◇ 04

***


 ウタラ=オ・パルンとしての自我は、抹消されたと言っても過言ではあるまい。


 かつてウタラという名の少女だった事、どこで生まれ育ち、この歳まで生きたか……それらは記録として頭に残ってはいるものの、今その名を呼ばれても他人事でしかなかった。この記録は『貴方の物だ』と差し出された日記帳程度のものでしかなく、どれほど熟読したところでその物語を綴った人物と自身とを同一視は出来なかった。


「お祖母さんの記憶は、ちゃんとあるよね?」


 背丈の割に幼く見える片目の無い御使い様の質問に、ウタラは頷いた。


「うん。記憶はあるよ。一人であの小屋に住んでいる、目の見えない老女だろう? 昔はちょっとヤンチャで、町中の無法者を殴り飛ばしては衛兵に突き出して小遣い稼ぎをしていた」

「その情報は初耳だけど……」


 苦笑する彼に合わせて、こちらも笑ってみる。どうしたってニタニタとした笑い方になるのは、鬱屈とした気持ちを堪えているからだろうか。


 ウタラの祖母は、今でこそ品の良さそうな印象を与える程大人しいが、遠い過去には確かに暴れまわっていた。……そうどこかから声が囁き、祖母と交流があったかつてのウタラとしての情報が事実であると証明する。


 扉の前で立ち止まり、戸の表面についた傷を撫でる。懐かしいと思うのは、ウタラの記憶のせいか、それとも扉の造りが数十年前の流行りを取り入れたものだからだろうか。強制的に塗り替えられたこの自我から溢れる感情は、誰のものなのかさっぱり分からない。


 自然な動作で(昔からそうしていたみたいに。昔というのは誰の記録だろうか?)取っ手に手をかけ、押し開ける。古い蝶番の悲鳴に少しビクリと肩を揺らして、暗い室内を覗き込むと、なんだか泥棒にでもなったような、悪いことをしている気分になって、思わず後ろを振り返る。すれ違う人すら見惚れさせる美貌を持ったリコルが、笑顔で無言を突き通す姿が見えて、渋々室内に踏み込んだ。


 ギシリと、外れかかった床板が軋む。どうしたって響く足音には数歩で諦めて、部屋の中央に置かれたテーブルにまで近づいた。足を止めると室内には静寂が訪れ、奥の部屋から聞こえる衣擦れの音に、開けたままの玄関扉の前で待つアオバたちにも緊張が走った。


「おかえり、ウタラ」


 しわがれた声が笑う。


 腕を少し持ち上げて、指先で椅子の背もたれをなぞる様に触れた。ばくばくと心臓が大きく揺れる。屈強な聖騎士相手に商売をしたって、ここまで緊張することは無いだろう。片手で胸を押さえて、ゆっくりと口を開き、声を出す間を掴み損ねては何度もため息に似た呼吸を繰り返した。


 この強張りはウタラの記録のせいか。まだウタラという自我は残っていて、遅くなった帰りの言い訳を考えているのだろうか。返事をしなくては。ウタラとして、別れの言葉を伝える前に、ウタラはまだここにいると。


「……たっ──……ただい、ま」


 意を決して絞り出てきたのは青年の声で、どうしてか、落胆した。その短な挨拶を言い終える前に俯いてしまい、尻すぼみになっていき、一歩後ずさりをする。


「外はどうだった?」

「え……」

「コレドゥ・アラじゃあ、あんまり見るところ無いかしらねぇ」

「……お、お祖母ちゃん?」


 いつもと変わらない調子で──誰の記録だ? ウタラでいいんだよな?──祖母は不安気なこちらの呼びかけに、くつくつと笑って「なあに、ウタラ」と返事をした。体がまるで自分のものではないみたいに──そりゃそうだ、だってもう少女の身体ではない──戸惑ってぎこちない動きで、暖簾がかかった奥の部屋へと近づく。


「もう、ウタラの声じゃないって分かるだろう?」

「ええ」


 肯定する声に、背筋がピンと張る。その事実に、不安になるのはどうしてだろう?


