第3話 いだてん 其の2

「あの、すいません。早く湿布をして欲しいんですが……それとも、そんなにひどいんですか? 私の足首」


 やみにそう言われて、すっかりやみの足首に夢中になっていた俺は、我にかえるのだった。


「ああ、ごめんごめん。でもごめんなさいね。俺のせいで怪我させちゃって。これじゃあ、しばらく走れないね」

「い、いえ。こちらこそ申し訳ありません。それに、いいきっかけかもしれません。あたし、走るのやめようか、なんて考えていたんです」


 やみの突然の告白に、俺は驚きの声をあげる。


「なんでだよ。三島さん、走るの好きなんだろう。いっつも、素敵な顔で走っていたじゃないか」

「走るのは好きですけど、あたし、才能無いんです。ちっとも早くならなくて、記録だって、全然駄目なんです」


 そう言って、いまにも泣きそうになるやみを、俺はなんとかしたなだめようとするのだった。そもそもこれはまずい。どうも、俺がやみとぶつかって怪我をさせたことが、やみに走るのをやめさせる最後の一押しとなってしまったみたいだ。俺が千九九九年に舞い戻ったことで、早速歴史に影響が出てきてしまったようである。なんとしても、やみを、再び走らさなければならない。


「ええと、記録とか、そこまで気にしなくてもいいんじゃないかなあ。好きならそれで。走り続けることが第一なんじゃない。何十年もかけて、オリンピックのマラソンを完走した、金栗四三かなくりしぞうだっていることだし」

「金栗四三? 誰ですか、それ」


 やみの疑問に、俺はあせってしまう。そう言えば、令和元年のことを話してはいけないんだった。そんなことを考えていると、またもや謎の声が聞こえてくる。


「セーフだよ」


 そんな謎の声に、俺は辺りをきょろきょろと見回すが、俺とやみ以外には誰もいない。そのうえ、やみはきょとんとしている。どうも俺にしか謎の声は聞こえてはいないようだ。そんな俺に頓着とんちゃくせずに、引き続き謎の声が聞こえてくる。


「金栗四三を扱った大河ドラマがあると言ったらアウトだけど、金栗四三という人物がいて、その人物がどういたことをした、ということを説明するのは構わないよ。昭和以前の歴史的事実だからね。だから、そのお嬢さんに金栗四三のことを説明してあげなさいな。あんまり女の子を待たせるものじゃあないよ」


 そんな風に謎の声に言われて、俺は、やみに金栗四三のことを説明するのである。


「ああ、日本人で始めて、オリンピックのマラソンを走った人さ。スエーデンの、ストックホルムだったかな」

「へえ、でも、何十年もかけてって、どういうことですか」

「それはね、金栗さんは、途中でリタイアしちゃったらしいんだ。なんでも、その日はすごく暑かったらしくてね。で、そのまま日本に帰っちゃったみたいなんだけど、オリンピックの運営側に、棄権しますとか、言わなかったんだよ。当然、棄権の記録がされるわけはない。かと言って、ゴールもしていないから、あくまで記録上は、金栗さんは、ストックホルムオリンピックのマラソンを、走り続けていることになっていたんだ。まあ、昔の話だからね。大らかな時代だったってことさ」

「ふうん。やっぱり、日本人がスポーツで活躍するには、時間がかかったんですねえ。最初はそんなものかあ。完走すらできなかったなんて」

「いや、完走はしたよ。金栗さんは、立派にストックホルムオリンピックのマラソンを、完走したんだ」

「えっ、どういうことですか、だって、リタイアしちゃって、日本に戻っちゃったんでしょう」

「うん、だけどね、何十年かしたらね、『記録の上では、この金栗ってやつ、ゴールも棄権もしとらんやんけ! いまになってゴールさせたろ! 完走時間うん十年や!』ってなってね、幸いその時まだ、金栗さんは生きていたからね、またストックホルムに行って、当時リタイアした場所からまた走り始めて、オリンピックの時のマラソンのゴール地点にたどり着いたんだ。で、その何十年もかかった記録が、公式のものとして、オリンピックの歴史に刻まれたってわけさ」

「へええ、それにしても、よくそんなこと知っていますねえ」

「いやあ、こんなこと、ネットで調べればすぐだよ」

「ネットって、インターネットのことですか」


 やみにそう言われて、俺はハッとする。俺からネットなんて口にして大丈夫だろうか。歴史の修正力とやらに、何かされないだろうか。なんてことを心配していたが、取り立て、何かが起こる様子もない。どうもセーフだったみたいだ。とりあえず安心する俺だが、やみはネットについて、不満をたらたらたれてくる。


「あたしは、全然やらないんですよねえ。色々時間はかかるし、お金もかかるみたいだし」


 やみのそんな言葉に、俺は当時に思いをはせる。あの頃、いや、この頃か。ダイヤルアップ接続はガーガーピーピーうるさいわりには、ちっとも繋がらないし、料金システムは三分いくらというレベル。テレホタイムを発見して、思う存分楽しめると思ったら、キューツー回線をつないでしまって、親に怒鳴られたこともあったっけ。


 しかし、今ここで、ネットの将来性について、やみに力説したところで、おそらく理解してもらえないだろうし、歴史の修正力にお仕置きされかねない。と言うわけで、俺は、やみのネットは不便、という意見に同意するのだった。


「うん、そうだね。それに、結構嘘やデマも飛び交っているらしいしさ。ひょっとしたら、この金栗四三の話も、全くのデタラメかもしれないよ」


 そんな俺の言葉に、やみはかぶりを振るのである。


「いいえ、あたし、その金栗さんの話、聞けて良かったです。仮に本当のことじゃあなくても、何十年もかけてゴールするなんて素敵です」


 そんな事を、やみが言ってくれたおかげで、俺はついつい誘いをかけてしまうのだった。


「それじゃあ、今から、その金栗さんのこと、調べに行かない」







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