◇ 03

 ぼやけた視界が、じわじわと明確になっていく。赤い夕空の色と、黒い影で構成された室内で、アオバはゆっくりと瞬きをする。布団の感触を確かめるようにシーツを撫でる。


(どこだっけ……?)


 横向きになっていた体勢を、仰向けにしようと体をよじると、関節が軋んだ。長時間睡眠による弊害か、頭痛がして顔をしかめている内に、半ば夢の中だった感覚が随分戻ってきた。腰の辺りに何か生き物がいる感触がしたので、あちこち痛いのを無視し、肘をつくようにして少し体を持ち上げた。


 白い頭をアオバにくっつけるようにして、ペルルが寝転がっていた。真珠色の目は閉じられて、真っ白な身は窓から差し込む夕焼けの色に照られ、色づけられていた。


(……寝てる?)


 そうっと頬を指先で撫でてみるが、ペルルは規則正しい呼吸を繰り返すだけで反応が無い。そういえば一度は睡眠を取ったことがあるような事を言っていたので、今日がその眠れる日だったのだろうと思うことにして、改めて仰向けになった。鳥の紋様が描かれた天井が目につく。


(セイラのとこ……か……)


 ゆっくりと息を吐き、痺れたように動きが鈍い二の腕を揉もうとして、指の関節すら動かしにくいことに気づき、少し呻いた。喉が渇いて、声も出しづらい。引きつった喉で咽れば風邪とはまた違う痛みに襲われて、鈍い動きで喉を押さえる。


(ちょっと待て……これ、何日経ってる……? 聖騎士の皆を治してから、何日経った……?)


 眠る前の出来事を徐々に思い出してきた。そうだ、壁に異変があって、リコルたちと見に行ったらラピエルがいて……ビッカーピスが、自ら首を……。


「っう、え……」


 人間の首が刎ね飛ぶ瞬間を思い出し、強烈な嫌悪感から吐き気を催し、喉にやっていた手を口元に移動させた。仰向けでは胃が重力に圧迫されるようで、それを緩和しようと無理に体を起こそうとしてベッドから落ちそうになった。


「あぁ……はぁ……っあぶね……」


 うつ伏せのまま落ちないように体勢を戻してから、ギリギリのところで淵を掴んだ手を、ベッドの外に放り出した。何をしているんだか。腕をブラブラさせながらため息を吐いていると、衣擦れの音がして、人が近づいてくる気配があった。室内に誰かいたらしい。ユラだと思って顔を上げると、意外にもそこにいたのはビッカーピスだった。先ほど脳裏を過った切り落とされた首と繋がり、当たり前のように動く胴体にぎょっとする。


 名を呼ぼうとして咽返っていると、彼女は軽々とアオバの体を起こし、サイドテーブルに置かれていた水をグラスに入れてこちらに寄越した。


「目覚められて良かった……嗚呼、先に水を。飲めますか?」


 ぐらつく頭を押さえて、差し出されたグラスを受け取った。一口飲み込むのも大変だったが、水分が喉を通ると随分楽になった。


「あり、がと……い、っます」

「無理に話されなくて結構です。三日も飲まず食わずで眠られておられましたから、本調子では無いでしょう」

「みっか……」


 道理で体がかつてないほど痛いわけだ。落ち着いてきた喉に、もう一口分の水を流し込む。痛みは少し和らいだが、確かに本調子とはまだ呼べそうにない。


「ビッカーピスさん、は……もう、動いて……平気……」

「はい。聖騎士ですから」


 きびきびとした態度でそう答えて、ビッカーピスは目の前に傅いて頭を垂れた。髪がさらりとこぼれて覗いたうなじに、うっすらと刃先を当てたような傷痕が見える。


「御使い様。改めて、感謝を」

「え。あぁ、いやいや……あれは、ビッカーピスさんが……頼ってくれたから、です」

「いいえ。貴方がいなければ、七番隊の隊長を含めて、多くの隊員が戦闘不能となり、聖騎士の役目を果たせなくなった事でしょう。少なくとも、十番隊は壊滅していました。本来であれば、貴方の力を頼らず対処せねばならなかったのです。私の力不足を、お許しください」


