◇ 02

 セイラがやって来るまで、ケルダは聖女だった。


 聖女の座を奪われたケルダは、嫉妬心からセイラを刺した──本当にそうだろうか? 彼女はアオバを『美しい』と称えた上で、『危険だから、その美しさは隠しなさい』と忠告するような人物だ。己の身可愛さに、誰かを傷つけるとは思えなかった。


(悪口は、自分が言われたくない事……)


 ゲーシ・ビルの聖職者ドライオは、まさにそうだった。聖騎士に怒りをぶつける傍ら、己も傷つけていた。


(忠告は……経験を、教える事……)


 ケルダの口から語られたアオバへの忠告は、いやに具体的だった。『美しさをひけらかせば集られる』『皆が手を伸ばして、壊してしまう』。聖女だったケルダは、その美しい在り方のせいで、大事な何かを壊されてしまったのではないか。


 本物がまだいなかった頃、人食いの怪物の死と、フラン・シュラという新たな怪物の出現に、この世界の人間は大きな不安を抱えたはずだ。だから、縋った。自分にはできないことが出来る人に、優れた星詠みである事を除けば普通の人間の彼女に、多くの人が頼った。彼女はそれを『甘え』だと思いながらも、応え続けた。聖女であり続けた。美しくあり続けた。そして生まれた悪意に、大事なものを奪われた。……全部憶測だ。だけど、眠たい頭は、だらだらと言葉を紡いでいく。


「でも、誰も……貴方の言葉を聞かなかった……セイラこそ本物だと、疑わなくて……祀り上げて……危機感を持った貴方は、暴挙に出た。セイラを刺して、ただの人間だと……聖女なんて、特別なものじゃないって、証明しようとしていたんじゃ、ないですか」


 静かになった部屋に、眠たげな自分の声を響かせる。


「このままじゃ、セイラが……大事にしているものが、悪意無く、壊されてしまうかもしれなかったから……自分が、そうだったから」

「……どこまで、知っているの」

「全部妄想……です、よ。でも、そうだな……貴方が失ったものの一つは、検討がついてる、かも」


 左手首の入れ墨に、視線をやった。触れると嫌がられるだろうと思っての行動だったのだが、その視線すらも不快だと言わんばかりにケルダはアオバから手を引きはがし、隠すように手首をさすって胸元に置いた。


「セイラを、治してもいいですか」


 ここを通ってもいいか。と遠まわしに伝えれば、ケルダは何か言おうとして開いた口を無理に閉じて、それを飲み込んだ。


「……私に聞かないで。貴方の欲しい言葉を、返せない」

「ありがとう、ございます……優しい人……」


 テルーナが歩き出したのか、ガクンと大きく揺さぶられる。きっと言いたかっただろう『治さないで』という言葉を我慢してくれたケルダに、すれ違いざまに感謝の言葉を告げた。


 ベッドのすぐ傍で降ろされて、鈍い動きながらもどうにかベッドの縁にしがみつくようにして姿勢を支える。声も無く呻き悶えるセイラが、皮膚が爛れた手の平をこちらに見せて、口をパクパクと動かした。


「力、使ったの……」


 そこはどうでもいい、と言いたげにセイラが涙目で首を振った。震えて上手く指させない手で、脇腹を指した。顔ごと視線をそちらに動かすと、溶けた服の下から、黒い液体が溢れ出ては触れる物全てを溶かしつくそうとしていた。


「フラン・シュラ化……っ」


 表情を硬くしたテルーナが、ぽつりと呟く。真後ろから様子を覗いていたリコルが「どう?」と声をかけてくる。


「治せそうかい?」

「どうだろ……この状態、治すの初めてだから……治るかなぁ、これ……」

「! ! っ!!」


 突然、強い力でセイラがアオバの手を握った。手汗で滑りそうになりながら、必死の形相で彼は出ない声を絞って何かを訴えている。


 何を言っているのはちっとも分かりはしないが、回らない頭は思考放棄をし始めているようで、「うんうん、分かってる、分かってる」などと、他人事のような相槌を打つ。


「治すよ、大丈夫」

「わ、分かるのですか、御使い様?」

「やー……全然……」

「えっ」


 困惑した様子のコーディアが、更に困惑した。


 それに構える程体力も無く、布団に頭を押し付けてうとうととしながら、首元の音叉を引き抜いた。杖の大きさになった音叉を持とうとして、手から転がり落とす。ガランっと音を立てて音叉は床に転がり、細く高い音が鳴る。床を見るのも億劫で、手探りで床を撫でていると、困ったように笑いながらリコルがそれを拾い上げて、アオバの手を取ると、しっかりと握るように持たせてくれた。


