◇ 10

 空の色が夕暮れから朝焼けに変わる。先代聖女ケルダから聖女と認めてもらって、一晩が経った。


 快晴を予感させる眩しい朝日を硝子越しに浴びながら、玲は自室で、演説の原稿の前にため息を吐いていた。この先聖女としてやっていく事が決まった。男である事はケルダやコーディア、十番隊の隊長と副隊長という少人数にだけ知らせるに留まったが、それだけでも十分すぎるほどに気が楽になった。後は──コーディア本人の感情だけだ。


 結局昨日はあれ以降会えずじまいで、彼がどこで何をしているのかは分からない。


(ここが一番の問題だなー……)


 過去の自分によく似た彼を、どうにかして導いてあげたいと思う。これは玲の我儘だ。前を向いて、己というものを自立してもらいたい。そのためにも、いつまでも嘘をついていたくなかった。偽りの聖女ではなく、一人の人間としてこれからは関わっていきたい。


 今まで通りの『聖女と側役』の関係には戻れないだろう。だが、これからの関係に期待はしている。恋愛対象としてではなく、気心知れた同性の友人になれるはずだ、という期待だ。三年間、風呂や着替えといった性別に関わりそうなもの以外の面倒を見て貰って来た分、この世界では誰よりも玲をよく知る人物だ。色んな事を相談したいしされたいし、相棒として仲良くしていきたい。


(とはいえ……やっぱり、タイミングミスったかなー……演説とか諸々終わってからにした方がよかった気がする)


 頭に入っているのだかそうでないのか、判断がつかないながらも原稿を眺める。演説まで二時間を切っている。そろそろ準備しないとまずい。こじんまりとしたクローゼットを開け、数着の衣装を眺める。儀式用の衣装が一点、普段着が五点、訪問着が二点……人前に出る事を極力断ってきたせいか、本当に少ない。


(服……服なぁ、どうしよ。この間一着ダメにしたし……儀式用は儀式以外で使わない方が良さそう……他に何かなかったか……)


 もっと時間があれば、コスプレ衣装を自作した技術を用いて、自分で作ったりもするのだけれど。折角織物や釦、刺繍糸といった裁縫の材料の産地なのだから、それらを利用してアレンジした貫音セイラの衣装などを作ってみたい創作欲はあるというのに、肝心の時間が足りない。


 このままでは、アニメのキャラクターの造形を忘れてしまう一方だというのに。


 ……手が止まってしまった。


 余計な事を考えなと、首を振る。隙間だらけのクローゼットを前に、ため息を堪える。


 既に活動を始めている人のざわめきを薄ぼんやりと耳に入れて突っ立っていると、足音が近づいて来て、扉がノックされて思わず飛び上がった。


(コ、コーディアか……!?)


 何を言われるかと気が動転しそうになって心臓をバクバクと鳴らす。それを落ち着かせようと深呼吸をし、扉の前に駆け寄る。


「は、はーい……?」

「聖女様、今よろしいでしょうか?」


 毒牙の抜けるような穏やかな声の主だった。コーディアではなく(彼はどちらかというと低音で、やや鼻にかかったような声だ)、シャニア王国からの客人のリコルのようだ。扉を開けると、想像通りの美貌の持ち主が微笑みかけてくる。


「どうされましたか?」

「必要かと思って、用意させたんです」


 どうぞ、と渡されたのは巫女服のような色合いの、洋装の造りをした衣装だ。先日の騒動の際、フラン・シュラ化した玲が一部を溶かして駄目にしてしまった服に似ている。いや……。


(!? え、嘘。この世界ってミシンとかあった!?)


