第13話 必然性カタストロフィー
うららかな日差しも徐々に暑くうざったるく感じるようになってきたころ。いつものようにあの喫茶店には1組の男女がいた。窓際の一番奥の席だ。
「検察は無期懲役を求刑し――」
客の話は阻害せず、適度な雑音として会話のしやすい空気を作り出し、時には話題を提供する、マスターが客のことをよく考えて……否。マスター自身のことだけを考えておかれたテレビから、最近話題のニュースが流れている。犯人が死刑にならないように人が死なない程度の爆弾を複数つくり、犯行を繰り返した、と供述したニュースだ。
「ねえ良太。これ、どう思う?」
美保がこう聞いてくるときは、基本的に自分の中である程度意見が出来上がっているが疑問が残っている時だ。良太はとりあえず、質問に質問で返すことにした。
「美保はどう思う?」
「なんで死刑にならなかったんだろうって」
例のごとく、コーヒーを口に運びながら考える。この事件は難しい、と良太は思っていた。
「簡潔にまとめると、道徳観と倫理観の違いだと思うんだ」
良太は呼吸以上ため息以下の、軽い空気の塊を口から押し出した。重たい話題は好きじゃない。死刑にまつわる話だって、実際に事件が起きていなければ語るのもやぶさかじゃない。被害者の方を話のネタにしているみたいで、いやな気分になる。けれど、美保がこの事件を疑問に思うなら、結論を出さなくちゃならない。これは宙ぶらりんで置いておいていいような問題じゃないからだ。
「道徳観ってのは、僕らが思う善悪観。倫理観ってのは、法律や社会を中心にした善悪観。正義は一側面で表しきれないって話なんだ」
いつものように、持って回った言い方。しかしその雰囲気は決していつも通りではなかった。周りにあまり聞こえないようトーンを落としているせいもあるかもしれない。
「裁判官の人たちも死刑にしたいときでも法律が許してくれないってこと?」
良太はゆっくりと、軽くうなずいた。
「もちろん本人に聞いてみないとわからないけど、多分。傍聴席で見ていた限りでは」
「え、行ってたの?」
美保が目を丸くして驚いた。そこまで驚かなくても、と良太は言う。
「暇なときはできるだけ、調べ事をしたくて」
美保に話すために、とは口が裂けても言えないな、と良太は思った。
「それで、さっきの話なんだけど。正義ってのは人側面で簡単に語れるもんじゃなくて、「皆を守る」も正義だし、「皆を殺してでも大切な人を守る」も正義だし、戦争の英雄は敵国からしたら殺戮者だ。伊藤博文なんか朝鮮じゃ極悪人ってことになってる」
「あ、それは聞いたことある。伊藤博文」
乾いてきた口をうるおそうと、良太はコーヒーを飲んだ。窓から差し込む日差しにアイスにすればよかったかな、と今更ながら考える。
「死刑にならない程度にした、無期懲役になりたかった、だれでもよかった。その発言のどれをとってもあいつは紛れもなく悪だよ。それはゆるぎない事実。でもそれに対する正義の見方は一つじゃない」
みんな正義の味方ではあるんだけどね、と良太は笑った。面白くないけど微妙にうまい、と美保はジャッジする。
「歴史上の人物みたいな、一方から見たら正義で他方から見たら悪、みたいな人はゆるぎない道徳観を持った人なんだ。倫理観には沿っていないから、社会が変わると悪になる。僕らだって基本的には自分の道徳観に沿っている。良くも悪くもね。ちょっとくらいいいだろって信号無視とかポイ捨てとかするのは悪い例。法律という倫理観がベースの道徳観という良心に従ってるんだ。けれど、唯一、道徳観じゃなくて倫理観に従っている良心がある。それが憲法に「すべて裁判官は、その良心に従い――」って書いてある良心」
「あ、それも習った気がする」
現代社会は去年やったばかりじゃないか、と良太はつっこんだ。定期考査を過ぎたら忘れてます―。世の中の学生そんなもんですー。と美保は抗議する。
「死刑は必要か、って時折議論されるけど。必要か否か、じゃなくて僕らが必要とするか否か、だと思うんだ。weather be need or notじゃなくて、we need or not」
「なんかそれ国語の教科書にもなかったっけ。ほら、プディングの味はのやつ」
「そう。それで今回、確かに僕達は死刑を必要とした。少なくとも僕はそう思う。裁判官や検察の人だって思ったはずなんだ。でもそれはしてはいけない。それこそ歴史上の人物みたいな人が検察にいたら死刑を求刑していると思うけど、いくらしたくても、立場と法律がある。……でも、僕的にはやっぱりあそこは死刑を求刑するべきだったと思うんだ」
「良太でもそう思うんだ」
「その言い草じゃ僕に人の心がないみたいに聞こえるんだけど」
そういうと美保は笑いながら言った。
「いやだって良太、いっつも理論武装だし、恋とか愛とか語るときでさえ」
「それは……まあいいや。あのとき死刑さえ求刑されていれば、死刑を回避する前提で行われた残虐な行為は、犯人の反省もないようであれば死刑にできるって前例ができたのに。むしろ、そのラインさえ守れば死刑判決は出ないって前例を作ってしまったんだ」
そう話しているうちに、ニュースはすっかり別の話題に切り替わっていた。リポーターがカピバラと触れ合っている。ニュースで視聴率が稼げるようになった弊害だと良太は思った。テレビで流されないニュースは多い。特に海外のことだと、大きく社会情勢あ動くようなニュースでも、カピバラに負けてしまう。
「これ以上悪さをすれば罰する、という法律は、ここまでならOKという悪い指標にもなりうる。加害者が喜んで、被害者が悲しむルール。そのどこに正義があるんだ」
珍しく良太が感情的になっている。美保は黙って聞き続けた。
「倫理観が道徳観を凌駕するなら、それこそすべてAIにでも決めさせたらいい。法律が形骸化して物神化されるようなことがあれば、その根本にある正義は消えてなくなる。正義は暴走しやすいから、一定の基準を設けるのは必要だけど、基準はあくまで基準で絶対順守のルールになっちゃいけないんだ」
つまるところ、正義感の違いは優先順位の違いだ。何を守るか、何に従うか、何を悪とするか。人間ではなく、モノや概念そのものがその優先順位の頂点に立ってしまったら、人という生き物は支配されるだろう。
初夏へと移り変わるこの時期。窓の外では青い葉をつけた木々がどこか寂しげに鳴いていた。
気が付くと、コーヒーはすっかり冷めきっていた。ふと、今自分が優先すべきだったのはしゃべりたい、というこの心だったか、温かいコーヒーだったか、と考える。決まっている、と良太は生ぬるいコーヒーを一気に流し込んだ。
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