◇ 08

***


「──『彼女を連れて逃げて欲しい』……そう言われた時、私は断ったんです。だって、彼女は聖女でしたから、この国に必要だと思ったんです」


 どこか遠くから聞こえたフィル・デ=フォルトの即興語りを聞き終えてから、デックはポツリと呟いた。赤い毛並みの獣耳をぺたりと下げて、千切れてしまった荷の肩紐を指に絡めながら、彼女は俯いたまま懺悔する。


「私自身、ケルダ様にはお世話になりました。今の職に就いたのも、彼女の“お告げ”あってこそ……天職に巡り合わせてくださった彼女の力を、私だけが独占するわけにはいかない。もっと多くの人が、彼女の力を頼って、幸せになるべきだって……そう思って」


 先ほど渡された、花の刻印が刻まれた緑の宝石を手の平に乗せて、玲は黙って見つめた。これが生まれた経緯を思えば、不気味な物だと分かっているのに、恐ろしさよりも美しさが勝つ。彼女が語る過去の出来事が耳を素通りしてしまいそうなほどの魅惑に、打ち勝とうと手で包み込んで隠した。


 沈黙を貫いて、聞く。二十数年前の出来事。ケルダに側役がいた頃の話。コーディアが生まれる前の、話だ。


 “彼”──コーディアの父親は、優秀な星詠みだったと、デックは言う。星詠みの力もだが、人として魅力的な人物だった。だからこそ、当時聖女だったケルダの側役である彼を、良しとしない人も多かった。聖女が誑かされるのではないか……純粋な心配と、嫉妬、利権争い、数えきれない意図を含んだ言葉を、もはや信仰など無い星詠みたちの口から零れていた。


「中途半端だったんです、私。ケルダ様の事を聖女様だって……特別な力を持った、特別な人なんだって思ってた。一人の人として扱わなかったくせに、一人の人として幸せにもなって欲しかった。彼とケルダ様の仲に気づいていて、止めなかったんです」


 周りが気づいたら、酷い事になるって薄々勘づいていたのに。小さな声がぽつりと言う。


「思えば彼が『逃げて欲しい』と言った時点でもう、彼女が妊娠していたのでしょう。私はそれからしばらく、別の地域で仕事をしていて、彼女のお腹が膨れていく様を見てはいませんでした。彼女が臨月の頃、久しぶりに屋敷を訪れたんです」


 なんて間の悪い。ちらりと脳裏を過った言葉を、声に出してしまわぬよう飲み込んだ。この後の展開は、大方予想がつく。「その日は、いつも使う裏門が開いていませんでした」と、デックは続けた。


「ただ開け忘れただけだろうと思ってしばらく待ってみましたが、ざわめきは聞こえるのに、こっちに来る気配が無くって……私、柵を乗り越えて敷地内に入ったんです。顔見知りだし、大らかな人たちばっかりだし、後で謝ればいいやって思って」


 千切れた紐を絡めていた彼女の指の動きが止まる。瞼の裏にその光景が浮き出ないよう、閉眼しそうな目を薄く開けて、彼女は現実の世界をなんとか視界に入れて食いしばる。


「玄関に人が集まって、囲んで、何かしてたから、声をかけたんです。……床が、汚れていたような気がしました。星詠みたちの衣服が、汚れていたような気がしました。でも、すぐにそこから引き離されてしまったので、よく分からないままです」


 外に聞こえてしまわないか心配したのか、デックは「気のせいかも」と少し言い繕った。


「……ケルダは、どうしていたの」

「分かりません。そのすぐ後に屋敷の中が慌ただしくなって、コーディア様がお生まれになりましたから、分娩室にいたのだと、思います」

「聖騎士は」


 デックは首を振って、眉尻を下げた。


「少し前に、ラドー様の妻が亡くなられていたので……葬儀に……」

「そっか……」


 誰も彼も間が悪い。星詠みだけが、都合の良い機会だった。手の中にある石を指でなぞる。ケルダの左手首に刻まれた刺青と同じ模様を描く凹凸が、指先をざりざりと撫でる。


「……私は、何も見ていません。でも、確信があった。彼を探して、星詠みが隠しそうな場所を巡りました。何年もかかって、ようやく見つけたのがソレでした」


 デックの視線が、玲の手元に向けられる。


 宝石。美しい色をした石を、加工したもの。もっとも、元いた世界のそれとは成り方が異なる。──これは死人の目だ。


(精霊に看取られた証……)


 人間の目というのは聖騎士などを見れば明らかだが、特に精霊の影響が出やすく、おそらくは精霊にとって最も加工しやすい材質なのだ。どこにでもいる精霊たちは、目の前で亡くなった人間の目を加工し、看取った証とする。それらはその美しさ故に、人間にとって金銭的価値を持つ。故に、墓荒らしなどが起きないように、墓守はそれらを埋葬の際に取り除き、家族に渡す。この先は人によるが、亡くなった人の代わりに見立てたり、売って家計の足しにしたり、更に加工を施してお守りなどにするそうだ。


 しかし“彼”には家族がいなかった。


「落ちていたんです。遺跡の裏手に」


 思わず頭を抱える。二十数年前から在籍する星詠みなんて、七割を超えるというのに、ほぼ全員がこれに関わっているなんて、できれば知りたくない事実だった。第三者でありながらそれを抱え隠してきたデックの辛さなんてものは、想像すらできない。


 つまるところ、排除された“彼”は、あの遺跡──聖女召喚の儀を行った場所の──裏の崖から突き落とされて処分されたのだ。無慈悲な事に、人間同士の諍いなんて止める気も無い精霊は、看取った証をそこに残し、デックがそれを見つけた。


(あそこは道が整備されきっていないし、足の悪いケルダは行かないもんなぁ……聖女召喚の儀の時もいなかったし、基本的に星詠み以外は入らない聖域だし……)


 あまりに都合の良い、証拠隠滅にはもってこいの場所だ。澄んだ緑色の宝石を手の平の上で転がして、ため息を吐く。


「よく……見つけてくれたね」


 間が空いた。静寂に包まれる部屋の中で、蚊が鳴くような小さな声で、デックは謝罪した。


「ごめんなさい……私……」

「謝らないで。見つけてくれただけでも、十分──」

「違うんです。私が、それを見つけたのはずっと前で……もっと早くに渡すべきだったのに、私は……」


 乱れかけた呼吸を浅く吐いて、彼女は項垂れたまま続けた。


「それが、あんまりも綺麗だから……手離せなくなってしまったんです」


 悪いと思っていた。すぐ返さねばと焦っていた。だけどどうしても手離せなくて、ケルダと距離を取ってしまった。そうこうしている間にも月日は流れ、言い出し辛くなってしまった……。そうぽつりぽつりと続いた言葉に、玲は小さな声で頷いた。


 気持ちは分かる。今手元にある、見ないようにしているソレを見た瞬間に、直感的に理解した。目を奪われるというのを、体感した。


 澄んだ緑の宝石は、いつまでも見続けられる何かを持っていた。玲がラピエルに無理やり与えられた仮初めの魅了とは違う、本物の魅了の力だ。自分の物にして、飾って眺めて、優越感に浸りたくなる。他の誰かに渡してしまうなんて考えられない。そんな事をするぐらいなら、いっそ壊してでも、自分の物にしたい……。庇護欲も独占欲もごちゃまぜになった加害的な愛憎が、精神の奥底から引きずり出されるような感覚に、気づいた瞬間ぞっとした。


(ケルダが危惧しているのは、こういうこと、なんだよな……)


 宝石でさえこれなのだ。その対象が人間になったら、どんな目に遭うか分からない。ケルダに至っては、かつてはその対象だった。知っていたからこそ、他人の悪意に敏感になった彼女は恐れていた。


 玲ではなく、子であるコーディアを、心配していた。


 コーディアが、両親の持つ美しさをどのように継承し、開花させるか分からなかったからだ。後は概ね、アオバの推察通りだろう。玲を刺したのは玲に対する純粋な心配から来た行動だ。だが、周囲の悪意を感じ取ったケルダは、玲を使ってコーディアを守らせた。見知らぬ未成年と、とっくに成人している自らの子とを天秤にかけ、自身の子を取った。


 聖女であるセイラこそこの世の何より美しいものであると、民衆の目をコーディアからセイラに誘導し、息子を目の届く範囲に置いて守り続けていた。


 ──本当に困っている人のところには向かえない。


 何かが起きた時、おそらくケルダは駆け付けられない。高い的中率を誇る“お告げ”も、かつて聖女だったという称号も、高次官という地位すらも、今の彼女にとっては全て意味の無いものだ。


「……これを、あの人に返していい?」


 宝石を両手で握り締めて、デックに問いかける。


 こちらを見ないようにして、彼女は頷き、言った。


「お願いします。私、もうこのお屋敷には近づきませんから……もう二度と、ここには来ないと誓います。ケルダ様にどうか、お返しください」


 これが、デックが身の危険を覚えながらもこの近辺に居残り続けた理由だったのかと、ようやく腑に落ちた。ラピエルとラバ族を安直にも結び付けた噂が出た時点で、引き際を弁えている彼女ならとっくに引いているはずだ。それでも残り続けていた。今故郷に帰ったら、返せなくなってしまう……たったそれだけの、本人にとってはあまりに大きな後悔を残さない為に。


