◇ 09

 話ってなあに。そう言いたげに、ケルダは首を傾げた。小さな子に話を聞き出そうとする母のような、決して無理強いはしない、こちらから話すのを期待している、優し気な雰囲気だ。


「……貴方に、返してほしいと」


 ぐだぐだと前置きをするのはやめて、単刀直入に宝石を差し出した。窓から差し込む赤い日差しに照らされた、緑の澄んだ宝石をじっと見つめて、ケルダはおそるおそる手を伸ばす。おっかなびっくりといった様子で指先で触れて、感触を確かめるように撫でた後、ようやく摘まむようにして手に取った。


 手の平の上で転がしてみて、自身の左手首の刺青と同じ花の模様をなぞる。看取った精霊の気遣いか、彼の刺青をただ真似て入れただけなのか──いずれにしても、その婚姻の証をじっくりと確認したケルダは、静かに宝石を手で包み込み、閉眼して背を丸め、その手をそっと額に当てた。


 この世界では、婚姻の証として刺青を彫る。互いに支え合う事を誓って彫り、離婚や死別後も、刺青が消えるまでは新たに婚姻は出来ない。そういう風習だそうだ。死者の名を呼べない以上、どちらかに何かがあったとき、刺青のある部位を伝えて本人確認を取ったりするのだろう。


 全く同じ理由で、兄弟は同じアクセサリーを身に着ける。精霊やフラン・シュラといった死因があちこちに転がっているこの世界では、孤児も少なくない。引き取られて里子となり、似ていない親子や兄弟なんて当たり前に存在する。そこから推察するに、おそらくだが、アオバとペルルは同じ耳飾りをつけているので、血の繋がらない兄妹だと周囲に思われているはずだ。


「……ありがとう」


 呟くような声量のケルダの声で、少し飛んでいた意識を戻す。


「誰から、預かってきたの」

「デックです。ずっと返さなきゃって……そう思っていたそうです」

「そう……」


 ゆっくりと姿勢を正し、ケルダが顔を上げる。僅かに目は潤んでいたものの、どこか涼し気な表情で彼女は笑った。


「よく返してくれたわねぇ……こんなにも美しいもの、一度手に入れたら手離せないでしょうに」


 ──ケルダさん、何度も言ってたんです。『私は綺麗じゃない』って。


(アオバは多分、ちょっと勘違いしてる)


 彼の言い分では、ケルダは己の醜さを理解し、『綺麗じゃない』という評価を下したと思っている。だけど、そうではないのだ。


「美しい人でしたか、“彼”は」

「ええ、とっても」


 嬉しそうに、宝石を傷つけないように丁寧に大事にぎゅっと握って、ケルダは玲の質問に返答した。


 そもそもケルダは、自分自身を『美しい』と思っていない。醜悪だとも考えてはいない。玲が、玲自身をそうは言えないように。アオバが、アオバ自身を優しい人間だと思わないように。どこまでいっても、『自分はただの人』なのだ。


 どれだけ精巧に描いても、心を打つ言葉を語っても、悪と戦い正義が勝っても、それらの美しさと、自分自身を天秤にはかけないし、かけられない。比較する土俵が違う。


「昔ね。彼に、『どこか遠いところに逃げてしまおうか』って、言われたことがあるのよ。私、頷けなかったの。私にとっては、このお屋敷が、星詠みであることや、聖女であることが、“私”の存在証明だったから……それを失うのが、怖くて」


 ケルダにとって“彼”は、物語の登場人物のような、遠い存在だった。どこか現実味が無くて、理想を詰め込んだような、美しい人だった。


 コーディアにとってのセイラと、同じだ。反応までそっくりだとは、さすがは親子と言うべきか。


 彼女は片手で膝をさすって、語る。


「生まれた時からずーっと、足が悪くてねぇ……馬鹿にされたくなくって、自分の才能とやらに縋りついてなきゃ、保てなかったのよ、色々と。最初に彼と会った時は、『嗚呼、不味いなぁ』って思ったわ。だって、私なんかよりずっと、皆が望む聖女みたいな人だったんだもの」


 ちらりと、ほほ笑んでいるように見える細い目が玲を見る。セイラを演じる玲のような──人の優しさを信じ、誰に対しても分け隔てなく手を差し伸べ、駆け付ける──そんな人だったのだろう。


「怖かったのよ。このままじゃ、私の存在意義が無くなってしまう気がして……そういう雰囲気って、口にしなくても周囲は察してしまうものなのよね。私を慕う人たちは、ちょっとずつ彼にアタリが強くなっていったわ。だから自分に都合が良いように考えた。心から他人の為だけに全てを捧げるような人なんて、いるわけがないのだから、いつかボロが出るはずだって」


