第11話 いだてん 其の10
やみに俺の名前を教えた後、俺とやみは別々になったのだった。やみも、『もう足は平気です。一人で帰ります』と言ってくれたし、本来ならば、無理やりにでも送っていくのが筋なんだろうが、俺もそれどころではなく、やみの言葉に甘えることにした。
冷静になって考えれば、この千九九九年当時に、やみが俺の名前を知っているはずはないのだ。この当時、俺はただ、やみが走っているところを眺めているだけだったし、おそらく、これ以降になっても、やみが俺の名前を知ることはなかったろう。そんなやみに、俺は自分の名前を教えてしまったのだ。
今のところ、何か変わったことが起きた様子はない。なにがしかのペナルティが与えられてはいないみたいだ。しかし、これからさきどうなるかはわからない。どうしたものかと考えた俺は、あの妙な店員がいたインターネットカフェに行くことにしたのだ。
「いらっしゃいませ。ってあれ? 先ほどのお兄さんじゃないですか。本日二度目のご来店ですね。よっぽどうちが気に入ってくれた様子ですね。嬉しいなあ」
店員はそんなことを愛想よく言ってくれるが、心の中ではなにを考えているかわかったものじゃない。現に初めてこの店に来た時の、あの氷のような口ぶりは、今思いでしてもぞっとする。そんなことを考えながら、俺ははたと気づくのだった。
この店員になんと言えばいいんだ。
俺は、『本来は俺の名前を知るはずのない女の子に、俺の名前を教えちゃいました』とでも言う気か。そんなことを言って、もしこの店員が、あの謎の声の関係者だったら、まず間違いなく、なんらかのお仕置きがなされるはずだ。
仮に、まずそんなことはないだろうが、この店員が、ただの一般人だとしても、俺のことを、頭のおかしい人とでも思うのが
「なんなら、会員カード作りますか? これからもうちを、ひいきにしてくれるんでしょう」
「は、はい、お願いします」
店員の提案に、俺は一も二もなく同意する、これでしばらくは場が持つだろう。
「じゃあ、このカードに、お名前、お書きください」
そう店員が差し出したカードに、俺は自分の名前を書きこむ。
それを見て、店員は大笑いするのだった。
「お客さん、別に偽名でもうちは構いませんがね。それならそれで、もうちょっとマシな偽名にした方が良いと思いますよ。ご丁寧にルビまで振ってくれちゃって。ああ、失礼しました。笑ってしまって。ですけども……」
そんな店員の笑い声に、俺の辛く苦しい過去が思い出される。元号が平成になってからの俺の忌まわしい日々が。別に、俺にこんな名前をつけた両親には、なにも悪いところはないのだ。自分でも結構気に入っていた俺のフルネームだ。しかし、のちに首相となる、当時官房長官だった小渕恵三さんが、平成と書かれた額縁を掲げた瞬間、俺の人生は急落したのだった。
「やーいやーい、
「お前の苗字、新元号」
「今年は、
「お前の父ちゃん、
「お前のじいちゃん、
「お前のひいじいちゃん、
「明治の前の元号はなんだよ、教えろよ。ひいひいじちゃんの苗字なんだから、わかるだろ」
そんな、からかいの言葉が思い出される。平成に改元されたころは、小学校に上がるか上がらないかの頃だった。そんな幼い子供は残酷である。明治の前は慶応だよ。ついつい気になって、自分でも調べちゃったんだよ。
しかし、店員が笑うのも無理はない。役所の書類申請での、見本によくある“
だが、この名前は、ひょっとしたら大きなメリットになるんじゃないかと、店員の大笑いを見て、俺は思いつく。中学、高校となると、さすがに、
となると、やみが俺の名前を知っているとなっても、それほど不自然ではないのかもしれない。少なくとも、歴史の修正力に、罰を喰らわない程度には。そう考えると、俺はすっかり気が楽になってくるのだった。そんな俺の内心を知ってかしらずか、店員が、急に下卑た笑いを浮かべて話し出すのだった。
「そういえば、お客さんが最初に来た時に一緒にいた、可愛い女の子はどうしたんですか。ひょっとして、振られちゃいましたか」
「違いますよ。それどころか、俺、大人の階段昇っちゃったんです」
「えええ、大人の階段ですか。いったい、どんなことを致したんですか」
「それはここでは言えませんよ」
などと、俺が店員と軽口を叩き合っていると、急に店員が、残念そうな言葉の調子になるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます