☆ 貧弱アニュー③

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 娘に呼び出されたアニューでしたが、中々会いに行けませんでした。

 怖かったのです。

 優しい娘が、醜く愚かに見えてしまうような気がしていたのです。


 たくさんの時間をかけて、アニューは久しぶりに娘に会いました。

 娘は遅くなった事を責めず、優しく迎え入れてくれました。


 娘は何も変わっていませんでした。

 変わったのは、アニューの方でした。

 変わらない優しさを持ち続ける娘を前にして、アニューは恥ずかしくて、娘の前に立っていられませんでした。


 娘が笑顔の裏で、必死になって傷を隠し、癒えるのを待っていた間、アニューは何をしていたのでしょうか。

 騎士の青年が人々を守り、昇進しても尚実直さを失わないでいた間、アニューは何をしていたのでしょうか。


 己を磨くことを辞め、言葉の呪いと戦う事すらしなかったアニューは、今すぐ帰りたくなりました。

 だから、用事を早く済ませてしまおうと思いました。


「頼み事って何だい?」

「私と一緒に、逃げてくれない?」

「……どうして?」


 娘の言葉の意味が分からず、アニューは聞き返します。


「だって君には、騎士の青年がいるじゃないか。彼を放って、僕なんかと逃げる? 意味が分からないよ」

「貴方にしか頼めないの」

「違う。彼と相談はしたのか? 逃げるなら、彼と一緒の方がいい」


 だって、アニューには力がありません。

 娘を守る力が無いのです。

 アニューには知恵がありません。

 娘の頼りになれないのです。

 アニューには……


 アニューには、娘を連れて逃げる勇気が、

 責任感が、

 度胸が、

 何もかもが、ありません。

 アニューでは駄目なのです。


 なのに、娘は言いました。


「貴方以外には頼めない」

「僕にはできない」


 アニューはその場から、逃げ出してしまいました。

 娘の泣きそうな顔から、逃げてしまいました。


 それから、何日か過ぎました。


 いつ、騎士の青年が怒ってやってくるかと怯えていましたが、青年が来ることはありませんでした。


 相も変わらず、アニューは空笑いをする日々を送っていました。


 大事にしていた物を奪われても、

 目の前で壊されても、

 小突かれても、

 泥だらけにされても、

 笑っていました。


 その内に、娘の子の噂を聞きました。


 騎士の青年にも、娘にも似ない子だ、と。

 それでも、青年は自分の子だと主張している、と。

 だから、青年の居ぬ明後日に、皆で確かめるのだ、と。


 アニューは再び娘に呼ばれました。

 今度もまた、時間をかけて会いに行きました。

 娘はやっぱり、怒りませんでした。


「よかった。間に合った」


 そう言って、安心したように笑っていました。


 そして、まだ柔い赤子を差し出しました。

 みんなの噂通り、娘にも青年にも似ていません。

 娘は言いました。


「この子を連れて、逃げてほしいの」

「……」

「きっともう、噂になっているでしょう」

「……」

「アニュー?」


 聞きたい事はたくさんあったのに、アニューは声が出ませんでした。


「君が逃げたかったのは、この子がいたから?」

「そうよ」

「なら、君が悪いんじゃない。ちゃんと説明して、君に酷い事をした奴らを捕まえてもらおうよ。逃げる必要なんて無いんだ」

「そうね。でも、そうしたらこの子はどうなるの?」

「どうって……」

「ねえアニュー。この子を抱いてみて」


 言われるがまま、アニューは赤子を抱き上げました。


「暖かいでしょう? 薄くて、柔らかいでしょう?」

「……うん」

「そこに罪はあるのかしら」


 娘は真摯に、アニューに言いました。


「この子は、罪なき子よ。裁かれるのは私だけでいい」

「…………」

「アニュー。貴方にしか頼めないの」

「それなら、君も一緒に……」

「大丈夫。私には彼がいるもの」

「でも」

「大丈夫。いい、アニュー? 手紙を書いては駄目よ。この子に私の事を教えるのも駄目。貴方は遠い場所で、この子の親になるの。この子を守ってあげてね」


 娘は柔らかい布で子を包み、アニューと共に送り出しました。


 アニューは何も考えられなくて、ただただ娘に言われるがまま、子を連れて遠い場所に向かう事にしました。


「おや、アニュー。お出かけかい?」


 大きな荷物を持ったアニューを、教会の主が呼び止めました。

 アニューは頷きます。


「遠くに行くんだ」

「そうか。迷子にならんようにな」

「……ねえ聖職者様。親になるって、どういうこと?」


 眠る赤子を隠しながら抱きしめて、アニューは尋ねました。


「そりゃあ、子を守るって事さ。どんなことがあってもね」

「そっか。分かった」


 アニューは遠くへ行きました。


 知りもしない『親』の役目をこなしました。

 娘が言う通りにすれば間違いないのです。

 この子を罪なき子として、守り続けるしかありません。


 だけど娘の事が気になりました。

 娘は無事でしょうか?


 アニューは知恵を絞り、旅商人を頼り、騎士の青年に近況を尋ねました。

 今どこにいるのかと、怒られるかもしれませんでした。

 何事も無かったと、大げさな奴だと嗤われるかもしれませんでした。


 数日後、返って来たのは、


『ごめん』


 それだけでした。


 そこに、アニューを責める言葉はありませんでした。

 アニューを宥める事も、心配する言葉もありませんでした。


 優しさを、アニューたちは失ってしまいました。


 遅かったのです。

 娘が『私を連れて逃げて』と言った時、逃げたりしなければ。

 もっと早く会いに行っていれば。

 無理やりにでも娘を連れ出していれば。

 何もかも遅かったのです。


 アニューは、いつものように笑えませんでした。

 娘から預かった子を抱きしめて、心から泣きました。


 泣きながら、誓いました。

 この子は罪なき子として育てようと。

 誰よりも幸せになってもらおうと。

 娘の分まで、青年の分まで、アニューの分まで、幸せにしようと、誓いました。


 嗚呼、可哀想なアニュー!

 優しさを失ったアニューに、誓いを守る事はできるのでしょうか!


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