◇ 04
アオバが眠り落ちてからずっと、セイラが喋らない。部屋に閉じこもり、顔も見せないようになってしまった──それを当初は、“黒い霧”に襲われた衝撃が凄まじかったのだろうと、ビッカーピスを含めた周囲の人間たちは考えていた。
しかし、側役のコーディアが異常に気付いた。三年前の、聖女降臨直後と同じ状態なのではないか、と。
「あの時は声を出せるようになるまで一か月程かかりました。ですが、できれば今すぐにも、お声を戻していただきたいのです」
「どうしてでしょうか……?」
「国民に、聖女として語り掛けねばなりません。フラン・シュラも、“黒い霧”も、あの壁も、何も恐れる事は無い、と」
じっと、ビッカーピスを見つめる。やると言った以上、治す事は構わない。だが、セイラに無理強いをして、多くを背負わせる事は看過できない。言わずともその気持ちは伝わったのか、彼女は静かに首を振った。
「これは、聖女様自ら提案されたのです。『私はただの人だけど、聖女として役に立ちたい』……そう、文字に書かれたのです。私は……私個人の意見として、彼女の気持ちに応えたい」
「……分かりました。でも、一応、本人の様子も見させてくれませんか」
言わされているとは思わないが、また『セイラ』の演技で言っていないか心配だ。
窓の外を見る。夕空では時間が分からない。
「今から、だと……寝ている、でしょうか」
「まだ起きておられると思います。向かわれますか?」
「はい──っと……と」
ベッドから降りた瞬間よたつき、膝から崩れ落ちそうになったのをビッカーピスが支えてくれた。つい癖で謝罪を口にすると、呆れたようにため息を吐かれてしまった。
「あー……ええと、ペルル……」
誤魔化すようにペルルを見やる。起きてはいるが寝ぼけている様子で、薄く開けていた目を時々閉じては、頑張って目を開けてまた閉じて……というのを寝転がったまま繰り返している。
「連れて行かれますか?」
「お願いしても、いいですか……」
「かしこまりました」
丁寧に両腕でアオバを抱え上げたビッカーピスは、しばらくその状態でペルルを見下ろし、それから塞がってしまった両腕に視線をやった。
「……リッキー。そこにいるな?」
「うっ」
「手伝え」
扉に向けて彼女がそう声をかけると、そろりと扉が開き、リッキーが困ったような顔で顔を覗かせ、ため息交じりに前髪をかき上げた。
「なんで分かるんすか……」
「今のは勘だ。どうした、まだ泣き止んでないのか」
「は、はぁ!? 泣いてねぇっすけど!?」
「ああ言っていますが、私が屋敷に戻ったら『死んだかと思った~』と大泣きだったんですよ、御使い様」
聖騎士が外傷で死ぬわけがないのに、失礼な。とやや不満そうにぼやくビッカーピスに対し、リッキーは「首刎ねたとか聞いたら気が気じゃないに決まってるだろ!」とこちらは声を荒げた。
「帰って来るとは分かってても、首無し隊長とかどう接していいかわかんねーよ! 首ついてたけど!」
「御使い様に感謝しろ。あと、そこの女の子を連れてついて来てくれるか」
「え、いや、それなら俺がそっち持ちます。隊長、まだ全快じゃな──」
言葉の途中で、ビッカーピスに睨みつけられたリッキーは続きを飲み込んだ。眼力に耐え切れなくなった彼は、慌てた様子で目の前を横切り、ベッドでうとうとしているペルルを抱え上げた。
「あの、調子が悪いなら……」
「大丈夫です。死にはしません」
「……」
歩き出したビッカーピスの横顔をじっと見つめていると、しばらくして彼女は歩みを止めずに顔だけを逸らした。
「無理は、しませんので」
「信じますね」
笑顔で返し、雑談ついでに会話を続ける。
「そういえば、リコルさんたちはどうされていますか?」
