さよなら、はじめまして

△ さよなら、はじめまして

【四国協定、“御使い”を承認へ──】


 新聞を机に広げ、ペルルはちっとも伸びやしなかった背丈のまま、椅子からぶら下げた足をぱたぱたと動かして、一面を飾る一昨日の式典の様子を伝える文字と、写真を眺めていた。


 アオバをこの世界に落としてから五十年が経過した。


 この五十年でようやく御使い様は、中立機関として制限されていた多くの権利が行使できるようになったのだ。一時は人権すらも危うかったが、近衛騎士団長を引退したリコルや、聖女らの助力もあってここまでこられた。


【死神事件から五十年が経った今日、御使い降臨を祝う式典では各国から御使いへ宝物が献上された。シャニア王国からは賢杖・ディミュル、サネルチェ公国からは懇玉・ナヤ、リヴェル・クシオン連邦からは心鏡・オルミュド、クレモント王国からは偉剣・サリュムカの受け渡しが行われ、以降は中立協会と共同保全していくという】


 ラピエルの呼称は“死神”に決まり、今や歴史の教科書にもそう書かれているらしい。まさかその死神の中身がまだここで生きているとは誰も思うまいが、自身がそのように呼ばれる存在になることも、知り合いが三種の神器ならぬ四種の神器を贈られるほどの人物となることも、元いた世界では考えもつかなかった状況だ。


「ふふん……」


 ちょっと誇らしくなって、笑みがこぼれる。五十年だ、意外と長かった。


(アオバにあげた能力を見せればすぐかと思ったけど……価値観が揺らがされると、逆に受け入れがたくなるとは……。まさか、地道に続けていた巡行の方が先に成果になるなんて)


 アオバが御使いとしての地位を確立させた大きな要因は、全国各地のオーディールの復活と、一般市民からの支持だった。


 どうでもいいようなものから大ごとや悲劇に至るまで、彼は相談に乗り続けた。時には問題解決とはいかずに、アオバの精神をすり減らすような結末になってしまったものもあったし(そこは妻のエルシアがよく支えてくれた)、それでアオバの事を今も恨む人もいるだろうけれど、概ね好く思われているようだ。


 新聞から顔を離し、棚の上に視線を移す。その一角には写真立てが並べられていて、知り合いたちが笑顔で映っている。クレモント王国製の写真機で撮った物だ。


 あの国では精霊の力を借りて独自の発展を遂げており、アオバがラピエルを追いかけていたあの頃から他三国よりも一足先に近代化の道を進んでいたようだ。精霊荒れが治まった事でそれらの技術が他国にも伝わり、印刷や写真といったものは今では然程珍しくないほど広がった。


 ここに写真機を持って来たのはリコルで、仲間たちが集まった時に集合写真を撮ったのが最初だ。その次にアオバとエルシアが並んで映っているもの、ペルルも交えたもの、リコルとテルーナの結婚式、説得に説得を重ねてようやく撮ったソリュとアトラティスカ、セイラが遊びに来た時のものや、小説のコンクールを開いた時のストゥロ達姉妹のサイン入り写真、各地に赴いた時の風景、各国の現王家の顔ぶれ……。


 写真は増えていく度に、技術の進歩で鮮明になり、そして被写体である仲間たちは老けていく。時間の経過と共に。自然の摂理だ。


 アオバとペルルだけが、あの頃と変わらないままだった。


 正確には、ペルルはそっくりそのまま、アオバは二十歳の時で時間が止まったように、若々しい青年のままだった。


 最初は若く見えるだけだと思われていたが、十年、二十年と時が経ち、それぞれが皺や皮膚の弛み、髪の痩せ、体力の低下や節々の痛みといった肉体の変化に悩む頃になっても、アオバは変わらなかった。


 元々フラン・シュラが形を作ったペルルはともかく、同じく前世と同じ姿で転生したセイラですらも老けて、最近は過労で倒れるなど体力の衰えがあるのだから(それでも尚、女装は続けて、周囲に女だと思われているのはもはや奇跡だと思う)、転生が理由ではなく、アオバ本人の体質だ……というのがユラの見解だ。


