◇ 05

 ある扉の前に止まったその瞬間、タイミングを見計らったように扉が内側から開けられた。顔をしかめたその人は、眉間に深い皺を寄せて、「やっぱり」と声を漏らす。


「お目覚めでしたか、アオバ様」

「おはようございます、ウェルヤさん。体調は……」

「少しマシにはなりました」


 苦々しい表情でそう告げて、ウェルヤが扉を背で支えて道を譲った。明かりが置かれた室内に置かれたソファに、俯きがちなセイラと、その隣にリコルが座り、筆談を交えて会話を試みていた。二人は顔を上げ、安堵の表情を浮かべた。


「おはよう、アオバ君。よく寝たね」

「寝過ぎました、すみません」

「いやいや、無理をさせてしまったのは私の方だ。すまなかった。もう動けるのかい? そうそう、食事は取った?」

「あー……どっちもまだ……」


 対面の席に降ろされたアオバに、リコルは前のめりになって質問をし、ウェルヤに「こら」と一言叱られると、距離の近さに気づいたのか、すっと姿勢を正して距離を取った。アオバの隣に座らされたペルルは、まだ半分意識が夢の中のようで、頭をぐらぐらと揺らしている。


「それより先に、セイラの声をどうにかしようと思って」

「『それより』って」


 面食らった様子で、リコルは美しい双眼をぱちくりとさせて、どうしよう、と言いたげにウェルヤの方を見た。視線を受けた彼はため息交じりに、「とりあえず、今はこれを」と述べて、ティーカップに花びらが混じった蜜のような物を入れ、お茶を注いで目の前に置いた。


「蜜茶です。何も口にされていないよりは、幾分かマシかと」


 添えられたスプーンで蜜を溶かしていると、俯いているというのに斜め前からきちんと飲むまで見守る熱い視線を感じた。とりあえず二口程飲み込むと(アールグレイに蜂蜜に歯磨き粉を混ぜたような味と匂いだった)、リコルは納得したように頷いた。


「ちゃんと食べて、ちゃんと薬を飲まないと。アオバ君、ただでさえ食が細いのに何日も眠って、貰った薬のほとんどを飲んでいないじゃないか」

「……返す言葉が無いです」


 体を支えるのが面倒なのかペルルが腕にもたれかかり、そのまま二度寝を始めた。リコルの指摘に反省しつつも部屋の中に視線を配るが、ユラの姿は見当たらない。屋敷の外だろうか。


 できれば彼女とも相談をしてからセイラの声を治したかったが、いないのであれば仕方が無い。膝の上で指を絡めたり解いたりをぎこちなく繰り返すセイラと、正面から向き合う。


「セイラ。声を治す前に、ケルダさんから伝言を預かってる」


 ぎょっとしたのはセイラの後ろに立っていたコーディアの方で、当人は分かっていたと言いたげに目を伏せた。


「さっきそこの廊下で会ったんだ。君を、どこか遠くに連れて行ってあげてほしいって。この屋敷の外……この国の外に」


 落ち着いた様子で、セイラはコーディアを指さして、パクパクと口を動かした。声が無くとも、意図は掴める。


「側役の彼も共に、って意味で言ってたと思う」

「!」


 セイラが少し目を細めたのとは反対に、コーディアは縋るようにこちらを見つめた。何故、と言いたげな彼に、少し掠れた声でアオバは返す。


「ケルダさんは、セイラを聖女だとは認められないんです。多くの人の期待に応える事が、己の身を削って差し出す行為に等しいから。そんなことを、不可思議な現れ方をした、ただそれだけの普通の子にさせたくない。そして貴方にも、悲しい目に遭って欲しくない」

「何を……言っているのですか。セイラは聖女だと、だから私は聖女召喚の儀の成功者だと、そう言ったのはあの人ですよ……? それを今更……っ」

「はい……だからケルダさん、何度も言ってたんです。『私は綺麗じゃない』って」


 彼女が言う綺麗は、何も見目の話をしてはいない。ケルダは人の在り方や行動を、美しいと表現する人だ。


「人の良いところを見て、誰にでも手を差し伸べられて、困っている人の下に駆けつけられる人を、ケルダさんは『美しい』と、表現されていました。セイラの事も、『美しい』と、そう言っていて、自分の事は『綺麗じゃない』って」

