第10話 いだてん 其の9

 やみが悲鳴をあげると同時に、俺におおいかぶさってくる。


「い、痛い。痛いです」


 やみはそう苦痛にうめきながら、俺の体の上で、もだえている。なぜだ。俺は何もしていないぞ。そのように、心の中で弁解していると、やみが具体的な訴えをしてくるのだ。


「足が、足がつっちゃいました。すいません、でも痛いんです」


 やみが俺にのしかかりながら、『痛い、痛い 』と繰り返してくる。このままでは実にまずい。そう考えながら、俺は、やみをベンチに寝かせようとする。流石にマラソンランナーだけあって、華奢きゃしゃな体つきだ。あまり力持ちとは言えない俺だが、なんとかやみをベンチに寝かしつけることに成功する。だが、これからどうしたものか。


「ふくらはぎの筋肉が痛いです。でも、足首の関節も痛いです。なんとかしてください」


 そう訴えかけてくるやみだが、つった足は、捻挫した足なのだ。下手なことをして、どちらかを余計に悪化させないとも限らない。そんなことを考えて、ちゅうちょしている俺に、やみが懇願こんがんしてくるのだ。


「手を、とりあえず手を握っててください。そうすれば安心できます。お願いします」

「わ、わかった」


 痛みを必死にこらえるやみにそう言われて、俺はやみの手をただ握り続けるのだった。


 そうしてしばらく、手をつなぎあっていた俺とやみだが、ようやくやみが落ち着いてきたようだ。


「すいません、もう平気みたいです。ですけど、ごめんなさい、迷惑ばっかりかけちゃって」


 そう言って、うなだれるやみを、俺はなんとかなぐさめようとするのだった


「やみさんが悪いんじゃないよ。変なお願いしちゃった俺が悪いんだ。片足だけとか、じっとしてろとか、やたらめったら注文ばっかり付けちゃってさ。あんなにごちゃごちゃ言われたらさ、足がつっちゃうのも無理ないよ」


 そんなふうに慰める俺だが、やみの気分は沈んだままのようである。


「こんなふうに足がつっちゃうなんて、ご利益りやくなんてありそうもないですね」

「ご利益? なんのこと?」


 そんな俺の問いに、やみは少しすねた様子で答えるのだった。


「もう、言ったじゃないですか。頑丈なだけが取り柄のあたしだから、その足を見せれば、健康やら長生きやらに、効果覿面こうかてきめんだって」

「そういえばそうだった」


 やみの足の裏の、あまりのなまめかしさに、俺は自分で言った建前を、すっかり忘れてしまっていたのだった


「そういえばってなんですか、そういえばって」

「いや、それはその……」


 しどろもどろになる俺だったが、やみは優しく笑ってくれるのだった。


「いいんです。落ち込んでるあたしを元気づけようとして、言ってくれたことなんですよね。そうでもなきゃ、足の裏を見せろなんて変なこと言い出したりしませんよね」

「そ、そうだったのかな」


 俺の、ただ自分の欲望に忠実になってしたやみへの注文を、やみはたいへん好意的に解釈してくれて、この場は収まりそうだ。そもそも、俺の目的は、やみに走りを諦めさせないことなのだ。冷静になって考えれば、俺がやみの足の裏を見ようとした目的は、やみが言った通りなのかもしれない。俺自身ですら気づいていなかった、俺の真の動機を言い当てるとは、やみも大したものである。しかし、やみの顔は相変わらず晴れないのだった。


「でも、それも、あたしの足がつっちゃったせいで、台無しですね。あんな程度で、足がつっちゃうあたしに、ご利益なんてありはしませんよ」


 そう自嘲じちょう気味に笑うやみに、俺は真剣に頼むのだった。


「じゃあさ、やみさん。これからも、走り続けてくれよ。走るのやめるなんて言わないでさ。足の怪我が治ってから、また走り出してよ」


 そんな俺の頼みに、やみは驚きを隠せないようだった。


「だ、だけど、あたしの走る姿になんか、ご利益なんてないですよ」

「あるよ、ご利益! やみさんの走るところを見たら、元気出てくるよ」


 やみの走る姿を思い出しながら、俺は、そのやみの走りが、いかに俺に勇気を与えてくれたかを精一杯伝えようとするのだった。事実、俺は西暦二千年以降、色々投げ出したくあることがあった。だが、その度にやみが走っているところを思い出すことで、なんとか踏みとどまれたのだった。


 もし、ここでやみが走ることをやめてしまったら、令和元年になるまでに、俺は自ら命をっていたかもしれない。 ここで、歴史を変えるわけにはいかないのだ。


「俺、やみさんが走ってるところを見てたから、これまでなんとかやってこられたんだ。これからだってきっとそうだよ。だから、走るのやめないでよ。ひょっとしたら、ここで走るのをやめたほうが、やみさんのためにはいいのかもしれない。でも、それじゃあ俺がダメなんだ。とりあえず、俺の、俺一人のためだけにやみさんは走り続けて欲しい。それじゃあ、ダメかな」


 俺の、ある意味身勝手とも言える要求に、やみは応じてくれそうだった。


「その、あたしが走れば、少なくとも一人のためにはなるってことですか」

「そう。俺のためになるんだ」

「じゃあ、あたし、走ります。その一人だけのために走ります」

「ありがとう」


 なんだかんだあったが、これでおそらく、なにもかも元に戻っただろう。俺とやみがぶつかったせいで、やみが走るのをやめたら、それこそ歴史の修正力に何かされかねない。そう一安心する俺に、やみが聞いてくるのだ。


「それで、その、名前教えてくれますか」

「ああ、俺はたいら成一せいいちだよ」


 そうやみに自分の名前を教えた俺は、あることに気づくのだった。


 そう言えば、やみって、俺の名前知ってたっけ。



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