「足音だって違うだろう。見えないだろうけど顔だってもう変わった。匂いも多分、違う」

「ええ、ええ。そうねぇ」

「もうウタラじゃないんだ」


 これがウタラであれ、フィル・デであれ、発したのはここにいる自分自身だというのに、否定する言葉がひどく不愉快で驚いた。その名は確かに自分で、だけど他人事だというのに、意識的に打ち消そうとするとこうも気分が悪いものなのか。


「でも、ウタラでしょう?」


 それを、祖母が笑って当たり前みたいに諭してくれるだけで、安心するのはどうしてか。


 ──……ウタラはウタラだよ。


 そうだったらいいのに。そんなウタラとしての、最後の願望が残っているせい、なのだろうか?


 祖母の顔が見たくて、暖簾を掴んだ。だけど目の前で彼女が違和感を覚えたらどうする? 『ウタラではない』と訝しんだら? 拒絶したら? 怯えさせてしまったら? 押し入る勇気が無くて、それ以上進めずに立ち止まる。


「……記憶はあるさ。ウタラだった記憶は、ちゃんとあるんだよ。だけど……それ以上に、ウタラでは知り得ない情報の方が多くて、きっとウタラには興味のない事に気が逸れて、ウタラが苦手な物が何ともなくて……」


 怯えているのはこっちじゃないか。執拗に何度も予防線を張って、『それでも良い』という言葉が欲しくてしょうがない。他人のフィル・デは『どうだっていいさ、旅に出よう』と誘うのに、消え失せたはずのウタラが縋っているのだ。


 『嫌わないで』と、祖母に泣きついている。


「──ウタラ」


 しとやかに、祖母は彼女の名を呼ぶ。続く言葉を待つウタラに、祖母は楽し気に言葉を繋げる。


「よくごらん。どれだけ貴方の名前を呼んだって、精霊は怒ったりしないわ。“黒い霧”だって生まれない。ウタラ、貴方がそこにいる証よ」


 事実を告げる言葉に背を押され、そうっと暖簾を分けて一歩、奥の部屋へと足を入れた。居間と同じくこの部屋の窓にも板が張り付けられていて、元々薄暗い時間帯である事や今日の太陽の日差しが差し込む位置とは逆にある事も相まって、室内はほとんど暗闇に近い。ただ情報として人となりを知っているだけなら、手探りで移動しても何かに躓いたことだろう。


 どこに何があるのか、勝手を知っているウタラでなければ、きっと。


 床に落とした衣類、後で片付けておこうと端に寄せた日用品、座高に合わせて調整した椅子……そのどれにも引っかかる事無く、部屋を歩いた。何年も毎日ここを訪れては祖母の面倒を見てきたのだ、物の配置はこちらの都合で置かれているのだから、知っていて当然だ。そう、当然なのだ。その事実を当たり前と理解した瞬間、胸の奥から熱がこみ上げたみたいに急に体全体が熱くなった。一歩足を出すごとに血が巡り、意識が鮮明になっていく。


 抹消されたというのは、言い過ぎだったようだ。


 寝台のすぐ傍に置かれて小さな棚から擦付木マッチを取り出して、祖母の顔の高さに合わせた台に乗せた灯りに火をつける。見えずとも光を追える祖母の目が、ゆっくりと光源に向けられる。それを見ながら、ウタラは近くの椅子に座り──高さが合わなくて、苦い顔をしながら座る場所を床へ変えた。


「本当は、私に会いたくなかったでしょう?」

「……知らない人の声がしたら、お祖母ちゃんも怖いだろう」

「ウタラの声だ、って分かるわよ。息を潜めたって、貴方だって分かるもの」


 知っていたのか。隠していたつもりだったのに、とっくに見つかっていたのがおかしくてニタニタと笑った。


 ウタラは随分と前から、顔が変わってしまった事を理由に家族から見放されてしまっていた。『気味が悪い、帰って来るな』と怒鳴りつけられて、帰る家を失っていた。だがそれを祖母に言えず(どう説明していいのか分からなかった)、祖母の目が見えないことを良い事に夜に帰るフリをして、一晩中息を殺して居間に留まっていた。


(まあ、でもそうか……知っていたから、雨が降る日は膝が痛いだなんて言って、泊まっていくように言ってくれていたのかな)


