで、ニュースで言っているのは知っていたが、大きな満月が出たと言うこと以外は何も知らない。

 木曜日の深夜にいつものように塾からひっそりとアパートに帰ってきた。

 最近数ヶ月、帰ってきても妻と息子の寝顔さえも覗かなかった自分だったが、今夜はすこし違う気持ちだった。

 明日の夜、妻に離婚を切り出すことを考えると、二人の寝顔を見つめるということは今夜が最後になってしまう。妻と話をするのはどうしても避けたかったが、一目だけどうしてもその光景を焼き付ける為にみておきたかった。

 家の中はとても静かだった。妻と息子が寝ている寝室の前に来るとそっとドアを押し開けた。カーテンの間から光が漏れて、妻と息子の顔が明るく照らし出されていた。

 妻や息子を起こしてしまうことを恐れていたが、見る限りは、ぐっすり眠っているようだった。

 二人の寝ている場面を脳裏に焼き付けると、二人を起こさないように早々と寝室から出て浴室に向かった。

 10月になったからだろうか、アリバイの為に毎晩行っているシャワーは少し肌寒かった。いつもより早くシャワーから出ると、急いで服を着て自分のベッドに向かった。

ベッドの上に寝て、妻が交換してくれたと思える、いつもより厚めの布団を頭からかぶる。 目をつぶって呼吸を整えてあわよくば眠りに落ちたいと思った。今夜は寝苦しくなるのはわかっていた。

 金曜日の朝、目覚ましの音で目を覚ました。

 絶対に昨晩は眠れないと思っていたのが、結果的に寝れていることに少し驚いた。

ただ寝てる間あんまり良くない夢でも見たのだろう。汗を沢山かいていて眠りが浅く朝の爽快感というものは無かった。

 台所の方で、妻がいつものように朝食を作る音がかすかに聞こえてくる。

 安らかに彼女の朝食が食べれるのは、今日が最後になる。これから先に起こる事を考えると居間に出て行くのが億劫だった。

「おはよう。昨日も遅かったのね」

 妻は私の気持ちとは反比例な挨拶をした。息子がトコトコと近づいてきて、ありったけの笑顔で抱きついてくる。いつもなら息子を抱き上げるのだが、この時ばかりは罪悪感で、急に息苦しくなり吐き気までした。

 妻がお箸を目の前に置いてくれて、ご飯と味噌汁をと目玉焼きを置いてくれる。

暗黙の家族のルールで、ご飯をつぐのは私の仕事だったのだが、最近はそれをしなくて良くなっている。

 食事中、私は妻や息子が話しかけてもなるべく返事だけで返した。いつもは疲れた芝居をしてそうするのだが、今朝は罪悪感に押しつぶされそうなので純粋に息苦しくてできなかった。そんな状況の私は「顔色が悪い・病院に行くべき」等散々妻に心配されて窮地に追い込まれた。

「俺に構わないで!」

 ふつうに言うつもりだったが声が大きくなり怒っているように聞こえたようだ。なぜなら息子が震えるように泣き出したからだ。

「仕事に行ってくる」

 泣いている息子を慰めている妻を置きざりにして、急いで寝室で着替えるとカバンをひったくるように拾い上げた。

「あなた!」

 居間を通り過ぎて玄関に向かう途中妻は私を呼び止めた。なんとも哀しい顔で私を見てくるのに、なぜか同情ではなく怒りが湧き上がってきた。

「おまえは子供をだまらせろ!」

 今度は恐ろしいほど声を張り上げて彼女を怒鳴りつけ玄関に走りドアを思い切り蹴り開けた。

 ここまでの醜い醜態を家族に見せたことは無かった。最低最悪の行為だとは分かっていたが、これからもっと最低にならなければいけない事を考えると懸命な現実逃避の選択だった。

 外にでるといきなり酸素が増えたようで呼吸が楽になった。

 とりあえず章子のことだけを考えられることがうれしかった。

 塾までとことこ歩きながら今日のことを考えた。

 不思議なことに自分の離婚に関しては困難があるとは思えなかった。息子の親権は妻に渡し慰謝料をいくらか払えば良い。

 章子と比べれば比較的スムーズ離婚できると信じていた。私の中では、章子の離婚がスムーズに行くのかどうかというのが一番の心配ごとだった。

 章子の夫とはいずれ会って話し合わないといけない。一筋縄ではいかないだろう。そんなことを考えていると段々と興奮して歩くのが早くなった。

 その前に、はたして章子は離婚する勇気があるのだろうか? 素朴な質問が頭をよぎった。彼女にも強い気持ちを持ってもらわないといけない。

 万が一、章子が私との愛より夫の資産の為に我慢する道を選んだら? そんなありえないことまで考えてしまう自分が情けなくも思えた。

 コンビニで鮭のおにぎりとサンドイッチを2つと無糖のコーヒーを買うと塾に向かった。朝食の途中で家を飛び出してきたのでお腹がすいていた。

 塾に着くと、飢えた犬のようにこれらに喰らいつく。時計を眺めるとまだ9時だった。章子が来るまでにはまだ時間があった。

いつものように金曜日のクラスは入れてないので何もすることがない。正直眠たいのだが気持ちが高揚してそれどころではなかった。

 ひととおり何をすべきか考えた後、いつのまにかビールを飲み始めた自分がいた。

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