「リコル様でしたら、おそらく聖女様のところかと。筆談を主に請け負ってくださっています。従者の方も、ご一緒でしょう。テルーナには、回復した十番隊の鍛錬を指導してもらっています」
「自分の作戦に気づいたのが、他の隊所属のテルーナだったから、鍛錬の量増やされまくって大変なんすよ。エディベルの奴のせいっす」
この時間にも鍛錬をしているのだろうか。静かな廊下を進むと、少し先で誰かが会話しているのか、騒がしさが耳に届く。
「──何故あのような事を! 説明してください、高次官殿!」
「これではっきりしたでしょう。あの子は聖女ではない。即刻この屋敷から……いいえ、この国から、追放すべきよ。側役の彼ごとね」
「なりません! セイラが聖女ではないと民に知られたら、我々星詠みはどうなるのですか! 偽物を崇めていたと知られれば、今度こそ……!」
一人はケルダの声だ。おっとりとした調子を崩すことなく、しかし紡がれる言葉は冷徹で、笑って説教をしているような不自然さを感じる。そんな彼女とは正反対に、男女数人の星詠みと思しき声の人物らは、はっきりと感情をそのまま声に乗せて、切羽詰まった印象だ。
「この程度で滅ぶのなら、滅んで然るべきでしょう?」
「聖女の称号を剥奪されて血迷われたか! 聖女様の気が変わられたら、どうするおつもりです!」
「彼女は精霊に愛され、守られている! ただの人じゃない! 特別なのです、かつて聖女と呼ばれた貴方になら分かるでしょう!?」
「さあねぇ……」
カツカツと、杖をつく音が近づいてくる。曲がり角に白い裾が覗き、一人でゆったりと歩くケルダが姿を現した。彼女は顔を上げるとこちらに気づき、一拍遅れて「あら」と目を丸くした。
「お目覚めでしたか、お客人様」
「はい。……喧嘩ですか?」
「意見の相違があっただけよ。他人と他人が口を開けば、あって当然でしょう?」
「お待ちください、高次官殿──っう……!?」
彼女を追いかけてきた星詠みが、曲がり角に手をついた瞬間に止まった。おそるおそると言った様子で顔を覗かせた彼らは、口元を押さえてみるみるうちに顔色を青白くさせていく。
「み、御使い、様……起きて……」
「あ。すみません、すぐ離れますので……」
精霊の気配酔いはまだ継続しているのだと、彼らを見て判断し、ビッカーピスにすぐ動くよう視線を送ろうとした瞬間、一人の星詠みが気分の悪さも顧みず、アオバの目の前まで歩み出た。
「御使い様、どうか……貴方からも、高次官殿に、言い聞かせてくださいませ。彼女は、セイラ様に演説に出るなと、仰るのです……っ」
「え……」
どういうことかとケルダを見やれば、相変わらず真顔でもほほ笑んでいるように見える細い目を持ち上げて、「言葉通りよ」とおっとりした声色で言う。
「出なくて宜しいでしょう。だってあの子は聖女ではないのだから」
「彼女には不思議な力が……」
「民が望むようなものではありません。“黒い霧”を晴らせない、土地を豊かにもできやしない。ましてや不死でもなければ、鳥の姿になることもない。伝説には掠りもしない、ただの子どもよ」
「ですが!」
「何?」
左手に持った杖をついて、ケルダは一歩、星詠みの前に出た。風に揺られた袖が広がり、彼女の左手首に刻まれた花の模様が赤い日差しに曝される。誰にも見られたくない、触れられたくない刺青を目にした星詠みは、ぎょっとした表情になる。
「まだ消しておられませんでしたか。婚姻もせずに、そんなものを彫って……」
「言いたい事はそれだけ?」
口ごもった彼らともう話す事は無いと判断したのか、ケルダがこちらに向き直った。アオバの手前にいた星詠みを目で退けて、杖の音を響かせながら近づいてくる。
「お客人様、どちらに向かうおつもり?」
「セイラのところです」
「そう。声を戻してしまうの?」