 淀みなく紡がれる言葉の端々に、責任感の強さを感じる。真面目で真摯な人柄だからこその人望と、それゆえに己を過小評価してしまい背負い込みやすい性格なのだろう。もう顔を上げて、と言おうとして少し咳き込み、グラスの中の水を一気に飲み込む。


「も、大丈夫です……ので、顔を、上げて……ください。あと、その……できれば、こっちに、座ってもらえると」


 ベッドの縁を軽く叩く。目線を合わせたいのだと伝えると、ビッカーピスは口籠った。


「しかし、私は聖騎士で……貴方は……」

「対等な、はずです。同じ人間なのですから。力だけで言えば、僕が貴方の足元に座るべき、でしょう」


 貴方が床に座る必要はいずれにしても無い。という意味を込めてそう返せば、戸惑いがちにビッカーピスは指定された位置に腰かけた。オレンジに近い瞳が、まじまじとこちらを見つめる。「何か」と、短く聞いてみると、ショートボブの髪を揺らす程度に首を振り、彼女は言う。


「いえ……貴方と聖女様は、よく似た事を仰るものですから」

「セイラと、ですか?」

「ええ。私共が傅くと、『対等な関係でありたい』と嫌がられるのです。『同じ人間でしょう』……と」


 三日前(体感としては昨日だが)の出来事を思い出し、思わず「ああ」と声が漏れ出た。


「それであの時、笑ってらしたんですね……」


 『聖騎士も人です』……セイラと同じ台詞だったから、ビッカーピスはアオバの言葉を聞いて笑ったのか。納得と同時に、案外あの状況下でも余裕があったんだな、という感想が浮かぶ。死にはしないと分かっているからこそだろうが、どうにもアオバには理解できない感覚だ。


「だから貴方に、何もかもを任せるなんて甘えた行動を、とってしまったのかもしれません。昔から……甘え癖が抜けなくて、困ったものです」


 少し俯いて、ビッカーピスはため息交じりに続ける。


「私は……聖騎士のラドー=フォル・カヴィに憧れていました。今も、です。強くて、真摯で、カッコよくて……聖剣の扱いは雑でしたが、まぁ、それも愛嬌と言いましょうか。──一目惚れでした。これが恋慕かただの尊敬の念なのか、よく分かりませんが、私にとって聖騎士は、彼でした」


 腰に携えた剣の鞘を愛おしそうに撫でて、彼女はゆっくりと息を吐いた。軍服じみたデザインの制服が、なんだか重そうに見える。


聖騎士の卵エイ・サクレとして生まれたからには、聖騎士にならなくてはならない。義務を全うすることばかり考えていた私の、明確な目標でした。彼のようになりたくて、努力して、副隊長に就任し、隣に立って……あの頃は、本当に満ち足りていて、幸福でした。……でも、それは彼が必死に身を削って、周囲の身勝手な期待や責任に応えて、その苦しさを微塵も感じさせずにいたから、成り立っていた。──信じられますか。遠征中に、愛する者が私刑によって殺されたにも関わらず……彼はその実行者を、弱き者だからと守ったんです」


 あまりにも真っ直ぐで、歪んだ思考だ、と思った。


「彼は、新婚でした。子供だって生まれたばかりで、可愛い可愛いと……何度もそう言っていたのに。何故怒りも憎みもしないのか。相手が弱ければ、我々は言い争う事すら許されないのか……。彼より怒り狂っていた私に、あの人はこう言ったんです。『聖騎士は、人間を傷つけてはならない』……何を言っているのか、私には理解できなかった」