「貴方から直接渡さなくていいの?」

「はい……その……」


 口ごもった彼女の言葉の続きを根気強く待つと、少しして、デックは手をぎゅっと握って言った。


「怖いん、です。ケルダ様の事が……分からなくて。どうしてまだ、星詠みを続けておられるのか……あんなことがあったのに……」


 辞めたって誰も咎めないはずでしょう。そう続いた言葉に、反論しそうになって、飲み込んだ。普通に考えれば、愛する人が職場の同僚たちに殺されるなんて出来事が起きたら、そこから距離を取るはずだ。玲にだってそれぐらい理解できるし、生前であれば間違いなくデックと同意見を述べている。聖女となった今だから、違う、と言えるだけだ。


 逃げられないのだ。聖女と名乗る事には、責任が生まれる。国民にとっての希望であると自覚しなければならない。多くの人間にとっての信仰対象であり、救いの道を示し、先導していかなければならない。政治から見れば外交の為の駒であり、他国から見れば一国の代表に等しい存在でもある。歳がどうだとか、その人の心どうかなど関係ない。望んで聖女になったかどうかすら、傍から見ればどうだっていい。聖女である以上、それらが求められ、それらに応える義務が発生する。


 だから、聖女をただの人として見た時、己の心すら砕き、身を削ってそれらを全うする姿は異常に映ってしまう。それが、『怖い人』という印象の正体だ。


「大丈夫だよ。彼女はただの、優しい人」


 理解できない不安を少しでも払拭しようと、玲は笑顔で答えた。


「私はいつだって、彼女に救われてきたもの」


 ケルダは未だに、聖女の一端を担ってくれている。セイラが完全な聖女にならないようにしてくれている。それを知ったから、玲もケルダをかつて聖女だった星詠みとして扱い続けたのだ。


「だから落ち着いたら、また遊びに来て。ケルダもきっと喜ぶよ」

「いいんでしょうか……私……」

「私は大歓迎っ」


 にっこり笑って、欲しい言葉をあげる。三年も聖女を名乗り続けていても、相手の反応を見ないとそれが正解かどうか分からない。今回は──ちらりと相手の様子を窺って、不安が少し晴れたその顔色から正解だと確信する。


 届けてくるね。と告げて、席を立つ。


 部屋を出て、周囲の音を聞く。見渡して、人がいない事を確認する。精霊の気配酔いを起こして体調不良の者ばかりとはいえ、今の会話を聞いてデックに危害が及んでは意味が無い。念のために人払いも済ませておいて良かった。


 手で包んで持つ宝石を目にしないようにしながら、やや早歩きになる。ケルダの居場所の検討は大方ついている。長距離異動が困難な彼女の行動範囲は限られている。


(さっき演説は降りろって言われたばっかりだし……正直気は重いけど)


 目星をつけていた部屋の前に立ち、深呼吸をする。第四応接間。来客のある無しに関わらず、大抵彼女はここにいる。扉越しに聞こえる数人の話声の中に、ケルダの声がある。ここで間違いないはずだ。


 意を決して扉を叩く。名乗る前に扉が開けられ、正面の椅子に座っていたケルダと目が合う。彼女は驚きもせず、玲の手元に視線をやると、口元に笑みを浮かべた。


 まるで、こうなる事を全て知っていたみたいだ。さすがに勘が冴えている。今も尚星詠みであり続けているだけある。


「ケルダ高次官。話があります」

「ええ、分かっているわ。そういうことだから、ごめんなさいね、可愛いアティ?」


 席を外してくれる? という意図が含まれた、どこか笑いをこらえたケルダの口調に、彼女と向き合って座っていた少年は顔を引きつらせながら席を立った。


「この歳になって、貴方にそう呼ばれると鳥肌が立つ」

「貴方がそう名乗っているからでしょう? 私は好きよ、愛らしくて」

「世辞は結構だ」


 ふんと、鼻を鳴らしてそっぽ向き、彼はビッカーピスから己の武器である身長を程の大剣を受け取ると、すれ違うようにして部屋を出て行った。


「ビッカーピスも。部屋の外で待機してくれる? 人を近づけさせないでほしいの」

「かしこまりました」


 ケルダのお願いをすんなり受け入れて、彼女もまた部屋を出た。どう切り出そうかと、二人っきりの静かな部屋の中で少しだけ迷っていると、ケルダはこちらに手招きをした。


「そちらに座って」

「……はい」


 招いた手をひっくり返して、対面のソファを指される。素直に座り、宝石を包んだままの手を膝の上に重ねた。

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