◇ 03
何とも言えない間が空き、気まずくなる。間近で聞こえたギシリと軋む音に顔をあげれば、ウタラがのそりとベッドから降り、数歩ペタリペタリと歩き出したところだった。彼女は両耳を押さえて、天井を仰いでいる。
「ウ、ウタラ?」
「声がするんだ。なるほど、こうやって情報を交換していたわけか。行かないと。旅に出ないと」
ふらりとどこかへ消えてしまいそうだったウタラの肩を、リコルが掴んで引き留めた。
「……残された者はどうなる」
「分からないよ、もう。それより外に出よう。知らないものを探しに行くんだ。どうしてかな、もう耐えられないんだよ。息を潜めて夜を過ごすのは、窮屈だ」
楽し気なウタラに反して、リコルは『窮屈』という一言に言葉が出ない様子で顔を強張らせた。変わってしまった今のウタラが祖母に会ったところで、思うところは何も無いかもしれないなと、そんな考えが過った時だった。
──たくさんいるのに、静かねぇ。
リコルの手を振り払おうとしたウタラの腕を、反射的に掴んだ。驚いて振り返った彼女と正面から向かい合えるように、片腕を掴み寄せる。背の高さすらも、すっかり変わってアオバよりも少し高く見える。それでも迷わず、その名を呼ぶ。
「ウタラ。お祖母さんに会いに行こう」
「え。なんで?」
「ウタラがずっと帰らなかったら、お祖母さんはきっと困っちゃうよ」
ウタラの目が泳ぎ、少しして伏せられた。その不安そうな態度を見て不謹慎ながらも安堵する。まだ祖母の事を気にしている。ウタラはまだ完全には変わってはいない。
「もし他の誰も君の事が分からなくなっても、僕が君の事をウタラと呼び続けるから。お別れもしないでいなくなったりしちゃ駄目だ、きっと後悔する。だから、行こう?」
「……分からないよ。だってもう、俺すらウタラがどんな奴だったか分からないのに、お祖母ちゃんだって……」
「逃げるのはいつでも出来る。でも、ウタラとして御祖母さんと話せるのはこれが最後かもしれない。それでもし、君が……ウタラが傷ついてしまったなら、その時は全部僕のせいにしていいから」
光る瞳孔がおずおずとこちらを見つめ返した。
「一緒に行こう」
手を差し伸べて、その手を取ってくれることを待つ。ウタラは手を持ち上げたものの、決断付かずにいるようだったが、死角から伸びた真っ白な手に捕まれてそのままアオバの手に乗せられた。一瞬呆気にとられたウタラは、降参とばかりに「ありゃりゃ、これは仕方がないな」と肩をすくめた。
「えと……いいの、ウタラ?」
「どうして連れて行こうとしているお人が二の足を踏んでいるんだい。押すのも押されるのも弱いねぇ」
相好を崩して、ウタラはペルルの頭を撫でた。ペルルはよく分から無さそうなまま、機嫌良く撫でられていた。それからペルルは真珠色の大きな目をこちらに向けて、「ぺるるもいく」と両腕を伸ばして万歳のポーズを取った。抱き上げろという要求だろうと解釈し、少し痛い体を無視して見た目以上に軽いペルルを抱え上げた。
「私も行くよ」
リコルはどうするのかを聞こうと口を開いた瞬間に、彼はそう答えた。
「ご、ご迷惑じゃないですか。リコルさんも疲れているでしょうし……」
「眠くないかと聞かれれば眠たいが。君達だけではさすがに心許ないからね」
それに、と彼は続けた。
「少し、思うところもあるから」
「……?」
何がと聞き返す前に、リコルは「すぐ行こう」と扉を開けて廊下の様子を窺った。
「うん、今なら誰にも見つからずに行けそうだ」
「え。テルーナさんやウェルヤさんは呼ばないんですか?」
後でバレた時が怖い気がするが……。怒られると分かっていてどうしてそう単独行動をしがちなのだろうか、貴族社会の鬱憤を晴らしている……ようには見えないけれど。穏やかにほほ笑む青年を追いかけつつそう考えていると、彼は廊下へと出ながら苦笑してちらりとこちらに振り返った。
「休ませてあげたいんだ。家に戻ったら、ウェルヤも家の事で忙しいだろうし、テルーナも六番隊の活動に戻るだろうから、ゆっくり休めるのは今ぐらいだろう?」
「そっか……そうですね」
ならしょうがないか。
忍び足で外に出る。扉を閉めるともう物音に気を遣わなくて良いかと息を吐き、山の方へと歩き出す。ちらりと、ペルルが背後に視線をやった。斜め後ろからユラが腕を伸ばして、触れられないのを承知でペルルの頬を撫でる。何だろうかとユラに視線をやれば、彼女は肩をすくめた。
「何も?」
「……そうですか?」
まあいいかと思い直し、視線を進行方向に戻すと、ユラが先導するように斜め前に躍り出た。赤い夕空は分厚い雲に阻まれて、周囲は薄暗かった。
***
濡れた土を踏みしめ、靴底が抜ける音がよく聞こえる。
「『私』だったかな」
太陽が厚い雲に隠れて、更に木々が茂る森の中ともなると視界は更に暗くて足元が覚束ない。半分手探りでうろつく中、ぽつりとウタラは言った。
「私……あたし……ううん、私か。私……」
「そんなに気負わなくても大丈夫だよ」
「いや、そうはいかないよ。ウタラの家族みたいに、『他人が孫のフリをしている』と気味悪がらせては……ああ、違う、ウタラは私か……ウタラは私、ウタラは私」
ぶつぶつと独り言をうわ言のように繰り返して、ウタラは少しだけ難しい顔をした。肩に落ちて来た蜘蛛を視認もせずに払い落し、考えに没頭して唸り声をあげる。
(意思を他人に乗っ取られていくような感じ、なのかな……それでも全然想像つかないけど)
別人が体の中にいるという点だけ見れば、ペルルもラピエルも似たようなものかもしれない。だっこされて上機嫌で顎を首元に乗せているペルルをちらりと見る。白い髪ぐらいしか見えない。
(ペルルの中に複数の人がいるのは間違いないとして……考えたり喋ったりは、誰の意思でやっているんだろ?)
