◇ 11

 歓声で、目を覚ました。


 酷い寝汗で全身が湿った感覚のまま、ゆっくりと呼吸を落ち着ける。目を閉じて深呼吸をすれば、心音は次第に耳の傍から離れて行き、湧き上がる歓声の方が大きくなっていった。


「おはよう、アオバ」

「……ユ、ラ……さん」

「うなされていたけど、大丈夫か?」


 ユラの声がする。首を動かすのも億劫で、視線だけで彼女を探していると、頭上から手が伸びてきて、頬を撫でるように触れてきた。触れあう感触はどこにもないのに、それだけで安堵した。


「だい……じょ、ぶ……」

「……ならいいけど」

「うん……ん……?」


 利き手である右手を持ち上げようとして、何かに引っ張られた。寝返りを打って確認すると、右手の中指をペルルが咥えていた。


「どう、し……たの、ペル、ル。お腹……空いた……?」

「んー……んむー」

「暇だっただけだと思う」


 無表情ながらに不機嫌そうなペルルに指を離してもらい、ぎこちなく前髪をかき上げた。寝すぎなせいか腰が痛い。


「……何日、経った……?」


 窓から空を見上げる。時刻は昼頃だろう。また何日も眠っていたのではないかと不安がると、ユラが正面から顔を覗き込み、「大丈夫」と答えた。


「貴方が眠ったのは昨日」

「よかった……」

「今は丁度、聖女の演説が終わった頃だ」

「あー……それは、ちょっと、残念……」


 セイラはどのような言葉を、国民に向けて語ったのだろうか。それを聞いた人々は、どんな反応をしたのだろうか。──いや、今も尚外から聞こえる歓声が、何よりの答えだ。多くの不安は払拭された。この先どうなるかは、セイラという聖女と、地位に固執する星詠みたちのやり取り次第で、アオバは深く関与できない領域だ。


 咳払いをし、昨日より声が出ている事も確認し、この調子なら元に戻るのも早いだろうと思っていると、ユラの視線がやや鋭くなった。


「で、だ。アオバ」

「はい?」

「能力の代償を肩代わりするなんて妙な事をしたそうだな」


 静かに顔を逸らした。隣で暇そうに寝転がっているペルルの頭が視界の端に映る。


「ユラさん……どこまで、知ってます……?」

「三日間意識不明になって、起床後早々にセイラの声を治し、半日気絶したところまでは知っている」

「ほぼ全部……」


 これは誤魔化せそうにないと、観念してユラに向き直る。怒り心頭かと思ったが、彼女の表情はやるせなさに満ちていて、胸の辺りがずきずきと痛む。こういう顔をさせたくないから、彼女がいない間に済ましたつもりだったのに、周囲の情報を瞬時に拾ってしまう彼女相手には上手くいかない。


「声……どうしても、今すぐ……治さないと、駄目で……」

「分かっている。そうしなかったら、民衆はこうして聖女に励まされる事はなかっただろう」

「あ……えと……」

「聖女の生存は、この国が良い方向に向かう分岐点の一つだと言える。貴方がいなければ、セイラのフラン・シュラ化は免れず、セイラを祀り上げた星詠みたちの影響力は下火になる……その程度なら安いもので、下手をしたら暴徒によって壊滅されていた。だから、貴方のやった事は間違いではない」