 縫い目があまりにも細かく均等で、目を張った。思わず顔を近づけて、衣装の細部をまじまじと観察してしまう。


(なんだこれ! 刺繍!? 手縫いで刺繍ってこんな綺麗に出来んの!? いやそもそも生地からして違う! 絶対高いやつだこれ! つーかセンスがとんでもねぇな!? 俺じゃ絶対無理……)


 はっとして顔を上げる。あまりの精巧さに、つい無言になってしまった。


「こ、これは一体……」

「実は裁縫術師のガーネットが、丁度今この国に滞在されていて」


 この世界では超が付く程の有名ブランドだ。シャニア王国の人物だったはずだが、何故リヴェル・クシオンに……いや、今はそれはいい。何故そんな人物が、聖女の衣装に似たこの服を作ったのか。少し興奮気味になる玲に、リコルは終始穏やかなまま言う。


「人前に立つのに衣装が必要だろうと思って、捨ててしまった服を手本に、一晩で作ってもらったんです」

「一晩で!? これを!?」


 いくら精霊と波長が合うとはいえ、とんでもなさすぎる。袖を通すのが自分で良いのかと尻込みしつつ、高級生地の光沢で我に返る。


「あ、その、これ、代金……」

「私からの贈り物ですので、お気になさらず。シャニアとの友好を期待しております」

「ひゃい……」


 政治なんて無関係ですと言わんばかりだった彼から贈呈されるとは思っておらず、裏返った声で妙な返事をしてしまった。


(で、でも……これなら遠目でも聖女感あるな……)


 演説とはいえ、拡声器等はないので聞こえるのは近くに陣取れた人のみだ。敷地内に人を呼び、バルコニーとなっている部分から声をかける形になるので、人数はかなり限られる。遠くから玲を見に来る人にはとにかく、声が届かずとも聖女が真摯に国民を想っている事を伝える必要があった。この衣装なら、その役目を果たせる。


「ありがとうございますっ。……あの、アオバは……」


 激励の言葉が欲しくて優しい少年の名を上げると、リコルは困ったような表情を三度見するほどの美貌に浮かべて、首を横に振った。


「まだ部屋で寝ています。力の反動じゃないか、と昨晩そういった話をしたところなんですが……」


 アオバの能力の反動は睡眠か。言われてみれば確かに、出会う前から『長時間眠る事がある』と言った話は聖騎士から時折聞いてはいたが……そうか、と納得する反面、玲と違って生活基盤が整っていないアオバが何日も眠りこける事態を危惧する。これまでは宿やこの屋敷のような場所で保護されていたが、この先もそうとは限らないし、何より昏睡状態を何度も繰り返すのは、どう考えても身体的負荷が大きすぎる。


「そうでしたか……。リコルさん、一つ言っておきたい事が」

「はい?」

「できれば、なのですが……アオバにあまり力を使わせないように、見張って貰えないでしょうか」


 何故、と言いたげにリコルが長い睫毛に縁取られた青い目を瞬かせた。アオバの力が便利なのは確かだ。能力の代償すら肩代わりできる程、使いようによっては世界征服どころか天変地異すらも可能だろう。本人にその気があれば話は別だが、アオバの場合はそれすらも怪しい。


「アオバの思考に、“己”を感じられないんです」


 人は行動を起こす時、少なからず損得というものを考える。善意すらも、突き詰めれば“欲”を満たす為にあるといっても過言ではない。褒められたい、認められたい、そういう欲だ。社会で生きていくための規則を守ることも、自分が損をしない為の行動だ。それが、アオバは極端に薄い。自我が無いわけでは無いが、明らかに何かが欠けているように見えた。


「このままだと本当に、他人の為に何もかもを差し出してしまいそうで、怖い」


 あまりに脆くて何度施工しても簡単に崩れてしまう穴を埋める為に、アオバはこの世界に呼ばれたのだと思う。アオバの性格を思えば可能な気すらする。だが、全ての穴を埋めるなんて無理だ。身が持たない。


「アオバのような、無条件に手を差し伸ばし続けてくれるような優しい人は、この世の中に必要だと思います。だけど、あのままではすぐに壊れてしまう。優しいだけでは、悪意無き毒に蝕まれる」


 なら強ければ良いのかというと、そうでもない。


「強さだけでは、誰かを傷つけてしまう。志だけでは、何も守れない。どれが欠けても駄目です。どうか──優しい人を歪めないであげてください」

「……分かりました。それが、私に出来る事だというのであれば、喜んで」


 少し間があって、リコルは頷いた。やや納得がいっていない様子なのが気がかりではあったが、こちらから何かを言う前に彼は、「演説、楽しみにしてます」と残して立ち去ってしまった。