 優しい良い人を演じていると思った。ケルダの付け足しに、以前の玲なら同調していただろう。同じように聖女を演じていたからこそ、そう思ってしまう。


『意地悪をしているわけじゃないのよ』

『知ってるよ』


 狭まった視野では、物事は歪んで見えてしまう。口をついた言い訳にどれだけ優しい言葉で返されても、鮮麗に装っているだけで己の事しか考えていないのだと考えてしまうだけだった。


「ある時、杖を落としたのよ。私にとっては足同然、体の一部……でも誰も拾ってくれなかった。拾って届けたって、“お告げ”に影響があるわけでもないし、利が無いもの。当然よね」


 ただの人の聖女の価値なんて、その程度だったのよ。そう付け足して、「でも」と、ケルダは続けた。


「彼は気づいて、拾ってくれた。それどころか、『すぐに気づかなくてごめんね』なんて、謝るのよ。びっくりしたわ。だって、彼が謝る必要なんてどこにも無いじゃない? 変わった人ねって、思わず言ってしまったぐらいよ」


 思い出し笑いをしながら、ケルダは宝石を指先で摘まんで、角度を何度も変えて眺めた。正面に座る玲よりも、彼の目を見て話しているようだった。


「何度となく話して、一緒に仕事をして、彼を取り巻く精霊たちの気配の柔らかさを知って……ああ、私とは違う世界で生きているんだこの人、って。本当に、綺麗な物しか見えてないのねって、そう思ったら……羨ましくて──手を伸ばしてしまったのよ」


 美しいものには触れたくなる。自分の物にするために、違う世界にいるソレをこちら側に引きずり込みたくなる衝動は、『ただの人』である以上、ケルダにもあった。困った事に美しい人はそれを拒まないから、手に入ってしまったのだ。


 宝石を日差しに透かせて、ケルダはどこかを覗き込む。


「彼と一緒に見た景色は、何もかもが美しく見えた。彼が見る世界をほんの少しだけでも、私も見れたような気がしたわ。……だけどやっぱり駄目ね、汚れた手で触ったら汚れてしまうなんて、分かりきった事だったのに」

「……逃げようって、そう言ったって事は」

「そう。私が彼の世界を見たように、彼は私がいるどうしようもないぐらいに汚れた世界を見てしまった」


 見えないままだったとして、何か変わっただろうか。汚れた心では、何も変わらなかっただろう、という答え以外は見つからない。


「『逃げよう』って言われて、私は断った。何度か説得されたけれど、断ってしまったの。優しい彼は、強引に私を連れ出すなんて事は出来なかった。その内、私は妊娠していることに気づいた」


 デックが彼の願いを断ったのも、おそらくはこの辺りだろう。彼は優しすぎた。


「その日は……静かだったわ。聖騎士たちは当時の隊長、ラドーの家族の葬儀に出ていて、星詠みしかいない日だった」


 ついに“その日”が来てしまった。デックからの証言では、何も分からなかった部分だ。


「悪阻が酷くて、私は寝込んでいた。陣痛もしていたし、もしかして、予定より早く生まれるんじゃないかと思って、“お告げ”を頼って──玄関で精霊たちが戸惑っているような気配を感じた。星詠み同士で喧嘩があると、この屋敷の精霊はよくこういう気配を出すから、ああ、誰か喧嘩しそうなのねって……」

「どの段階で、彼だって分かったんですか」

「彼に懐いていた精霊が、一斉に屋敷から出て行った時……かしら」


 九割に近い、あるいは超える、的中率を誇る自らの“お告げ”に、どれ程絶望しただろうか。


「急いで部屋を出たわ……といっても、この足じゃあねぇ。咄嗟だったから杖を忘れていて、転んじゃって……陣痛が酷くなって、動けなくなってしまって。なのにずーっと、ずーっと、“お告げ”は続いていて……」


 宝石を手の平の上で転がして、包んで見たり、手を開いてみたりとしながら彼女はおっとりとした調子で言う。


「──急にね、“お告げ”が分からなくなったのよ。垂らした釣り竿から、餌だけ取られてしまったような……手ごたえが無くなって、精霊たちの気配が曖昧になった。……不思議な感覚だった。私、びっくりしちゃって、物音を聞いて私のところに来た星詠みに言ったのよ。『彼が大変だわ』って。そうしたらね、精霊たちが怒り出しちゃって」


 伏せてはいるが、当時はおそらく彼の名前を呼んだのだろう。自嘲気味に、彼女は続けた。


「誰だったかしらね、その時私の目の前にいた星詠みは。その子がねぇ、こう言ったの。『死人の名を口にしてはいけません』って」


 くつくつと、声を押し込めたように笑ったケルダの目から、一粒だけ涙が零れた。談笑中に不意に零れたような、熱すら感じさせないそれは、もの悲しさなど何一つ感じさせない。怒りも憎しみも抱かず、心配事など皆無なのだと、身も心も削って表明しているようだった。