「つまり反対に……人の悪い所ばかり目についてしまう、ということ?」


 よく分からない、と言いたげにリコルが口を挟む。そうそう、とアオバは頷いてみせた。


「もっと言えば、他人の悪意に敏感だった。損得を考えて助ける相手を選んで、本当に困っている人のところには向かえない……」


 悪意が見えるから、ケルダは他人がいる場所で──星詠みがいる前では素直に言えなかった。だからアオバも、あの場で多くは語らなかった。


「セイラを刺した時、ケルダさんは善意で『セイラは聖女ではない』と証明しようとしていました。でも、周囲の悪意を見てしまった。星詠みの地位を維持するために、セイラを聖女として利用しようと考えている人がいた」


 思い当たる節があったのか、コーディアがはっとした顔になる。


「確かに、いなかったとは……言いませんが……」

「セイラを聖女として利用する時、真っ先に邪魔になるのは誰か。その派閥に与していない、そして容易く排する事が可能だった人……ケルダさんは、その人を守りたくて、セイラを聖女だと表面上は認め、その人を側役の地位にまで押し上げ、簡単には手が出せないように仕組んだ」


 端的に言えば、セイラを利用した。セイラを守りたいという善意よりも、己の欲を優先した。だから彼女は自身の事を『綺麗じゃない』と言ったのだ。


 アオバの説明に納得がいかないと言いたげに、ウェルヤが訝し気な顔になる。


「コーディア代次官が、そうだと? 彼は優秀な星詠みです。排除するよりも、取り込む方が……」


 黙って首を横に振る。思わずといった様子でウェルヤがコーディアに顔を向けると、彼は俯いて袖の下で拳を握った。その沈黙は、肯定だ。


「ケルダさんは、貴方を失いたくなくて、セイラを利用しました。コーディアさんの地位を高めて、星詠み以外の人間の監視下に置く事で、多くの人間の“目”に見張らせた。セイラは聖女なのだと言い張ることで──貴方を守り、本来守るべき子どもは利用して、悪意の前に立たせ続けた」


 綺麗じゃない、そう言い続けた理由はこれだろう。美しく、誰もが手を伸ばしてしまう存在を、更に悪意の前に立たせてしまった。彼女はずっと、そこに引け目を感じていた。


「ケルダさんは僕に、一度として、セイラを聖女だとは言いませんでした。何度も、『あの子はただの子ども』だと……」


 ──あの子はいずれ、大衆に殺されるでしょう。


 可哀想でしょう、というニュアンスが含まれたケルダの声が脳内で再生される。思えばケルダはセイラの事をずっと、いかに美しく、そして可哀想で、その身に危険が迫っているかをアオバに伝え続けていた。『美しいものは欲しくなる、だから貴方も欲しいでしょう? このままだと壊れてしまうから、持って行って』と、忠告に願いを混ぜ込んでいた。アオバがそれに気づくかどうかを探っていたのだ。


 ── どこか遠くの景色を見に、連れ出してほしいの。


 その願望を、周囲の目も気にせず口にすることを、どれ程待っただろうか。御使いの力を持つ客人なら、叶えてくれるかもしれないという思いに、抱え続けた後悔から逃げ出したいケルダに、アオバも応えたい。


 ──……望むかしら。


 だけどきっと、セイラの答えを、かつて聖女だったケルダは──己を犠牲にし、身を削って差し出し続け、奪われてきた、ただの人は──もう知っている。


「セイラ」


 聖女の名を呼ぶ。


 まっすぐに見つめあった少年の表情は優しくて、全てを受け止めてくれそうに思えた。欲しい言葉をくれそうで、汚い欲望でも何でも口に出来てしまいそうだ。


 ──断らないでしょ、アオバは。


 ──良くないよ、それ。


 同じことを、セイラもアオバに思ったのかもしれない。無理難題を受け入れてしまわないかと、互いに互いを心配している二人が今、片方は無理を言い、片方はそれを受け入れようとしている。


 手を、相手の喉にかざす。胸の辺りが淡く光り、喉につまる見えない何か、声を吸収してしまうソレの存在を作り出し、手繰り寄せる。


「……逃げたい?」

「──いいえ」


 ソプラノの可愛らしい声が聞こえると同時に、抜け落ちた栓がアオバの中に入り込む。出なくなってしまった声の代わりに、アオバは唇だけを動かした。『本当に?』


「心配しないで」


 コーディアの背もたれに置かれた手が、強く握り締められる。その手に上から触れて、セイラは彼の顔を見上げた。


「聖女としてじゃなくて、一人の人として、貴方を見捨てたくないんだ」


 悪戯っぽい少年の表情で笑って、セイラは指先で彼の手を叩く。


「逃げられない人を、無理に連れて走れないよ」

「聖女様……」

「貴方は、昔の私に似てるんだ。……でも私は逃げちゃったから。何の才能もなくて平凡でさ、期待とか責任とかそういうの見えないフリして、自分以外の誰かに縋って、良くないって思いながら自分で自分の傷抉ってばっかりで……だから──まだ変われるよ、コーディア」


