第5話 尾上章子という女
パソコンの画面をのぞくとこの前問い合わせされた尾上章子から返信が来ていた。
前のメールでお子様の受講なのか・希望の科目があるのかメールで聞いたのだが、それには全く答えられずに「本日14時に参ります」とだけ書かれてある。このようなお客さんには慣れているので、なんてマイペースな人なんだろうか? とは思わなかった。
今日14時には何のクラスも入ってないことは分かっていたので予約は簡単に取れるのだが、当日にメールして3時間後にこちらの都合も聞かずに予約される人は珍しかった。
経験上この方は塾に入らないと思った。結果が見えた感じがして、自分のテンションがさがっていくのが分かった。
このタイプの方は塾に万が一入ったとしてもなんかの理由でややこしくなる。
そう思いながら、もう来ると決めてるお客様のために「お待ちしています」と返信した。
中学生に教える数学の問題をあらかじめ解いていると、約束の時間が迫ってきた。
先ほどのメールの返信と一緒に地図のアドレスをリンクで貼り付けていたのだが、たぶんメールさえも見ていないのだろう。
14時からだんだん時間がすぎていく、部屋と塾の入り口の廊下を行ったり来たりする。 遅れるとの連絡もない。普段ならもっとイライラするのだが今回は想定内だった。
14時から20数分たったころドアが激しく叩かれると、ひょっこりと長い髪の女の人が顔をのぞかせた。
びっくりした。なぜなら想定外の容姿だったからだ。
その人は私の姿を見つけると、ニコリと微笑み遅れたことを丁寧に詫びた。
とても三十代には見えない。女性の整った綺麗さに、やや圧倒されながらとりあえず入ってすぐの受付の部屋に入ってもらい、いつものようにアンケート用紙の記入をお願いした。彼女はフンフンと可愛く頷くと大きな文字で尾上章子と名前を書き込み初対面とは思えないフレンドリーな目線を私に向けた。
まっすぐに目を見てくる人は嫌いではなかったが,瞳の中にすいこまれそうだった。
私は彼女の前に移動してテーブルの中に入り込んでいる大きな椅子を引き出しゆっくりと座った。
フォームに集中して記入していることをいいことに、普段とは違った美しい訪問者をテーブルから見える範囲で舐めるように凝視する。普段はこのようなことはしない。なぜなら中高校生は私には幼すぎるし、その両親達は私にとってはだいたい年上だし、そもそも私は今までに人の女に手をだそうと思ったことがない。
清潔感のある高そうなシャツのボタンの2番目までは開いている。中が見えそうな気がするが、もちろん身を乗り出せる勇気もスケベ心もなかった。
「尾上(おがみ)さんでよろしいいですか?」
名前を確認すると彼女は白い歯を見せて返事した。
一言で言うと愛嬌がいいということなのだが、なんかそれ以上の物も感じた。彼女の裏のない暖かい視線が絡みつくようだった。
「本日はお一人のようですが?」
何かさぐるように聞いてみた。「はい そうですよ」
不思議そうな目で純粋に聞き返される。
「いえ、うちはほとんどが、その学生の未成年の方が多いものでして、一応聞いて見ました」
失礼の無いように何故あなたはここにきたのですか? と聞いたつもりだった。
「学生しかだめなんですか?この塾は」
「いや、そういう訳では無いんですが」
どうやらこの目の前の美しい女性自身が受講したいようだ。今から大学にでも行きなおしたいのだろうか? たまにそういう方がいるのは知っている。
「何を受講されたいのですか?」
「そうですね。何がいいかな?」
彼女は上を見上げながら考えだした。正直なめている。
この人はいったい何を考えているのだろう、と思っていると、
「英語で! 英語教えてください」となんか食堂で何か食べ物を注文するように言った。
「英語と言われてもですね」
「英会話は、英会話得意ですよね? 私塾長さんの自己紹介見ましたよ。アメリカにいたんですよね?」
「はい。まあ英会話は個人的に好きですが、、、ここは塾なので、それも学生向けの」
むちゃくちゃな人だ。即座にこの人の依頼を断ってみたいものだが、美人なのでなかなかそれができない。
「じゃあ、英検でいいです。というか英検がいいです。英検なら教えるでしょ? 学生さん達に?」
「あ、はい。確かに英検を教えることはありますが...」
本気で勉強されたいんでしょうか?と聞きたかったのだが、その部分は売上欲しさにオブラートに包んだ。まだまだこの塾では生徒さんを選んで門前払いするほど売上が多くなかった。
「ありがとうございます」と言わざるを得なかった。それに魅力的なのだ。
塾を開くにあたって、絶対に生徒さんには手を出さないと自分で決めていた。実際来られる生徒さんの年齢は若い過ぎるほど若い。アラフォーの私はロリコンでもないので、生徒さんが魅力的過ぎるということで今まで悩まされたことはなかった。
いちおう英検2級をやられるのだが、海外旅行が多いので会話を中心に通うことが決まり、そこから話はトントンと進んだ。彼女は毎週金曜日の午後13時に通うことになった。 彼女は申込書をノリノリで書き、受講料2ヵ月分と英検準1級のテキスト代金を払い込むと帰っていった。うっすらと残った香水の残り香の中で、あまりの彼女の美しさに、顔がにやけてしまう自分がいた。
楽しみにしていた金曜日が来た。なぜかいつもより高いスーツを着て、鏡で髪型を確認して授業に備えた。彼女は定刻どおりに現れた。
タイトな短いスカートに胸の開いたシャツ、いつも教えている子供っぽい制服の女の子達とはまったく女性としてのレベルが違った。英検には興味がないだろうと思っていたのだが、予想に反して、真剣に尾上さんは問題を解いてくれる。それ自体は授業がやり易く助かるのだが、背伸びをしたり脚を組み替えたりと仕事中今まで経験したことのない「お色気」に苦戦した。
1時間のクラスが終わると自然と雑談になった。学生の生徒さんなら次に授業が入っていなくても「次の授業があるので」と何気に追い出そうとするのだが、今回はそういう気にはなれなかった。
私がだした冷たいお茶を飲みながら、尾上さんは自分のことを語った。
現在29歳であること、結婚していること、旦那さんは美容室等を数店舗経営している実業家、すなわち社長であることが分かった。その説明で彼女が着てる服や、バッグの高級さに納得ができた。
正直、既婚者だと言ってくれたことでがっかりしたが、自分の中で変態で不純なスケベ心が消えていくのが分かった。おかげでだいぶんリラックスして話すことができるようになった。お返しに、とは言わないのだろうが、私は自分の妻や息子のことを話した。
彼女は赤ちゃんの話がとても興味深いらしくいろいろと質問してきた。
どのくらいで生まれてきたのか?