 つまるところ、不老、ということだ。不死ではない。神様の物がすっかり観察の体勢に入った今、アオバは外傷で死に至ることはあるが、老けない。


(……知っていたけどね)


 ラピエルとして、元いた世界を観察していたのだから、知っている。アオバ、というよりも、彼の父親がそういう家系で、おそらく未成年の間には説明せずに普通の人生を送ってもらおうとしていたのだろう。故に、アオバ自身も現状に困惑気味で、周囲よりもゆっくりとだが老けていくユラにあれこれ説明を受けているところだ。


 逆に事情を知っていたストゥロから聞かされていたリコルの方が飲み込みが早かったぐらいで、寿命が枯れゆく友人らをアオバは何とも言えない表情で眺める事が増えている。


 これから先、アオバは親しい人たちとの別れが続くだろう。彼はきっと、たくさん泣くのだろう。己の身を呪うのかもしれない。


(でも、このおかげで国はアオバを人ならざる者と認めざるを得なくなったんだ。四国としても便利だもんね、生き証人がいつまでも世界を見てくれるんだから)


 望む世界の実現の為にも、彼の体質は喜ばしいものなのだ。


 新聞に視線を戻そうとして、窓から差し込む朝日の眩しさに目を細めた。日光に照らされた上半身は、暖かい。揺らしていた足はいつのまにか止まり、瞼が重くて、なんだかこのまま眠ってしまいそうだ。


 これは直感だが、多分、このまま眠れば二度と起き上がれない。


 自分が現状に満足しているのが分かる。


 親しい人々がそれぞれ想い人と繋がり、未来へと残すものを残し、穏やかに流れていく年月。学園生活の何気ない会話の思い出。文字通り変わらずいるアオバの愛情を、時々反発しながらも受け取って来た日々……。なんてことはないのに、満たされていた。


 あの日鏡花からもらった力が、否応なく発動しかかっている。


 ──……。


 遠い記憶の誰かのやっかみも、棘だらけの暴言も、失言も、手拍子も、もう聞こえない。今思い出せるのは、ここ数十年の事ばかりだ。


(私はまだ何も成し遂げていないのになぁ……)


 やり残したことはたくさんある。お気に入りの小説はまだ読みかけだ。前に行ったお店では、次に買い物にいったら安くしてあげると言われた。もうすぐサリャの花が咲く季節だ。明日は学生時代にできた友人の誕生日で……。


 ああでもなんだかどうでもいいな。


 せめてこれだけ、これが完成するまでは、と心地よい眠気に抗いながら作って来たソレも、昨日完成してしまった。自室の机の上に置いておいたから、その内見つけて使ってくれるだろう。


「アオバ……」


 このまま眠ってしまおうか。浮かんでは消える思いを引きずって、椅子を降りる。開きっぱなしの新聞を見たら、エルシアが怒るだろうなと思いながら目をこすり、ふらふらとした足取りで彼を探しに出る。


 この時間なら聖堂だろうか? そこまで起きていられる自信が無いぐらい、眠たい。


「んー……んん」

「ペルル? どうしたの」


 壁に手をつき、ぐらぐらとする頭を支えてしかめっ面になっていると、アオバに似た声が降りかかった。顔を上げると、アオバに似た癖毛の黒髪と、エルシアに似た緑の目をした青年が不思議そうにこちらを見つめている。


「アオバどこ……」

「父さんなら、さっきユラさんと一緒に庭にいたよ。……大丈夫? 連れて行こうか?」


 平気。という意図を込めて頷いたつもりだったのだが、彼には連れて行くことに了承したと見えたのか、軽々と抱えて庭へと連れて歩き出した。


「寝ててもいいよ」

「ううー……」


 一定の間隔で背中をとんとんと叩かれてますます眠気が勝りだしたが、眉根を寄せて抵抗する。なんとか眠りにつかずに庭まで運んでもらい、ツタ植物を這わせたアーチの下でゆっくりしていたアオバの膝の上で受け渡された。