 扉を閉め、また部屋に閉じこもる。貰った衣装をじっくりと眺めてから、袖を通して鏡の前に立ち、身だしなみを整える。捨てる予定だった服を元に作っているとはいえ、本人を見ずに採寸も無しでぴったりサイズの物をこしらえるガーネットの器量に感心しつつ、戸棚から木箱を引っ張り出す。この世界に来た際つけていた、イヤーカフが入っている。コスプレ衣装のアクセサリーで、四六時中つけているのが面倒でここ最近は外していたものだ。


 木箱の蓋を開ける。赤い組紐が印象的な和風デザインのイヤーカフには、女児目線ではおそらく魅力的な、大きな赤い宝石を模した安っぽいプラスチックがはめ込まれている。光の角度で表面に薄く入った無数のかすり傷が見え、何気なくそれを指先でなぞった。


「……あ」


 パキン、と音を立てて、偽物の宝石が割れた。纏う衣装についた加護と合わなかったのだろうか。


 と、同時に、扉がノックされ、顔をそちらに向けると、遠慮がちに開けられた。たった一晩傍に居なかっただけで、随分と離れていたような気がしてしまっていた青年が、緊張した面持ちで部屋に上がる。


「コーディア。……心の整理はついた、か──え、ちょ、ちょ……」


 名を呼び、できれば同じ気持ちでいてくれることを望んで体ごと向き合う。コーディアは目の前まで歩み寄って来て──距離が縮んでも歩む速度が変わらずにぐんぐんと近づいてくるのが妙に恐ろしくて、思わず後ずさった。


「貴方の本当の名前を教えていただけませんか!」

「は!? えと……れ、レイ、だけど」

「レ──」

「うおお!? 待て待て! 迂闊に呼ぶな!?」


 死人の名前を呼ぶと精霊が怒る……というのが異世界の人間である玲の名前にも適応されるのかは分からなかったが、慌てて待ったをかける。その間にもコーディアは近づいてきて、ついに背中が壁に触れるまで玲は後退を続け、このままではあわや衝突する、といったところで彼の足が止まり、傅き、彼は玲の手を取った。


「貴方が好きだ」

「考え直して!?」


 思わず声を荒げてしまった。だが、コーディアは「いいえ」と首を振る。いいえではない。そうですねと言って欲しい。


「何度も何度も、考えました。これが偽りの感情なのではと疑いました」

「疑いようなく偽りだよ」

「確かに最初はそうだったのかもしれません。ですが、貴方をただ尊きお方として仕えるには、この疚しい感情はどうしても邪魔で」

「本人を前に疚しいとかよく言えるなお前」

「今の気持ちに素直であるべきだと思って」

「いいから捨ててくれ、頼む」


 玲の手をするりと撫でて、次第に熱っぽくなりながらコーディアは言う。その触れ方があまりにも、繊細で壊れやすい大事な物への態度で、愛おしくて仕方が無いと言いたげで、恋情の熱さで浮かれる彼に反して、玲は身震いをした。全身の皮膚が鳥肌になり、背中に冷や汗が流れる。


 もはや遠き前世で、クラスメイトの女子が言っていた『好きでもない男に惚れられても気持ち悪いだけ』というあんまりな言葉の意味を、身をもって知った。気持ち悪いというより、恐怖心から逃げたくなる。


「い、いやいやいやいや! よく考えろ! 男だぞ!?」

「はい。なので私、聖女に関する文献を読み込んで、整合性を取ろうとして……気づいたんです」

「な、何を……?」

「聖女は聖騎士の母とされている説では、『生娘に触れて、聖騎士の卵エイ・サクレを授けた』と。つまり……」

「あ、待って。嫌な予感がする」

「この説の聖女は、女性と見紛う男性だったのではないか、と」


 捕まっていない方の手で、顔を覆う。説を呼んだ時、玲も違和感を抱いた部分だ。聖騎士の母なんて呼ばれているから、てっきりその聖女が産んだ子が聖騎士の卵エイ・サクレだったのかと思っていたが、この説では授けているのだ。ただ、聖女には様々な力が宿っているようだったから、理屈不要の不思議な力によって授ける事が出来たのだろうと思い込んでいた。……まさかトンチキな聖女伝説(その中でも派手で一番有名な説)に身の危険をさらされようとは、誰が思おうか。


