不整合

赤坂 史呉

第1話

ーーー妻が愛しているのは僕ではない。



その事実に気が付いたのはいつのことだったか。


きっかけは昼下がりのワイドショー。


上司に勧められ、取った有休の日のことだった。平日の休みは久しぶりであったので家に引きこもるのはあまりにも勿体がなかったが。休み故の気の緩みによるささやかな寝坊。寝すぎた後特有の普段と異なる我が身の重さ。重なり、24階の自室の窓から大きく仰いだ鈍色の曇天。ロイヤルストレートフラッシュ程の完璧さにこそは遠く及ばないもののフォーカード位の。要するに、まあそこそこ家から出たくない要因の手札がそろったので。家でゆっくり、なんて休日らしくて素敵ではないか。僕は外出を諦めて家で一日を過ごすことを決意した。

妻は仕事のために既に家を出た様子でしんとしていて、いつもと違う広さだった。


最初の二時間はとても楽しかった。


冷蔵庫に入っている適当なものを取り出し自分だけのための朝食を作る。朝が苦手な妻のために食事を用意するのは共に暮らし始めてからいつも僕の日課だった。だから自分のだけのために朝餉をこしらえたのはとても、-- 一人暮らしをしていた頃以来かと思われるほどに久しぶりだった。折角だからいつもとは違うものを作ってみようと思い菓子棚に入っている小粒のマシュマロを取出し、常備されている六枚切りの食パンに載せる。不揃いなマシュマロたちを平べったいパンの断面にまんべんなく配置するのは予想をしていたよりも難しく時間を要した。それを温まったオーブントースターの中の金網に乗せる。そう、何を隠そう。これは、一昔前に少しばかり流行ったスモアトーストというものである。前々から試してみたいとは思ってはいたものの機会に恵まれず作ったことは無かった。なんとなく見よう見まねで用意をしてみたが、作り方はこれであっているのであろうか。とりあえず甘い香りが僕の鼻腔を擽ってきたので少しばかり安心をした。頃合いを見計らって期待のそれをオーブンからそっと取り出す。ほのかに着いた焼け目がいつも通りの食パンを殊更に美味しそうに魅せていた。僕が起きていなかった今日、妻はいったい何を食べて出て行ったんだろうか。おそらく、僕がいつも通りに自分の食事の用意をしていると思って出社時刻にあわせたぎりぎりの時間に起きたのだろう。周りを見渡してもなにかを食べて家を出た形跡はない。醒めきらず重い瞼をこすりながらいそいそと鞄の準備をする妻の姿が脳裏に鮮やかに映し出される。それでも今日が休日だと知って寝ている僕を起こさないでくれたのか。彼女の優しさが身にしみる。とてもかわいそうなことをしてしまったかもしれない。僕は思った。サクリ…。トーストをかじる音がどこまでも響いていく。数刻前よりも殊更に部屋が広くなった気がした。


食事が終わり洗い物を済ませる。大した仕事は一切していないのにも関わらず肌に感じる空気がなぜかとても清々しい。時が音を立てて鮮やかにに僕の周りを通ってゆくのを全身で感じる。


無意識のうちに鞄からパソコンを取出し、膝に乗せソファーベッドの端にどしりと座り込む。仕事の連絡が来ていないかを確認するためである。案の定、情報解析の依頼、来週に迫ったプレゼンの資料の確認などでメールボックスが溢れかえっていた。期限が短く重要度の高いと思しきものから処理をしていく。カタカタ。絶え間のないキー音。そしてすきますきまにある長めの沈黙。

それらを繰り返しいったいどれくらいの時が過ぎただろう。

ひとつの苦戦した資料が終わりエンターキーを力任せにたたく。

バチリ。低さの割によく通る音。それが壁に吸収されずにとどまったように響き続け僕を我に返らせた。

ーー休日なのにしっかり働いちゃったよ…

自分の無駄な真面目さと切り替えの悪さに少しばかり苦い気持ちになる。

静かな環境でいつになく集中をしていたことも重なり確実な疲労を覚えた。

くぁーと大きな伸びを二回繰り返す。勢いがよさすぎると腰を痛めるので丁寧に二回。心地が良い。

つやりと光るソファーテーブルの上の置時計に目を遣る。昼を一時間強ほど回った頃であることを針が示していた。

何気なく置いてあったその隣のものに目が留まる。薄く白い埃の積もった写真立てである。飾られた写真の被写体は僕と妻。僕達の中学校の卒業式の時に撮影されたもので少し、特に赤系の色のところが色褪せている。かなり昔のものである。妻とこんなにも長い付き合いになるなんて想像していなかった。誰がそれを想像できただろう。彼女初めて出会ったのは中学二年生の時であった。駅の再開発に伴いで建てられたマンションに彼女ーー桜莉おうりは家族と共に越してきた。

同じ中学校で駅の向こうがわの地区に住んでいる人は少なく、且つ同級生だったこともあり僕たちは自然に知り合った。異性に話しかけるのは苦手だった僕であったが彼女は明朗快活でさばさばとしていて話しやすかった。僕はそんな桜莉が大好きだった。でも、そのときの好きは決して愛してる、だとか自分のものにしたいだとかけ決してそんなものではなくて。その気持ちが恋愛に変わったのはもしくはそれに気が付いたのはいつだっただろう。あるのは、高校一年生と二年生の間の春に僕はが彼女に告白をし、射止めたという事実だけである。よろしくねと言って差し出された彼女の掌の暖かさは今でも忘れられない。改めて。それから15年。こんな未来が。こんなにも幸せな未来が待っているとは。出会えて良かったな。向こうも同じように思ってくれてるといいのだが。本当に桜莉には感謝しかできない。「ありがとう」僕は。誰もいない湿った空中に向かって呟いた。最近そういうことを伝える機会も減った。器用じゃないから自然になんて言えないし。改めて表すとなると少しこそばゆくって。

不意に何かに体重を預けたくなってゆっくりと半身を倒す。もう一度伸びをする。



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