 聖騎士とは何か、というビッカーピスの中に生まれた当然の疑念は、“彼”によって感情を捨て去られ、どこまでも正しい線引きによって悪意なく歪められていた。そして彼女自身、その事に気づいていながら無視をした。


 でも、彼がそう言うのなら、きっとそういうものなのでしょう。彼女はそう付け足した。ビッカーピスにとって、聖騎士はラドーだった。彼が強く正しく振舞えば、同じ聖騎士の自分もそうであるかのように思えた──甘えていたのだと、彼女はぽつりぽつりと語る。


「愚かな事に、私は考える事を放棄したんです。彼の言う事が正しい。彼のすることが正しい。彼のやることに従っていれば良い。だって彼こそが聖騎士なのだから……そうして彼がついに精神に限界を迎え、引退する日、『君は君らしくやりなさい』と言われて……私はその時になって初めて己を振り返り……どうしたらいいか、分からなかった」


 偉大なるラドーの引退と同時に、彼に付き従っていた多くの隊員が、十番隊を去ってしまったという。彼らにとって十番隊は、ラドーがいるからこそであり、彼のいない十番隊など何の特色も持たなかったのだ。だが、副隊長だった彼女はそうはいかなかった。


「彼が残したものを、潰すわけにはいかなかった──いいえ、私が勝手にそう思って、背負ったのです。隊員の統率の仕方から書類のまとめ方まで、全部彼の真似をして、どうにか取り繕って……もっとしっかりしなくては、努力して、部下を率いねば……そうやって自分を追い込んで奮い立たせて──そんな時に聖女が現れた」


 一説では、聖騎士の生みの親でもある聖女の登場に、支えを失っていたビッカーピスはどれ程喜んだだろうか。その結果、どれ程セイラに多くの期待をかけて、責務を負わせてしまったのだろうか。


「だけど、『聖騎士も人間でしょう』なんて言われても、理解できなかった。我々は弱きを守る者。その義務がある。貴方たちと同じ人間じゃない」


 アオバの言葉も彼女を追い込んだのではないかと、思わず謝罪しようと口を開いた瞬間、ビッカーピスの指が唇に触れて、閉口する。


 でも。と、彼女は一拍置いて続けた。


「貴方から同じ言葉を聞いた時、思ったんです。『無理をしないで』と……あの時──思いつきもしなかったこの言葉を──彼に伝えていれば、何か変わったのかな、と」


 背後でペルルがもぞもぞと動く気配がした。少し振り返ってみると、寝返りを打った拍子に少し目が覚めてしまったのか、薄く開けた真珠色の目でこちらをぼんやりと見つめていた。


「今からでも、遅くないと思います」


 小さな手がこちらに向けて伸ばされたので、片手で構いながら会話を続ける。そんなアオバたちの様子を見ながら、ビッカーピスははにかんだ。


「そうでしょうか」

「ええ。だって今も、手紙は届いているんですから」


 まだ心は繋がっている。そう期待したから、彼女は『手紙を読みたい』とあの暗い場所から抜け出したはずだ。その思いを確かなものへと昇華すべく、言葉を重ねる。


「大丈夫」


 顔を合わせて笑顔で告げれば、ビッカーピスは「ありがとうございます」と、一言一句間違えまいと言わんばかりに丁寧に音を発し、ほほ笑んだ。それから緩んだ口元を引き締めて、まっすぐに伸びた背筋を(これ以上直すところがあるのだろうか)直し、真面目な面持ちになる。


「御使い様。折り入って頼みがあります。心苦しい話なのですが貴方のお力を、もう一度貸してはいただけませんか。私たちでは、どうにもならないのです」

「いいですよ。何をしたらいいですか?」


 内容を聞く前に二つ返事で了承すると、ビッカーピスはやや眉をひそめた。ユラもよく同じ反応をするな、と思いながら続きを待つと、彼女は困った顔をして口を開いた。


「聖女様の、声です」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る