 どうして。と、泣きそうな声でコーディアが言う。


「私の手を、貴方は引いてくださるのですか。何の力もない私に……」

「貴方が、私に居場所をくれたから。何もできない私を、聖女に変えてくれたからだよ」


 泣き崩れてしまいそうな彼に、セイラは「だから一つだけ、謝っておかないといけないことがあるの」と、神妙な面持ちになって、多少目を泳がせた。


「貴方が……ああ、いや、貴方と、他の星詠みも含めて……それから町の人も何人か……女の子にやるのは可哀想かと思って、主に男性陣……」

「……はい……?」

「異常に、聖女に好意を寄せている方々の……その、そのお気持ちはですね、私の、力のせい、でして……」


 顔を逸らしながらセイラはこちらを指さして、「アオバには治癒の能力があるように」と、切り出す。


「私には、そのぉ……他人の好意を、多少弄れる力が、ございまして……」

「え?」

「だから、貴方が私を慕ってくれているのは、全部それのせいっていうか……」

「……え?」

「あの、ごめん……」

「…………え?」


 しん、と空気が固まった。ぽかんとしているコーディアやビッカーピスたちを見ていられなくなったのか、セイラはちらりとリコルたちに視線をやった。


「だから、ほら、力使ってないリコルさんたちは、普通でしょ……」

「え……そ、それは、他国は、聖女信仰が……そこまで強くないから、かと……思って──い、いえ! 最初はどうあれ、私は聖女様を慕い続けます!」

「いや、それも……やめた方が」


 しどろもどろになりながら、セイラは決心したように顔を上げた。


「え、ええい! これも貴方が変わる良い機会だと思って言います! 気持ち悪がられて結構! この恰好をしていた私が悪い! 言葉が通じない内に聖女聖女と流布されて言い出し辛かったのですが──」


 言いながら立ち上がり、セイラはコーディアの手を取り、自らの股間に当てた。……それ以外に証明方法は無かったのだろうか、と内心思いつつも、固まっているコーディアの様子を窺う。女性だと思い込んでいたせいか、下半身に強引に触れさせられた事への照れと焦りで顔は赤く、しかし男性のソレに触れて思考が止まっているように見える。


「わ、私は! 男で、異性愛者です!!」


 コーディアの口が薄く開く。おそらく『え?』と言ったようだが、声が全く出ていない。


「……え、え? セイラ、様……?」

「それから……それと、私の本当の名前は……セイラではありません」


 パニックを起こしながら、半ばヤケクソで応えきったセイラは、ゼーゼーと肩で息をする。


 静まり返った室内で、空気を一切読まずにリコルが挙手をした。


「では、セイラという名は……どこから?」

「私の……あの……憧れの、非実在女性……です」


 尻すぼみになる返答に、リコルが「非実在なのに憧れ、とは……?」と首を傾げた。再び静かになった室内で、ビッカーピスが指を顎先に当てる衣擦れの音が、いやにはっきりと聞こえる。


「まあ、死人の名前でないなら、問題はないか」


 そこなのか。……まあ大事か。


 冷静なのか、こちらはこちらで驚いていて頓珍漢な事を気にしているだけなのか、表情は然程変わらないビッカーピスに対し、リッキーは頭を抱えている。


「えー……嘘、マジで男……?」

「傍目には可愛い女の子に見えるけどね」

「……いや、ここにいたわ、美少女顔の男……」


 混乱しながらもリコルを見てそう言って、リッキーはどうにか聖女が男であることを受け入れようとした。そんな彼から視線を外し、リコルは『そんなことないよな』と言いたげに従者を無言で見た。ウェルヤは「自分は見慣れているので、何とも」と顔を逸らしながら曖昧に返答した。


 騒ぎで二度寝から目を覚ましたのか、ペルルが目をこする。逆に、その喧噪に眠気を誘われ、アオバは目をこすった。


「あおば、ねんね……?」


 ちょっと眠い。そう返したつもりだったが、声が出なかった。真珠色の目を瞬かせて返答を待つペルルが、首をかしげた。

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