第9話 悲哀サイレントキャット
——昔、道路で猫の死体を見かけたことがある。
初め、遠くから見かけた時はカラスが袋をつついているのだと思った。だが、近づいてよく見てみると猫の死体だった。
目立った傷はなかった。車通りの少ない路地だった。冬のことだったから、寒さに耐えれなかったのか、餌の少なさから飢えたのか。
猫は静かなままで、音ひとつ立てなかった。
理由は全くわからなかったが、とにかくなんとも言えない感情が湧き上がったのを覚えている。
悲しみ、では無い。私はあの猫のことは全く知らなかった。思い入れは一切なかった。
哀れみ、では無い。車に轢かれたなどという訳では無いのだから、あの猫は自然の摂理のままに、死ぬべくして死んだ。
それでも、形容したがい、言語化する前の感情が、その胸の内に膨らんで、ズルズルと残っていたのは覚えている。
失礼なことに、私はその猫に迷惑だ、とさえ思ったのだ。
私の知らないところで生きたなら、私の知らないところで死んでくれ、と。
あれは高校生の時だったが、あれ以来私は、死ぬならせめて人に迷惑をかけないようにしよう、と思った。
あの時は自分が死ぬなんてこと、そう深く考えていないから思いついたことなのかもしれない。
それでも私は、未だにあの感覚を覚えていて。
その決意を、持ち続けたのだった。
しばらくして、私はこんなことを考える余裕もないほど、追い詰められていた。
私が勤めていた会社は俗に言うブラック会社だった。労働時間、仕事内容だけでなく、たびかさなるセクハラ、パワハラもあり、心身ともに疲弊していた。1度疲労で倒れ、病院へ搬送された後、上司が見舞いに来て最初に口にしたのが「いつ戻れるの?」だったくらいだ。
「よし、死のう」
そう思ったきっかけは今でもわからない。多分、何か大きなことはなく、小さなことの積み重ねで溢れ出したのだろう。
そして、また、あの決意と感覚を思い出したのだった。
それから私は、大きな仕事がなく、1人抜けても影響がない時期に辞表を提出し、徐々に人付き合いを絶っていった。隣人との関係を無くすために引越し、買い物は全て通販で済ませ、年賀状の挨拶を減らしていった。
兄弟はおらず、両親は既に亡くなり、親戚は亡くなったか、随分前から連絡していない人だけになった。
そろそろかな、と私は考えていた。数人、年賀状が送られ続けていた人達にも、先週の年明けの年賀状で、「年賀状での挨拶はこれで最後とさせていただきます」と書いた。
人との繋がりは、可能な限りなくなった。あとは、死に方と場所だった。
この部屋で自殺すれば、大家さんや隣人に迷惑がかかる。飛び込みや飛び降りは論外だ。ただ、あまり痛い死に方はしたくない。やはり、飛び降りだろうか。それなら、田舎の誰も立ち寄らないような山の崖で、飛び降りるのはどうだろうか。
そう考えていると、ふと以前に見たニュースを思い出した。
確かあれは秋から冬にかけての季節、秋田の山奥の崖で年配の男性が飛び降りた、というニュースだった。
しかし、そろそろ貯金も尽きる。車も持たない身では、秋田まで行くことは出来ない。
近くで探そうにも、自分が知っているような場所や簡単に調べられるような場所では意味がなかった。
やはり、秋田か。そう考えた私は、日雇いのバイトを転々とした。給料や仕事内容より、人との繋がりを作らないことが大切だった。
そんな中、ある日、家の前に野良猫がいた。
その野良猫は痩せ細っていて、フラフラよたよたと歩いていた。今にも倒れそうな様子だった。
その猫に、私は無意識のうちに昔見た猫を重ねていた。
気がつくと、猫に餌を与えていた。ふと脳裏に、野良猫に餌をあげてはいけない、という文章がよぎった。
今思えば、あの時の私はどこか少しおかしかったのかもしれない。ここに野良猫が通うようになったら、周りの人に迷惑だし、猫を通して会話が広がり、隣人とのつながりができてしまうかもしれない。そう考えた私は、その猫を部屋に招き入れた。
幸い、ペット可のアパートだった。飼い猫の寿命は約14年、野良だと約3~4年ということをネットで調べると、私は計算を始めた。
そう小さくない。現在2~3歳程度だろう。なら野良のままだと残り1~2年。野良の1年に対し飼い猫は3~4年だから、この猫はあと5年も買えば自然死するだろう。
その頃になれば、秋田まで行く金も揃っているはずだ。
翌日、名前もつけず、猫、と呼んでいた猫を部屋の中に閉じこめてバイトへ行くのは気が引け、どうしようかと考えていたところ、猫を外に出しておくことを思いついた。
そのままこのアパートに戻ってこなければ猫のことは忘れ、戻ってくるようなら昨夜立てた計画通りにすれば良い。
私は一応首輪をつけて、猫を外に出し、バイトへ向かった。見分けがつくよう、茶色ベースに白の縞模様という、珍しい配色の首輪にしておいた。
その日の夜、私が来月のバイトを調べていると、ドアの前から猫の鳴き声が聞こえた。
私はドアを開け、招き入れた。私が買った首輪をつけている猫だった。
その日から、猫との関係は続いた。朝私がバイトへ向かう時に一緒に部屋を出て、私が帰る頃にはアパートの近くで待っている。それを見て私は鍵を開け、猫を呼ぶ。当然出費は増えたが、死ぬのも先にしたため、特に不都合はなかった。
そして、数年がたった。私は、いつもの通りに帰宅すると、猫がいないことに気づいた。
まあこんな日もあるだろう、と気にしなかった。もう数日様子を見て、帰ってこないようなら秋田に行こう。そう考えていた。例の崖の場所とルートは調べてあった。
それから3日が経ち、4日が経ち、もう少し待ってみようか、あと2、3日様子を見ようか、などと考え、そして1週間がすぎた。
これはもう、帰ってこないな。そう思い、私はバイトの予定をなくしていき、最後のバイトの日がやってきた。
私がバイトを終え、家に帰っていると、夕方の路地に、カラスが袋を続いているのが見えた。
近づいてみると、その袋のようにボロボロになった動物の死体は、茶色ベースに白の縞模様をした首輪をつけていた。
私は一瞬呆然とし、しかしすぐにカラスを追い払った。
猫のそばに屈み、触れてみると、固く、冷たかった。そこに生物の痕跡などなく、命の鼓動はとうに失われていた。
毛並みはボロボロ、身はやつれ、ところどころ血が滲んでいる。
——ああ、お前は私がしようとしていることを理解して、こんな死に方を選んだのか?
そう心の中で聞いたが、当然答えはなく、鳴き声もなかった。
猫は静かなままで、音ひとつ立てなかった。
猫は、私に迷惑をかけまいとこんな所で死んだのだろうか。
「せめて、私の目の届くところで死ねばよかったというのに……」
すっかり暗くなった夜の街並みに、その呟きは吸い込まれ、消えていった。
私は猫の亡骸を拾い、埋葬するために運んだ。
その後には、数本の猫の毛が残っているだけで、黒く、冷たく、静かな夜が、続いているばかりだった。
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