「もう少し頑張って、アオバ君」

「んん……うーん……大丈夫、です……大丈夫……」


 声を出す事で極限まで来ている眠気を誤魔化し、杖を鳴らす。リン、と音が鳴ると、フラン・シュラ化が始まった脇腹から赤いものがにじみ出る。血のように見えたそれは、固まり、乾燥すると粉状になって塵のように消えて行く。黒い泥になっていた臓物が本来の姿に戻り、巨大な口に齧られたような脇腹から、体の中身がはみ出ているような状態になった。


 手をかざし、本来の姿を想像しながら力を使う。胸の辺りが淡く光り、じわじわとセイラの肉体の欠損部分が作られていった。見た目には普通の状態にまで戻ると、セイラが体を起こした。


「聖女様……!」


 荒い呼吸を落ち着かせようと、大きく肩を上下させていたセイラをコーディアが呼ぶ。


「良かった……良かった……っ」


 セイラの手を取って、彼は俯いてボロボロと涙を溢した。


「うん、良かった……」

「御使い様! この度は──み、御使い様っ!?」


 嗚呼、ようやく終わった。これで一安心だ。


 力が抜けて、体を支えていられなくなり、ずるりとベッドの縁から落ちた。持っていた杖が音を立てて床に叩きつけられると、静かに首元に戻る。床に倒れ込むアオバを、リコルが抱え起こして揺さぶるが、もうそれに反応できる力は残っていなかった。


 目を閉じれば暗闇が訪れて、じんわりと水底に沈んでいくような、危機感よりも強い心地の良さを感じながら、意識を手離した。


***


 混雑する駅のホームを抜けて、階段を上がり切る。改札に向かいながら定期を指定鞄から引っ張り出し──後ろからアオバを追い抜いて行ったサラリーマン風の男に肘があたり、定期券は手から零れ落ちると、勢いよくタイル張りの床を滑っていく。


(学校選び、間違えたなー……)


 ため息交じりにそう思いながら、人を避けて定期券に駆け寄る。


 塾の講師に言われるがまま受験した高校だった。めでたく合格し、通うようになったところまでは良かったが、いざ通学となると、中学時代とは比べものにならないほどの通勤ラッシュに巻き込まれ、毎朝のストレスに頭が痛い。


 チョコレートカラーの革の定期入れを拾い上げる。手の平でパタパタと砂を払い、改札の方に顔を向け──同じ学校の制服姿の少女を見つけて、何気なく視線で追いかけた。


(あー……隣のクラスの……名前までは分かんないな)


 セミロングの黒髪を束ねた、どちらかと言えば地味なその後ろ姿に見覚えがあった。全校集会の時、隣の列に並んでいたような気がする。同じ時間の電車だったんだな、と思いながら通り過ぎようとして、彼女が俯きながら、改札とは違う方向にウロウロとしているのを見て、立ち止まる。


 そんなアオバを邪魔そうに、舌打ちをして何人かが追い越していった。小声で「すみません」と謝罪をし、人波に逆らいながら少女に駆け寄った。


「どうしたの?」

「え……っ」

「ああ、いや。同じ学校、だよね? 遅刻するよ」


 少女が思いのほか小柄で、見下ろす形になったのが申し訳なくて、少し背を丸めて目線を下げる。困ったような顔になる彼女を見て、もしや誰かと待ち合わせをしていただけかと気まずくなると、少女は「大丈夫です」「なんでもないんで……」と身振り手振りをしながら首を振った。


「そう?」

「あ、はい……そう」

「なら、僕もう行くけど……」

「うん……」


 消極的な性格なのか、だんだんと声を小さくして、少女は俯いてしまった。しばらくその旋毛を見つめていたものの、沈黙が続いて居心地が悪くなり、「じゃあ……」と曖昧な別れの言葉を言って、踵を返す。


 改札へと足を向けてから、ちらりと少女の方を見ると、足元を見ながらやはりウロウロしている。


(何か落とした……?)