 自身が思う“正しさ”からアオバの行為の正当性を説くユラは、眉根を寄せた。


「だが、それらは貴方という犠牲によって成し遂げられた。……貴方がそこまでする必要も義理も、どこにも無かった」

「……出来る、から……しただけ、で……そこまで、考えては……」

「考えなさい。損得も、優劣も、順序付ける事は何も悪いことじゃない」


 小さな声で謝罪する。アオバの額を指ではじいて、当然のようにすり抜けていったのを見て、ユラは不機嫌そうに黙り込んだ。


「……ええと、ユラさんは……しばらく、見なかったです、けど……どこに行って、たんですか?」

「壁のところ」


 沈黙が気まずくて話しかけると、ユラはポツリと答えた。怒りや不安でいっぱいっぱいになっても、質問には律儀に答えるあたり、素直な人だ。


「それと、毎日貴方の様子を見に戻ってはいた。間が合わなかっただけだ」

「すみません……」

「別に謝らなくていい。聖女伝説についても、ある程度理解できたしな」


 何か新しい発見があったのかと目で続きを待つと、視線に気づいた彼女は「そんなに愉快な話じゃない」と前置きして話し出した。


「聖女伝説には、複数の説があるというのは分かるか?」

「はい。物理的に、強い聖女と……祈りの力を持った、聖女……ですよね」

「ん……ああ、有名な説は、その二つだ。他にも似たり寄ったりなものがあったが……あれは多分、別の聖女の話だろうな。聖女伝説は、各地にその時々にいた星詠みの話だ」


 そんな気はしていた。精霊との対話ができる王族がいないこの国では、精霊の存在感がどうしても薄い。つまり、他国に比べると、天災に対して特別弱い。そんな中に精霊の気配をしっかりと読み、この先の行動を予測できる人物が現れれば、持て囃すのは当然だろう。


「リヴェル・クシオンはとにかく昔から精霊と人間の折り合いが悪くて、今でも波長が合わずに戦争状態になる事が屡々あるみたいだ。何度も分裂や統合を繰り返している理由の一端にもなっている。その昔、精霊との戦争で干ばつが続き、飢饉状態になった。そこで、当時聖女と呼ばれていた一人の少女が精霊の気配を読み、先読みをして指示し、それらを解決に導いた」

「それが、最初の聖女……ですか?」

「ああ。それ以降、精霊の気配がはっきりと読める人物は、性別に関係なく『聖女』と呼び慕い、石碑が乱立していったみたいだな。それで、最初の聖女伝説の話に戻るが……これは相当昔の出来事のようだ。おそらく……土贄の儀が始まるよりも前、“黒い霧”の存在が無い頃……」

「聖書よりも、前の出来事……」

「そうなるな。だが聖書には土贄の儀については書かれていなかった。書く必要が無かった、とは思えないけれど」


 土贄の儀の神様は、精霊の中でも特に大地に強く関与していると考えられていた。眠る前の祈りの言葉にも大地の話題は入り込んでいる以上、聖書に書かれていないのは妙だ。意図的に省いているような……その神様を信仰する価値など無いと、知っていたような……いや、これはその正体が人食いの怪物だという情報が先に頭にあるせいか。


 考えても情報が足りずに答えを導き出せず、苦し紛れに少し唸るだけで言葉は続かなかった。


「と、いうことは……昔は……八百年、前は……“黒い霧”は、人にとって脅威では……なかったんですね」


 情報を整理しながらポツリとそう溢すと、ユラは少し間を空けて「そうだな」と同意した。


「オーディールが今よりも多く、姿を見せていたんじゃないか。アレはこの世界が生まれた頃から、ずっと存在しているはずだしな」


 そういうものか。短く相槌を打ちながら、動くのが億劫な体の代わりに頭を働かせる。


 オーディールがいたから、“黒い霧”は人間の脅威とならなかった。だけどそのオーディールは、十年前の出来事によって信仰を失った結果、祈りという存在を確立させるための呪文を失い、姿を見せなくなってしまった。ならば十年前より以前であれば、“黒い霧”は脅威ではなかったのだろうか? いや、もしそうなら、死人の名を呼ぶことを禁じる文化は、あまり浸透していないはずだ。あれは死人の名を呼べば“黒い霧”の発生に繋がるから、精霊に嫌がられているわけで……。


 聖女が“黒い霧”を払った、という伝説もある以上、それなりに昔からその存在を危険視されているような気もする。


「……ユラさん。聖女伝説の、“黒い霧”を払った方の、聖女様って……どのぐらい前の人か、分かりますか」

「詳しくは不明だ。“黒い霧”がオーディールでは処理しきれなくなった頃と考えれば……土贄の儀が始まる前後だと思う。ああいや、それ以前にその人物は何というか……」


 言い淀んだユラを見つめ返すと、彼女は困ったような、呆れたような顔になった。


「まあ、なんだ……私のような仕事の『協力拠点』があるということは、つまり……」

「……あ、ユラさんよりも先に、同業の方がこの世界に来ているって事ですか?」

「そう。それで、拠点を作るということは、人や資金、作った拠点を今も維持する為に文化が必要なわけだから……」


 彼女が立てた人差し指が、意味も無くくるくると宙に円を描く。言わんとする事はなんとなく分かった。


「ええと……つまり? “黒い霧”を払った聖女は、ユラさんと同業の、どなたか……ということ、ですか?」

「……そういうこと。それと多分、男だろうな。今手元に資料が無いので確認できないのが口惜しいが、こちらに来る前に一度目を通した資料に、同業男性が来て、基盤を整えていると書かれていた記憶がある」