「男でも女でも、聖女と名乗って良いのです。私のこの気持ちは、貴方が男であろうと女であろうと、聖女でなくとも、変わりません」


 頭を抱える玲を見上げて、コーディアは真剣な表情で言う。


「貴方が逃げたいと願うなら、止めません。聖女であるというのなら、支え続けます。だから──私を、傍に置いてください」

「……。……それは、嘘でしょ?」


 視線を逸らした彼の手から、動揺が伝わる。三年間、ほとんど常時共に居たのだから、さすがに分かる。


「疚しい感情募らせるような相手に、傍に居るだけでいいなんて嘘だろ。……いや、お前の気持ちには応えられないけどさ、本音を言うだけなら別に止めないし……そこは、嘘つかなくてもいいんじゃないの」


 気持ちには応えられないけどな。と念押しをして、ゆっくりとその手から逃れる。強引にはいかないところは、父親譲りだろうか。握っていた手も、振りほどけない強さではなかった。拒否されればすぐに放せるような力加減だった。


「ケルダにも話したけど、私は死人だ。お前の気持ちには応えられない。だけど、お前を一人の人として支えたいんだよ。恋愛感情とかじゃなくて、指標になりたいっていうか……置いて行ったりは、しないからさ。それが不安だったんだろ?」


 星詠みの力が無いコーディアにとって、聖女を呼んだ事は唯一の功績だ。その証拠である聖女に見捨てられたら、彼はきっと、かつての玲など比べ物にならない程に壊れてしまうだろう。それだけは避けたい。


 不安を解消しようと言葉を紡ごうとしたその時、扉が叩かれた。


「聖女様、そろそろお時間です」

「は、はーい。ごめん、コーディア。後でもう一回話そう」


 扉越しの星詠みの誰かの声に反応し、玲はコーディアの脇を抜けて、原稿を取る。結局、あまり覚えられなかった。


「レイ」


 鼻にかかった低い声に振り返る。柔らかな日差しを背にした情けない顔をした──力ずくでも手に入れてしまいたくなる美しいものを前にして、理性を手離さなかった──美しい人が手を伸ばし、いとも簡単に彼の腕の中に納まってしまった。やろうと思えばいつだって触れられたはずなのに、思い返してみれば、コーディアが玲に触れるのは、いつだって守る時だけだった。その腕の力すら、すぐに振りほどけそうなほど弱々しい。


「……離せよ。穢れるぞ」

「好きだ」


 こうまでストレートに好意を伝えられたのは初めてだった。男でなければ尚良かった。


「気味悪がらないで、傍にいさせてほしい。貴方が、聖女であってもそうでなくても、私にとっては尊き人だから……──というか正直今の砕けた言葉遣いに少し興奮してしまっている自分がいる。あとできれば気持ちに応えて欲しいし、好きだと言って欲しいし、愛し愛される関係になって、貴方の全てを私のものにしたいし、私の全てを貴方のものにしたいと思ってます」

「要求が多い上に若干気持ち悪いな?」


 悪寒を走らせながら思わずつっこみ、おかしくなって笑った。あんなに周囲に気を遣って肩身を狭そうにしていた男が、己の欲棒を臆せず口にするのは中々不思議な光景だ。まあ、言うだけならタダだ。


 胸板を軽く押し返すだけで、彼はあっさりと距離を取った。情けない顔のコーディアの頭を乱暴に撫でて、扉に向かう。それから扉の取っ手に手をかけて、突っ立ったままのコーディアをちらりと見やる。


「ほら、行くぞコーディア。傍に居てくれるんだろ」

「! はい!」


 扉を開ける。コーディアがついてくる。一人でいるより、やはり心強い。わずかな居心地の良さに頬が緩み──肩に触れた彼の手を、素早く振り払った。


「さっきのは許すが、今後許可なく触ったら嫌いになるからね」

「今は嫌われていないという解釈でよろしいですか?」

「ここまで前向きであるということに腹が立った事はないかもしれない」


 思ってた関係とは違うけれど、今はとりあえず、これでいいかと区切りをつけた。


***

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