 伸びた癖毛を後頭部でゆるく結び片肩に流したアオバは、変わらない若い顔に驚いた表情を浮かべた。


「あれ、どうしたのペルル?」

「廊下でうつらうつらしていて、父さんを呼んでいたから連れて来たんだけど……」

「えっ、どうしたんだろう?」


 息子に礼を言って家に戻る姿を見届けてから、アオバは左手でペルルの額に触れた。


「熱は無いなぁ……」

「……。……眠たいだけじゃないのか」


 何か察した様子で、ユラが口を挟んだ。五十代ぐらいにまで老けた彼女は、かつてはアオバと並ぶと姉弟のようだったのに、今では親子のようで、可笑しいわけでもないのにどうしてかヘラリと笑ってしまった。


「そぉ……ねむいの……」

「そっかぁ。珍しいね、いつもは夜な夜な研究しても、日中も元気なのに。ペルルも体力落ちて来ちゃったのかなぁ」


 改良を重ねている最中の義手でペルルの体を支え、アオバは真っ白な髪を優しく撫でている。まだ“ペルル”らしさを残そうと頑張っていた学生時代は、年下の彼にそうされることが恥ずかしくて敬遠していた時期もあったが、ありのままでいいと考えるようになってからは心地良かった。


「アオバ」


 眠りに抗うのをやめて、彼の名を呼んだ。茶色の片目がこちらを覗き込む。


 ……死神と呼ばれるぐらいなら、いっそのこと彼も連れて逝ってしまおうか。


 脳裏を過った考えに、眠たい頭は『まあいいや』と諦めた。ついて来てと頼めば頷いてくれたかもしれないが、それじゃあエルシアや、他の人達が可哀相だ。


(可哀そう……可哀そう、か。死人のことばかり庇っていた私が……)


 どんなことでもおかしくなってしまって、口元が笑う。


「名前、呼んで」

「あや」


 迷いなく、アオバはその名を呼んだ。


 空気が震える。精霊たちは少し驚いたのか一旦この場を離れ、それから何事もないと分かるとヤレヤレと言った様子で戻って来る。


 今はまだこの中央区だけだが、オーディールの復活によって死者の名前を呼んでも“黒い霧”は発生しにくくなっていた。加えて、精霊に混じった不純物によって、精霊たちも死者の名前に反応しても怯えすぎず、落ち着いて判断する。


 あと少しで、アオバが望んだ誰もが悲しみや喜びを表に出せる世界がやって来る。そこになんの不安もない。


「ふふ……」

「なあに、あや」

「なんでもないよ……ありがと。これで、寝れる……」


 目を閉じた。力は吸い取られるように抜けていき、アオバの鼓動の音を聞きながら眠りにつく。



 今なら死んでもいい。



 明確に言葉にしなくても、心は確かにそう思っていたのだろう。かつて望んでいたものはもう揃っていて、あとはそれが消えていくだけだから。だから、今しかない、と。


「……あぁ」


 遠くで、アオバが呟いた。彼も悟ったのだろう。すっかり感覚が薄くなったペルルを抱きしめて、彼は何度も自らを納得させようと、「そっか……そっか」と声を絞り出し、頬を寄せた。


「おやすみ、あや」



 一面に広がる草原を背に、アオバは木陰から“世界の深淵”に出来た湖畔を眺めていた。今日は風もないので、水面も静まり返っている。


【今日で何度目の命日?】


 水の上に、指でなぞったみたいに文字が浮かぶ。シーゼだ。


「んー……二百回目ぐらい?」

【君とこんなにも長い付き合いになるとはね】

「そうだねぇ……でも、変わらずにいてくれる人がいるのは嬉しいよ。……いや、人って呼んでいいのか分からないけど」

【元、人間だね】


 笑っているのか、風もないのに水面に波紋が広がった。あやの名が彫られた墓石を前に、アオバもつられて笑う。


 墓石にあやの名前を刻むと決めた時の、皆の驚いたような、困ったような顔が、今でも忘れられない。──その皆は、とっくに亡くなり、今や三、四世代目の子孫しか残っていないというのに、今でも変わらないままのアオバは思い出に縋っている。


 一番長く残っていたのはユラだったが、彼女もある時、『会えるのは今日で最後だ。次の仕事からはおそらく、帰ってこれない』と言って、本当に来なくなってしまった。亡くなったのか、守護者を引退して世界間を渡れなくなったのかは分からない。たまに彼女の後継者だという青年が顔を見せに来るが、ユラの子孫というわけでもなく、また別の世界の人間らしいので彼女の行方は分からないそうだ。