「なるほど……」


 信仰はお金も人も集まる。拠点を作るのに聖女を名乗るのは便利だ、とかつての聖女が考えるのも分からなくもない。


「その聖女伝説と、よく似た特徴を持つ奴に心当たりがある」

「不死で鳥の姿になるってやつですか?」

「ああ──あ、いや……」


 肯定すらもしてはならない、『話してはいけない事』だったようで、ユラは咳払い一つをして誤魔化した。それから汗をかいてしまったのか、首元を手の甲で拭い、ため息のような息を吐いた。


「それで……ああ、そうだった。“黒い霧”の話だったな。あれはどうも、オーディール信仰が過去にも途切れた事があったらしくて、処理されずにどんどん形を得ていったものだから、多くの人に認知されるようになったそうだ。聖騎士が現れたのもこの頃のようだ」

「へぇ……ああ、そういえば。土贄の儀がどのようにして始まったとか、そういう情報はありましたか?」


 確か、最初の贄であるランと、その少女を連れ去ったというエダという男について書かれた石碑がこの国にはあった。儀式と何らかの関わりがある地域なのだと勝手に思っていたのだが、その辺りの新しい収穫はあったかと尋ねると、ユラは記憶を探るように視線を斜め上に向けた。


「ふむ。あるにはあった」

「どんな?」

「土贄の儀以前、この世界全土を巻き込んで精霊との大戦争が起こり……大地は枯れ、人々は飢餓に見舞われ、同時に“黒い霧”が姿を見せるようになり、混乱していた時期があった。そこで当時、聖女と呼ばれていた少女が大陸中央、つまり保護区に向かった……という情報が一つだけある。他人様の日記だがな」


 その話では、人攫いの男は出てこないのだろうか。言われてみれば確かに、土贄の儀に近しい構図ではあるが、神様に祈りを捧げに向かったというよりは……。


「それだと聖女は、精霊に戦争を辞めるよう言いに行った、ような感じがしますね」

「そうだな。ただ、この聖女に関する情報はあまり無くて……一つだけ、後世にも残っている事と言えば──死人の名を口にするな、という言伝くらいか」


 ここでそれが出てくるのか。随分古くからある言い伝えだったのだなとぼんやり思いながら、体を起こす。体の上に乗っていた紐状の定規に首をかしげていると、ユラが「あっち」と言いたげにテーブルの方を指さした。


 つられるようにしてそちらを見ると、テーブルに突っ伏すようにして寝ている赤毛の少女と、壁に背を預けて立ったまま寝ている海松色の髪の青年の姿が見えた。テーブルの上はトランプが片付けられ、裁縫道具が散乱している。


「ネティアと、グラン?」

「セイラの演説用の衣装を作って欲しい、とリコルに呼ばれたみたいだ。急いで完成させた後、『そうだわ! 前に言っていたアオバからお礼は、アオバとペルルちゃんのお揃い衣装を作るっていうのはどうかしら!』とか言い出して」


 それはお礼にならないと、何度か断ったような記憶があるのだが、徹夜明けの気の昂りでおかしくなっていたのだろうか。


「一時間程裁縫をしていたと思ったら、糸が切れたみたいに突っ伏してそのまま熟睡してしまって、それっきりだ」

「あー……風邪ひいちゃうよ」


 よいしょ。と小声で掛け声をしてベッドから降り、掛布団を持って立ち上がる。よたつきながらも移動し、布団をネティアの肩にかけておいた。出来れば寝台に運んであげたかったが、さすがに今の腕力ではそれは叶いそうにない。