「私が育てた毒が、彼を殺したのよ。聖女を必要とするように猛毒に育てておいて、忘れて、無自覚にも彼の足元にばら撒き続けて……怪物の最期みたいに、殺してしまった」


 否。ケルダは表明し続けているのだ。彼女は未だに、『聖女』という役から抜け出せないままだ。ただの人である部分は誰にも見せず、隠して、見つけてくれた人は排除されて、聖女の役は横から現れた玲に取られてしまった。それでもまだ、その役が抜けきれない。鮮麗な聖女を装い続けていた。


 何度、その足を恨んだだろうか。彼の言葉に頷けなかった自分を呪っただろうか。聖女なんて言葉だけの誇りが、今も捨てられないままの彼女は言う。


「辞めて良いのよ、セイラ──ああ、本当の名前では無いのだったかしら」

「……報告はもう、されてたんですね」

「さっき、ビッカーピスから聞いたわ。三年も耐えてくれて、ありがとう。でもそろそろ、辛いでしょう? 何の力も持たない貴方では、聖女の名は重すぎる」


 そんなことは……と言いかけた玲だったが、ケルダに「息子の事もあるし」と間髪入れずに言われると、口ごもってしまう。一番気にしている所を突かれてしまった。


「自分がいなくなったら、また私が聖女を演じなくちゃいけないって思っているのでしょう? 気にしないで。寧ろ、貴方がコーディアを連れて逃げてくれたら、私はもう失うものなんて無いのよ」


 思い通り動かなかったレイに、ケルダは袖口で涙をぬぐいながら嫌味でちくりと刺した。脇腹を刃物で抉られる事に比べれば痛くもない。


 ケルダの懸念は御尤もだ。実際、聖女の名は重い。軽々しくは名乗れない。分かりやすく人間離れした能力を持つアオバを御使いということにして、連れ出して貰うのが一番安全かつ簡単な脱出方法であるのも事実だ。その際コーディアも一緒であれば、彼も生きてこの屋敷から逃げられる。


 二番手にあがる方法は、フラン・シュラ化した聖女をそのまま討伐し、亡き者にしてしまう事。死ねば柵から放たれる……物騒ではあるが、まあ分からなくもない。コーディアは聖女まがいを呼んだ事を理由に追放刑を科し、屋敷から逃がす。この場合、コーディアの身の安全はあまり保証されない。──それでも、ケルダはそのどちらも視野に入れて動いていた。


 玲は静かに首を振った。


「何の力も持たない私に聖女の役は荷が重いというのなら、にも重いはずです、ケルダ」

「……」


 目を伏せたケルダを見据えて、言う。


 ケルダ=レッシンルィクに、星詠みの力はもう無い。先ほどの話で確信した。コーディアを産む少し前、愛する彼が死んだその時に、彼女の力は消えてしまっている。子であるコーディアに継承されてケルダから消えてしまったのか、今も彼女の中にあるが発揮できないだけなのか、それは分からないが、もう随分と長く、その聖女と呼ばれるに相応しい力は使われていないはずだ。


「貴方と私は今、対等な立場にあるはずでしょう。経験と勘だけでは、この先貴方は聖女ではいられない」


 だから、と続きそうだった言葉は、目の前のほほ笑んでいるような細い目が持ち上がった事で気圧され、一瞬怯んだ。ただの玲が怯えてしまったが、三年間で培われたセイラである玲が声を振り絞る。


「私は死人です。暗喩ではなく、言葉通りの意味で」


 何を言ったところで、ケルダは玲を子供扱いするだろう。三年という月日が、元いた世界でもこの世界でも成人と呼べる年齢に達しているという事実をもってしても、ケルダは玲の前に立ち続けてしまう。それでは駄目だ。だから、死人をこの世に無いものとして扱うこの世界において、禁忌とされる単語を使う。


「私が聖女と呼ばれた時から、その役は穢れたのです。今を生きる貴方には似合わない」


 変われなかった。もう変わる事は無いと思っていた。でも、変えてくれる人がいた。その“役”は、誰にでも与えられているはずだ。嫌われたって構わない。そうすることで玲や星詠みから離れ、聖女を辞めてくれるならそれでいい。


「美しい人。私に貴方を汚させないで」


 赤い日差しが差し込む部屋で、ケルダはゆっくりと息を吐いた。それからくすりと笑い、『気に障ったらごめんなさいね』と言わんばかりに手をひらひらとさせて、懐かしむように宝石を手の平の上で転がし、穏やかな表情で言う


「ずるい言い方ね」

「……ごめんなさい」

「そういうところよ。ねぇ、──?」

「!」


 不意を打たれて目を丸くする玲を、彼女は悪戯っぽくほほ笑みながら見つめていた。

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