 今でもアオバをただの人として扱ってくれるのは、シーゼやアオバの身体の補強をしてくれている氷の精霊を含めた精霊たちと、後は記録を継ぎ合っているフィル・デ=フォルトぐらいのもので、あとは大体余所余所しくて、少し寂しい。


(あの頃みたいに、誰かにアオバって呼んでほしいけど……今じゃ僕の名前を知っている人って、ほぼ皆無だよなぁ)


 すっかり“御使い様”で定着してしまって、アオバの名前を知ろうとする者はいなくなってしまった。知っている誰かと会いたい、なんて叶わない夢を見ては、打ちひしがれている。


【そろそろ、仕事の時間じゃない?】

「だねぇ」


 あやが最後に作ってくれた義手と、薬指の入れ墨が消えない左手で頬を叩く。もう一つ気合いを入れようと、首から音叉と共にかけていた宝石を摘まみ、光にかざす。


 深緑の淵に三日月が浮かぶさまを見つめ──不意に追い風が吹き、髪を乱した。


「っと」


 髪が目に入りそうになって、思わず目を閉じた。風が止み、車椅子を器用に動かし方向転換をしたその時だった。


 がさ、


 と。茂みが揺れた。協会の誰かが迎えに来たのかと思い、何気なく顔を上げれば、丁度子どもが草むらから顔を出したところだった。


「あれ。君、どこから来たの?」


 施設内では見かけない子どもに驚いて、車輪を回して近づく。五歳ぐらいの小柄な少年は、乱れた淡い色の髪を手櫛で整え、群青色の目で不思議そうにこちらを見つめている。義手や車椅子、眼帯をしげしげと観察する仕草は、御使いを知らない者の反応だ。


(……聖騎士の卵、かな。分かりにくいけど)


 生命の光が赤みを帯びているので、おそらくそうだろう。夕空色の中でも特に夜に近い色の目を見つめ返し、ますます協会施設内にはいない特徴を持つ少年を不思議がる。清潔とは言い難い、大きさの合わない服は、最近だと見かけないデザインだ。


「お名前は?」


 威圧感を与えないように、柔和に見えるよう心掛けて尋ねる。少年は名乗ろうとして、「ん、と」と、困ったように閉口した。


「えっと……」

「焦らなくていいよ。身分証明書は持ってないかな? あとは──」


 迷子になったのだろうとあたりをつけて言いながら、少年が何かを握っているのが見えて、「それは?」と問いかけ直した。


「え……分かんない、持ってた」


 指摘されて初めて気づいた様子で、少年は握りしめていた手を開いた。


「──」


 指が完全に開ききる前に、隙間から見えた色に目を見開いた。……深緑の宝石だった。日差しを浴びて、縁に沿うように金色の線が浮かび、三日月のようで──見覚えがある、今アオバの首元にあるものと同じだった。


 ラピエルは言っていた。この宝石の片方は、精霊が持っていったのだと。それが今、目の前の少年の手にある。どれほど精霊に懇願しても、決して帰されることのなかった、匿われた子だと、直感的に思った。


「……ニク、ス?」


 もはや忘れかけていた、顔も知らない少年の呼び名を口にする。それだけだったのに、声が震えた。


 少年はしばらくぼんやりとこちらを見上げていたが、その名を反芻している内に何か引っかかるものがあった様子で、「あっ」と声を溢した。


 瞬間。アオバは衝動のままに車椅子からずり落ちながら少年を抱きしめた。細い腕が驚いたように一瞬持ち上がり、困惑しながらも涙声のアオバに抵抗せず、行き場をなくして宙に浮く。


「……僕を、知っている人?」

「ううん……君を探していた人と、知り合いだっただけだよ……」


 他の匿い子と同様に、記憶が無いらしく戸惑う少年から体を離し、滲んだ涙を拭って首元の宝石を見せれば、少年は自身の手の平の上にあるそれと見比べ、首を傾げていた。


「はじめまして、ニスタクィオ。それから──」


 精一杯微笑んでみせる。すっかり慣れたつもりだったのに、昔みたいに取り繕えずに笑みが歪むのを感じながら、少年の手を取った。


「おかえり」

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