 とっくに気づいていたのだろう。目が見えない代わりに、音に敏感だから……。


 フードの隙間に手を滑り込ませて、祖母は弱い力でウタラの頭を撫でた。自然と顔が近くなり、視力を失った目に映る少女の顔を見て、他人であるフィル・デの部分が後ろめたさを感じて居心地が悪くなる。もうすぐ少女だった面影すらも、完全に消えてなくなってしまいそうだ。


 それが分かっているかのように、残念そうに、祖母は少しだけ眉を下げた。


(でもね、お祖母ちゃん。俺は貴方の目が見えなくて、ほっとしてるんだよ)


 きっと祖母は目が見えたとしても、変わっていくウタラをこの名で呼んでくれるだろう。だがそれは何の確証もない妄言にすぎず、そうであって欲しいという願望だ。ほんの僅かでも拒絶される可能性があるなら、見えないままでいい。


「────」


 不意に、背後で壁を擦る音がした。リコルかアオバが壁にもたれたまま、背を擦ったのだろうか。少しして足音がし、二人の話声が聞こえてきたが、距離があるせいか上手く聞き取れない。顔をあげて振り返ろうとしたその時、祖母が息を呑んで、ウタラを撫でる手を止めた。


「お祖母ちゃん……?」

「あぁ、こんな事が……」


 視線を祖母に戻せば、目を見開いた彼女と目が合った。いつもと違い、焦点がきちんとこちらに合わせられていて、両手でウタラの頬を挟むようにして触れた。


「見える」

「……!」

「ウタラ、ああ、見えるわっ、ウタラ! 貴方の顔が分かる!」


 震え出た声は戸惑いに満ちていたが、次第に弾んだ。思わず身を引こうとしたこちらを、祖母は呼び止めて、嬉しそうにしわくちゃの顔を崩して笑った。


「……やっぱりね。なぁんにも、変わってなんかいないわ。ウタラは、ウタラのままよ」

「本当……?」

「当たり前じゃない。分かるもの、貴方はウタラよ」


 突飛に起こった奇跡は、妄言を確証に変えた。


 と同時に、どこかで別のフィル・デが言った言葉が、風に乗せられて耳に届く。


 ──不気味で美しい、目を奪って出来た石を小鳥に剥がせて民衆に配るのは、文学の中だけにしてくれよ。


 この奇跡が、何を犠牲に成し得たものか分かってしまった。共感なんて出来まい。ただ、分かるだけだ。 “皆が望む御使い様”なら何をするか、理解していた。


 視界は一気に滲んで歪み、ボロボロと零れる涙をしわがれた指が拭った。記録ではない、まだ十代の少女であるウタラが、言い表せない感情で泣いていた。


 祖母が受け入れてくれた事。顔を見ずとも分かる、そう言って名を呼んでくれるだけで十分だと言うのに、御使い様がそれ以上の安堵を望んでくれた事。この先、旅への欲求が抑えられなくなって飛び出す不安と、期待感。どこかに必ずいる、同じ顔と対面する恐怖……。


 泣いて、目元が腫れて祖母が困ったように笑って慰めて──ひとしきり泣いた後、日が昇り出した時刻になって、ウタラは居間にいるアオバの様子を見に、鼻をすすりながらおそるおそる戻った。


 床で膝を抱えて座り込んでいた少年は、足音に気づいて顔を上げた。抉り取られた左目には包帯が巻かれていて、残された右目は焦点が合わないまま、細められた。それだけで、疑惑は確証に変わる。少し前の祖母と、同じだ。奇跡が起こる直前まで、祖母も同じような目をしていた。


「ウタラ、どうだった?」

「……連れてきてくれてありがとう、御使い様」

「よかった」


 何も見えていないだろうに、何故。


(君はどうして、幸福そうに笑えるんだ)


 たった今“財”を一つ失ったのに、心底安堵して胸を撫でおろす彼が不気味だった。


「……」


 そう思っているのはどうやら、ウタラだけではないらしい。気持ちはよく分かるよ、と言葉にせずにやりと笑って彼を見やれば、三度見はしてしまう美貌を持った青年が、バツの悪い顔をした。


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