 それから立ったまま寝てしまっているグランの腕をつつく。


「……ん。うん? うわっ」


 訝し気な顔をした彼は定まらない焦点でこちらを見、一度頭を振って目を覚ますと、びくりと大きく肩を揺らした。


「ひ。いえ、眠っては……あ、いや。違った。アオバか」

「おはよう。立ったまま眠れるの、凄いね」

「そういう訓練があるから……じゃなかった。起き上がって大丈夫なのか? 三日程意識不明だったんだろう?」


 平気平気、と手をひらひらとさせる。迷った風に彼が何か言おうと口を開いた途端に、バタバタと足音が近づいて来て、扉が開かれた。


「アオバ……あー! よかった! 起きてる! マジでよかった!」


 駆け込んできたのはセイラで、その元気な声に驚いて、静かに、という手振りをすると、眠るネティアが目に入ったのか、彼は慌てて口を手で押さえた。


「ごめんごめん……。ちょっと人前で話した緊張とか高揚感で、変な感じになってた」

「や、いいんだけどね。」


 名を呼ぼうとして『セイラ』か、本名である方を教えてもらうかで迷っていると、「セイラでいいよ」とすかさず彼は答えた。


「声、どう? 違和感無く治せたかな」

「うん、ばっちり。アオバもまだちょっとつっかえてる感じするけど、かなり良くなったね。ごめんね、無理に力使わせて」


 話すセイラの後ろから、コーディアが顔を覗かせる。その気配を感じ取ったのか、セイラは少し肩を揺らして体を緊張させると、半眼になって振り返った。


「距離を保てって言ったぞ」

「保ってますよ。ねぇ、御使い様」

「へ? は、はい。そうですね……? 何なら以前より、距離があると思うけど……」


 そういえばこの二人は結局、セイラの性別や気持ちにどう決着をつけたのだろうか。視線をセイラに落とすと、彼は「聞くなよ」と小さな声で答えたかと思うと、むっとした表情になった。


「私の中では、仕事上においての相棒ということになってるから」

「ええ、公私ともに相棒になりましょうね」

「仕事上においてだって言ってんだろ、聞いてんのか」


 ほとんど聖女セイラを投げ捨てて素で話せるぐらいの関係には、なったらしい。なんだかんだ文句を言いつつ、以前よりも双方ともに生き生きしていてほっとする。


 安堵するアオバを不思議そうに見つめた後、セイラは「そうそう」と話し始めた。


「これから一緒に、ケルダを連れて遺跡の方に行かない?」

「遺跡って……コーディアさんの、お父さんの……」

「……やっぱ気づいてたか」


 ケルダに内縁の夫がいて、おそらく星詠みたちの手で殺されてしまった事は想像できていた。当時聖女だったケルダを想っての行動だろうとは考えられるが、褒められた行いではない。よって、墓という相手の死をまざまざと感じるものを作るよりは、罪の意識から、見えないようにしてしまうだろう、という推察から、『ケルダの目に触れない場所』で、『屋敷からそう遠くない場所』を考えた結果が、あの遺跡だった。


 とはいえ、確証が無かった事と、ケルダと話す時は常に周囲に星詠みがいた為これまで言わずにいたのだが、一応正解だったらしい。


(あんなに神聖な雰囲気がする場所の裏で、人が亡くなっているなんて……あんまり想像したくないな)


 目を伏せて、あまり考えないようにする。あそこは精霊たちの憩いの場だ。“黒い霧”もフラン・シュラもいない、ラピエルすら寄り付かない──


「あ」


 思わず、声が漏れ出た。


 「さっきテルーナ達と会って、ケルダを運んでくれるって言ってたんだ。ああ、ウェルヤさんは体調悪そうだから、無理はさせられないんだけど……」と話しながら廊下に出ていたセイラが振り返る。「何でもない」と手振りを見せて、部屋に残るグランに会釈をしてから、いつの間にか隣に来ていたペルルと手を繋ぐ。


「どうかした?」


 歩き出すセイラから数歩離れて追いかけるアオバに、ユラが声をかけてきたので、小声で返す。


「ああいえ……あの遺跡、見覚えがあるような気がしていて、今思い出して」

「元いた世界か?」


 首を横に振り、向かう遺跡の風景を思い浮かべる。崩れた壁、均等に並ぶ石柱。ひび割れた床。崩壊した天井から、差し込む日差し。古びた場所なのに、どこか清潔感がある不思議な場所……。足りないのは、金色の椅子だけだ。


「ラピエルに初めて会った場所と、そっくりなんです」


 声を潜めてそう答えると、ユラは無言で目を瞬かせていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る