安産だったのか?そうでなかったのか?
こちらから聞くことはしないが、彼女の雰囲気からこの人は赤ちゃんが欲しいんだな、と言うのが分かった。見かけによらず家庭的な人だなと思った。
私がスラスラ言える範囲で息子が3500グラムで生まれたことや、初産なので18時間かかったこと。出産には仕事であんまり立ち会えなかったことを答えると、彼女は興味深そうに頷いた。
ひとしきりいろいろと話をしてふと部屋の時計を確認すると、授業の終わりの14時をはるかに越えて15時30分を過ぎていた。1時間30分も話していることに気付かなかった。
若い頃自分も経験したことのある結論のでない、ある意味しょうもない恋愛話とか悩みを話してくる若い学生達には、10分以内で上手く結論をまとめて追い出すくせに、この愛くるしい人妻には、とてもやさしく接する自分を少し恥ずかしく思った。 彼女を見送った後の教室で、しばらくの間ボーっとして幸せなひと時の余韻を楽しんだ後ようやく事務処理を始めた。
次の学生の生徒さんが来るまでにはまだ2時間少しある。こういった空いた時間はだいたい事務処理をするか、銀行に受講料を入金に行くか、事務用品を補充に行く等、やることはだいたい決まっていた。とりあえず会計ソフトに経費や売上を打ち込むのだが、尾上さんの口元や、やさしい眼差しや微笑みが頭の中を駆け巡りなかなか集中できなかった。
梅雨の時期は思ったよりも短く6月から7月に移り、日々の温度は上昇し暑苦しい日々が続く。
尾上さんは塾を辞めることも無く順調に通ってきている。英語の実力も上がってきて英検準1級も合格しそうなのだが、テストを受けるつもりもないらしい。とにかく会話させできていればいいようで、英会話の時間がどんどん長くなった。英会話は特にフレーズを教えている訳ではなく、アドリブで話す感じで私がたまに訂正をしてあげれば良かった。正直なところあまり教える必要が最初から無い生徒さんだった。
本日金曜日彼女が来るのを待つ。いつもニコニコしながら勢いよく入ってくる筈だったのだが10分遅れてやってきた。
「ごめんなさい」とだけ彼女は言うと、いそいそとテキストを机の上に置いた。
今日は会話よりも問題を解きたいと言う。教えているときも彼女のいつものリアクションは無かった。答えが間違って机をトントンと叩いて悔しそうに言い訳するところが、かわいげがあったのだが疲れているのだろうか? 間違っても「はい」と気の無い返事を繰り返すだけだった。やがて60分のクラスが終わった。いつもはここから1時間くらい喋り始めるるのだが、終わった瞬間彼女は黙り込んだ。
「お疲れのようですね」と彼女の目を見てゆっくりと言うと
「いえ、全然疲れてないんです」と何ともいえない疲れた顔で返事された。
深く聞きべきではないとも思ったが聞かざるを得なくなった。
「何か悩みごとでもあるんですか?」
そう言った瞬間、彼女はぐっ私をみつめて「相談してもいいですか」と返した。
「いいですよ」とやさしく返す。普通の生徒のようにドライに返せる雰囲気でもなかったし、むしろそうはしたくなかった。
「ふざけてると思わないでくださいね」
「はい」
いったい今から何を言われるのだろう?
「私、子供がほしいんです」
「はい」と答えたものの、この人には夫もいるし、そのことを突っ込んで聞いていいのかも分からない。
「結婚してもう5年になるの」
少しづつかみ締めるように喋り、彼女は私の目を確認するように見つめてくるのは嫌いではなかった。心の底を探られてるようでドキドキした。
「ずっと、やってるんだけどできなくて、、、」微妙な主語の省略が艶かしく、彼女の口調がカジュアルになったところに生暖かい親近感を感じた。
「不妊治療とかはされたんですか?」
私はまるで産婦人科のドクターのように冷静を装い口調を変えずに聞いた。
「主人は忙しいとかめんどくさいとか言って、かなり嫌がってたんだけど、私と夫の両方を調べるのが前提だからって、なんとか説得して、夫の精子を家で回収して、、、」
家で回収とはどうやって?と好奇心のままに聞いてみたかったが、彼女の真剣な表情がそれをさせなかった。
「夫が無精子症らしくて、全く手段がないわけではないらしいんだけど、、、それには、夫婦そろって病院に通ってお互いに痛い思いして、、、それに赤ちゃんが100%保証されてるわけではなくて、、、」
彼女は言いにくそうに説明をしていく。
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