 同じように視線を落として、床の少しヒビ割れていたり黒いシミが入ったタイルを眺める。少し目を動かし、壁際に設置されたパンフレットラックの足元に、薄黄色の定期入れが落ちているのを見つけ、方向転換をして拾い上げる。


 それを持って、俯きながらウロウロし続けている少女に再び声をかけた。


「ね。もしかして、これ?」

「! あっ、こ、これ、そう、これっ」

「じゃあ、確認。名前は?」

「え? あ、る、るこ! 大島、瑠子!」


 定期を指さすと、本人確認だとすぐわかったようで、慌て過ぎて回らない口で、彼女はわたわたとしながら名乗った。定期券の下部の名前と一致したのを確認し、「どーぞ」と定期を差し出した。


「あ、ありが、と……」

「どういたしまして。行こ、行こ。遅刻するよ」

「あ、う、うん」


 改札の向こうに見える、発券機の壁にかかった時計を見て、瑠子と名乗った少女を連れて改札を抜ける。時間に余裕を持って家を出たので大丈夫だろうとは思いつつ、少し早歩きになる。それに小走りで追いかけながら、瑠子が「あの」と声をかけて来た。


「うん?」

「あ、えと……ホントに、ありがとう。助かりました……」

「ううん。そんなに気にしないで──」


 少女とは反対方向から、誰かが顔を覗き込んできた気配がして、そちらを見た。同じクラスの会田正巳と、その奥にいたのも同じクラスの谷本高雅だった。谷本は学校の近くに住んでいるからか、自転車を押している。


「黒野が女子連れてる……」

「えっ、なんでちょっと引き気味なんだよ」

「だって珍しいじゃん。誰? 彼女? 何組?」

「違うってば」


 矢継ぎ早に質問されて、「詮索しないでー」と、ややうんざりした表情で返す。どちらもクラス内では目立つ人物なだけに、タイプの違うアオバはどうにも消極的な態度になるが、それはクラスが違う瑠子も同じようで、男子三人の顔をちらちらと見た後、「あ、じゃあ、あの、私、これで」と、慌てた様子で学校方面に走り去って行った。


「怖がらせちゃったかな……」

「えー。俺、そんな怖い?」

「いや……よく知らない男子三人に囲まれたら、居心地悪いと思う」


 ふーん。と興味無さそうに会田が相槌を打ち、アオバの顔を覗き込む。焦げ茶色の少し切れ長の目と目が合う。


「で、なんで女子と一緒だったの」

「探るね……」

「どうせ、落とし物拾ってあげたとか、困ってそうだか声かけたとかだろ」


 自転車のタイヤが回る音を鳴らしながら、谷本が口を挟む。「少女漫画かよ」とぼやくようにツッコんだ会田だったが、アオバが否定できず黙って顔ごとそらすと、「マジなの!?」と笑いながら背を叩いて来た。


(なんか、懐かしいな……)


 穏やかな空気に、口元が緩む。最近はずっと気を張り詰めているような、背筋に常に力が入っているみたいで、息苦しかった。校門をくぐり、見慣れた校舎に足を踏み入れる。ずっとこうだと思っていたのに。


「黒野は優しいなー」


 日陰に入ったその時、顔の横を、淡く光る小さな粒がふわりと横切っていった。思わず振り返って、朝日が眩しい外に目線を向ける。一つが見えると、途端に周辺にそれらが大量に漂っている事に気づく。どうして今まで気づかなかったのか不思議な程の光りの粒たちは、風に煽られるようにして天へと上って行く。


「……そうでもないよ」

「いっぱい殺したから?」

「……」

「別に、そんな気にしなくてよくない? 必要だったんだろ」


 談笑の続きのような調子で、会田の声が言う。


「必要だからって……」

「じゃあ、他の誰かに全部任せちまえば? 黒野がやる理由ないじゃん」


 それは嫌だ。困る。出来る力を持っているのに、何もしないなんて後悔する。後悔したくない。


「それってただの自己満足ってやつ?」


 ガタンッと、アルミ製の靴箱が開けられた音が異様に大きく聞こえて、肩を大きく揺らす。視線を戻すと、靴を上履きに履き替える友人らの、何の変哲もない日常の光景が映り、自身もそうしようと靴箱に手をかける。指を取っ手に引っ掛けて、引くだけ。簡単な動作なのに、何故か気が重い。


 カチャリと、簡易ロックが外れる音がする。蝶番を軋ませながら、薄い蓋が開けられ──じゅう、と何かが蒸発する音を出しながら、黒い泥がそこから溢れ出た。人や動植物のパーツや面影を少し残しながら、表面に草の根のような血管を浮き上がらせ、呼吸をするように震えては、気泡で作られた穴を収縮させながら、靴箱の上をどろりと垂れ流れた。


 黙ってそれを見つめて、掬うようにフラン・シュラに触れた。皮膚が溶けていく。当然、痛い。だが、我慢できない程ではない。


「もどさないの」


 背後で、舌足らずな少女の声がする。


「……戻せないんだ」


 正直に答える。目を伏せて、じりじりと溶けていく手の平を眺め続ける。


「あおば。だいじょうぶ」


 腰に、子供の頭が押し付けられた感触がした。足の辺りに真っ白な子供の手が見える。


「わたしは、だれのたすけも、ひつようとしてない」

「──!」


***

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