誰かリーダーシップのある人物がいて、率いてくれているのかもしれない。聞いてみたいところだが、ペルルはまだ上手く説明できないのがもどかしい。
「あだっ」
不意に、左側に何かがぶつかって思わず呻いた。ビクリと肩を揺らして二人が振り返った。先行していたリコルが一歩こちらに戻ってきて、アオバの新たな死角の方へと顔を向ける。
「ああ、幹に当たったのかな。丁度左側にあるし」
「幹……えー……あ、ホントだ。あった」
顔を大きく逸らして右目で周囲を見渡し、こちらに伸びた太い幹を見つける。左目が無い分、左側の注意がややおろそかになっているようだ。少し前を歩いていたユラが、申し訳なさそうに左目を撫でてきた。
「ごめんなさい。足元ばかり気にして上部まで気が回っていなかった」
言われて初めて、ユラがずっと左前を陣取っていると気づいた。ユラがいるからと、何気なく半歩開けてやや右側に寄っていたのだが、アオバが見えない部分を補助してくれていたようだった。片目ぐらい無くても大丈夫だと思っていたが、ユラの気遣う姿すら見えないのは少々困るかもしれない。
リコルたちがいる手前、表立って口にすることも難しくて、会釈と口の動きだけで礼を言う。
心配そうなリコルたちにも「大丈夫です」とこれ以上気にしないようにと手振りをして、歩き出す。
「──……私……私はウタラ……」
しばらくして、またウタラがぶつぶつと呟く声が耳に届き出した。
ほんの数時間前は確かに『ウタラ』だった彼女は、すっかり町に一人はいる旅商人の青年になっていて、他人の記憶を探ってその人物になりきろうとしていた。
「……御使い様も言っていたけれど、そう気負う必要は無いよ、ウタラ。人はそう変わらない」
毒牙が抜ける声で言ったリコルに対し、ウタラは茶化し半分な様子で手を広げて首をすくめた。
「そうかねぇ……ウタラはまだ十数年しか生きていないんだ。俺として生きる期間の方が長いかもよ?」
「だとしても、ウタラの記憶が君の中にある限り、君はウタラだよ。町中にいる他の君とは違う、別の人間だ」
「見目が別人に変わってもウタラなのか。記憶があればそれはウタラなのか。人間というのは、自我によって己を認識していると俺は思うけれどね。そのために人類は名前を付けていて、精霊は俺を作るときにそれらを奪うんじゃない?」
「名が無くとも、人は個人を認識できるさ」
にこやかに言うリコルを、「ふぅん?」と納得いかない様子でウタラは腕を組んで首を傾げた。
「それは、君の願望じゃあないのかい?」
「そうかもしれない」
迷いなく率直なリコルの返答を聞いて、彼女は彼を一瞥して呆れたように「素直なことで」とだけ呟いた。
「だけど、私に『良い旅を』なんて言えるのは彼ぐらいだ」
その言葉にどんな意味があるのか、アオバには分からなかった。だがウタラには思うところがあったようで、僅かに肩を揺らして反応し、何か言いかけて口を開けたが、結局言葉にはできず沈黙を選んだ。
草むらをかき分け数十分程歩いただろうか。先頭を歩いていたリコルが「あっ」と声を上げた。見覚えのある小屋が前方に見える。ウタラはそわそわとして手首をさすったり、手揉みをしたりと落ち着きが無くなり始めた。
「いよいよか……ああ、緊張してきちゃったな。俺はウタラとして話せるだろうか」
詐欺でもするみたいに、彼女はそう言ってカラカラと笑った。
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