抱きかかえられた犬でも眺めるように、ケルダは微笑ましそうにこちらを覗き込んだ。悪意や嫌悪すらも感じさせない、何を言っても許してくれそうな博愛者じみた空気は、セイラとはまた違う印象の“聖女”だった。
「本人が望むのなら」
「望むかしら」
独り言のような調子で言って、ケルダは悲し気に目を細めた。
「私、意地悪がしたいわけじゃないのよ」
「知ってます」
ビクリと、ケルダの肩が揺れた。視線が揺れ、アオバの左手のあたりを見たかと思うと、少し間があって、肩を落とした。未練がましさを滲ませて、細い指がアオバの手首を撫でる。
「……だって、セイラは本当に、ただの子どもでしょう」
「はい」
「このままこの屋敷で聖女としてあり続けたら……今度は……」
続きを待った。だけど声が聞こえなくて、アオバは続くだろう言葉を推測して口を開いた。
「セイラから奪われて壊されてしまうのは、コーディアさんかもしれない」
「……」
「かつて貴方が愛し、そして貴方を支えてくれた人が、貴方の妊娠をきっかけに、周囲の人間の手によって壊されてしまった時のように」
「…………」
「自分の子は、例え歯が立たない相手でも、毒を盛っても守りたいでしょうから」
ふ、と。ケルダが笑った。隙間を抜けるように、骨ばった細い手がアオバから離れていく。
「人の良いところしか見ないのね、お客人様。私、そんなに綺麗じゃないわ」
「優しい人ですよ、貴方は」
アオバの返答に、ケルダは黙って視線を逸らした。伏せた睫毛が、赤い日差しできらきらと輝いて見える。『何故?』と問いかけられているような気がして、アオバは続ける。
「貴方は僕の事を、一度も御使いと呼ばなかった、ので」
「……本物かどうか、分からなかったからよ。だってお客人様、貴方あんまりにも、どこにでもいそうな子どもだもの。不思議な力はあるかもしれないけれど、貴方は守られるべき子どもなのよ」
どうしても、御使いだと認めたくない彼女らしい返答だった。守られるべき子どもを危険に晒したくない、だから認められない。素直ではない思いやりが込められた言い草に既視感を覚えて、思わず笑ってしまった。
『御使いを辞めたくなったら、いつでも俺が“ただのアオバ”にしてやる』と言ってくれた彼は、元気だろうか。何事かと困惑する周囲に、笑いをかみ殺して「いえ……」と手振りで断る。
「やっぱり、ケルダさんは優しい人ですね」
「貴方の目に映るほど、綺麗じゃないわ」
「そんなことないですよ」
「……愛しい彼を殺したのが、私だとしても?」
「はい」
聖女のケルダならそう言うだろうと分かっていた返答に、頷いて返す。ケルダは驚いた顔を上げて、下がりそうな眉を意地で上げて、震える唇でにっこりとほほ笑んだ。
「怖い人ね、あなた」
懐かしむようにそう告げて、彼女は、カツン、と杖の音を立てて、ビッカーピスの横を通り過ぎた。
「ねえ、お客人様」
背後で、ケルダは言う。
「どこか遠くの景色を見に、連れ出してほしいの」
星詠みたちが息を呑む。精霊ではなく人間の怒りを買わない為に、言ってはならない禁忌の言葉だ。かつての聖女として、一人の人間として、ケルダは立場を捨てる覚悟で願いを口にしている。アオバにではなく、かつて愛した誰かに向けた、想いを。
「聖女が望むのなら」
「……望むかしら」
「それは僕には、分からないです」
「……そうね」
カツン、カツンとゆったりとした間隔で音を響かせて遠ざかっていくケルダを見ていた星詠みたちは、ビッカーピスに視線を送られると我に返り、慌てて追いかけていく。「まだ話は終わっていません」と、気配酔いしたせいか少し元気の無い様子の彼らを見送り、ビッカーピスは「行きましょうか」と声をかけると再び歩き出した。
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