第7話 いだてん 其の6

「ええとね、やみさん。その、陸上のレースはね、特にマラソンは、その一回のレースに全てをかけて、レースの後には、足を痛めて一週間や二週間、走れることができなくなっても構わないと言うシステムじゃない。

「はあ」


 いきなりそんなこと言う俺の意図を。やみは察しかねているようだ。そんなやみに構わず、俺ははなしを続けるのだ。


「けどね、世の中には、登山っていうスポーツがあるんだ。一日で終わりじゃない。何日もかけて、山の頂上を目指すようなスポーツがね」

「登山ですか」


 やみは、まだぽかんとしている。しかし、話はこれからだ。


「でね、登山って言うのはね、どう言うルートで、頂上についたかが重要なんであってね、タイムがどうとかは関係ないんだ。考えてもみてごらんよ。何千メートルもある山の頂上だよ。正確なタイムなんて、客観的に測れやしないさ」


 令和元年ともなれば、GPSのおかげで、タイム測定ができる。それどころか、スマートフォンやら、大容量光通信通信やらで、登山をリアルタイムで、全世界に動画配信できるようになったのだが、今そんなことを、やみに言うわけにもいくまい。


「そしてね、登山っていうのはね、自然との戦いでもあるんだ。天気は、人間にはどうにもならないから、コンディションが良くなるまで、何日もテントで待つなんてことはザラにあるし、標高の高い山の中だから、水やら食料やらも自分たちで運ばなければならない。あらかじめ決まっている、何月何日の何時にヨーイドンして、給水ポイントがあるマラソンとは根本的に違うんだ。ああ、一応言っておくけど、マラソンを侮辱する気はさらさらないからね。あくまで、ルールと言うか、前提の問題なんだけど」


 俺が話す内容に、やみはずいぶんと聞き入ってくれているようだ。俺は、更に話し続けるのだ。


「そうすると、多少速く走れるかとか、そんなことは、ほとんど関係ないんだ。気持ちよく寝ている最中に、急にそれまで悪かった天気が、良くなったからって叩き起こされて、『さあ、山登り開始だ』と言う世界らしいから、図太さとか、鈍感さとか、そんなことが大事になってくるんだ。違うな。『図太い』とか、『鈍感』とかだと、ネガティブなイメージになっちゃうな。どう言えばいいんだろう」

「いいんです、言いたいことはわかります」


 うまく言えずに、しどろもどろになってしまう俺を、やみはやさしくフォローしてくれる。それに勇気付けられて、俺は話し続けられる。


「その、当日のレース本番で、あまり良いとは言えないタイムで走った選手が、翌日、他の選手は、疲労やら痛めた足やらのせいでろくに歩けもしない中、けろっとした顔で走っていられるとしたら、それは、とんでもない才能なんだと、俺は思うんだ」


 俺の言葉に、やみは涙を浮かべながら返事をしてくれる。


「そうなんです。あたし、試合でいいタイムが出せないから、もっと練習しなきゃって、翌日から走り込み始めちゃうんです。そんなあたしだから言われちゃうんです。『あんな遅いタイムしか出せないんだったら、そりゃあ、次の日から走り出せるわよねえ。わたしは、全力を出して試合で全てを出し切っちゃったから、とてもそんな真似まねはできないわ』って。あたしは、あたしなりに試合で一生懸命走ったのに」


 そう涙ぐむやみを、俺は必死に諭すのだ。


「うん、やみさんが悪いなんてことは全然ないんだからね」


 そう言う俺に、やみは精一杯のお礼をしてくれるのだ。


「本当に、ありがとうございます。金栗さんとか、登山とか、いい話をいっぱい聞かせていただいて、あっ、そうだ。カフェのお金、あたしが払います。せめて、それくらいはさせてください」


 そんな、やみの申し出を。あくまで断る俺である。


「いや、気にしなくていいよ。ほら、俺のせいで怪我させちゃったわけだし」

「違います。それもあたしが前を見ていなかったせいです。だから、私に払わせてください」


 このままでは、らちがあかないと俺は考え、やみにあるお願いをするのである。


「じゃあさ、代わりと言ってはなんだけど、やみさんにひとつお願いしちゃおうかな」

「わかりました。なんでも言ってください」


 そんなやみの言葉に対する、俺の願い事はこうである。


「やみさんの、足の裏、見させてくれないかな」












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