◇ 02
壁に手をついてどうにか移動すると、窓から鋭く差し込む赤い日差しに目を細めた。夜も明るいというのが、まだ慣れない。
「昨晩は本当に助かりました。貴方様が訪れなければ、我々はあのまま、フラン・シュラに溶かされていた事でしょう」
テーブルの前で
「い、いえ、あれは僕の力では……」
確かに消したのは青葉が作った音叉だが、あの時のフラン・シュラは、意図的に彼らの家を避けていた。すぐ近くにラピエルが居たから、それを避けていたのかもしれないが、とにかくそれらに関しては、青葉のおかげでも何でもない。
そもそもこの能力自体がラピエルから授けられたものであり、自身のものという認識が薄いせいか、その事でこうも態度を変えられては、本当に詐欺師にでもなったみたいで、罪悪感やら焦燥感やらで落ち着かない。
自身の手柄でもない事で父親よりも年上の男性に頭を下げられては気が休まるはずもなく、頭を上げてくださいと、何度も言ってようやく聞き受けてもらい、ほっとした。
「あの、フロワは……」
「あの子なら、隣の部屋におりますよ。どうぞ」
そう言いながら、ディオルは奥の部屋の扉を開けた。子供部屋だったのだろうか。玩具が脇に片付けられた小さな部屋のベッドの上で、フロワが体を起こして座っていた。立ち上がることすらままならず、咳き込んでばかりの彼女の姿しか見てこなかった青葉にとってはそれだけでも衝撃的な光景だったが、視線が合うと、フロワはポロポロと涙を溢したので、更にぎょっとして駆け寄り、しかし何をしたらいいか分からず、近くでオロオロとしてしまう。
「御使い様……」
「ど……どうしたの? どこか痛い? まだ苦しい……?」
「内臓機能は正常に動いているはずだが」
ユラも不思議そうに首をかしげる中、ゆっくりとフロワは首を横に振った。
「い、息が……できるの……」
「え……?」
「呼吸をしても、胸が痛くない……こんなの、いつぶりかなって……そう思ったら……」
細い指が、青葉の手を弱々しく握った。昨日と違って震えは無く、肌の色も赤みが差して少し健康的に見えた。
そして何よりも、部屋に踏み込んだあの時と一番違ったのは、血反吐や腐敗臭という死を予感させる臭いが全くと言っていいほどしない。
「握っても、全然痛くない……! それに、それにね、良く見えるの! お兄ちゃんの顔も、部屋の中も、窓の向こうも、はっきり見える! あ、あとね、ごはんっ! 味がするのよ!」
次第に饒舌になって、目を輝かせながら涙を流し、フロワは、あれもこれもと、当たり前の事を報告する。それが、フロワ自身にはなかったものだと知り、改めて彼女の肉体がどれほど危機的状況にあったのかを物語っていた。
物に触れれば痛みがあり、視界はぼやけ、味覚も薄れ、呼吸すら痛みと共にある生活の中で、フロワはずっと生きていた。それが、借り物の力とはいえ青葉の能力で改善されたのだ。そう考えるとこみ上げてくるものがあり、思わず涙ぐむ。
「よかった……君が生きてくれて、本当に」
「御使い様のおかげだわっ。ありがとう。それと、お兄ちゃんを連れ戻してくれたのも御使い様でしょう?」
カインから聞いたのだろうか。目だけで彼女を窺うと、彼女はにっこりとほほ笑んだ。
「言わなくったって分かるわ。私、ずっとお兄ちゃんのこと見てたんだから。お兄ちゃんが限界だったのも……ああ言えば離れる事も、分かってたよ」
上目遣いでこちらを窺い、フロワは少し水気を含んだ唇を動かした。
「でも、帰って来てくれたから……きっと、御使い様がそうするように言ったんでしょう?」
「最後に判断したのはカインだよ。君の神様がそうしたいって思ったから、あの家から君を連れ出せたんだ」
手を握り返して告げ、そういえばと顔を上げる。
「カインは?」
「家の修復をするとかって、昼から外に出てますよ」
ディオルの後ろから、ロレイヤが顔を覗かせた。昨日よりも少しだけ顔色がいい。「そろそろ戻って来るんじゃないかしら」と一度だけ後ろを見やり、それから手を胸の前で合わせた。
「御使い様、お腹は空いていませんか? すぐに用意しますよ」
「あ、ええと……」
大丈夫ですよと断ろうとして立ち上がるが、ふらついてしまい、それが空腹だと判断したのか、ロレイヤはにこにこしながら居間の方に向かって行った。
「すぐできますから、良かったらさっきの部屋でゆっくりしていてください。持って行くので」
「えと……それじゃあ、お願いします」
昨晩の騒動の疲労が取れていないのもあるが、昨日も一昨日も、慣れない食事を遠慮がちに食べていたので、普段よりも明らかに食事量が足りていないのもあるのだろう。さっきから、脳に血が回っていないというか、上手く体が動かせない。彼らの親切心に甘えさせてもらう事にして、「また後でお話してね」と笑うフロワに手を振り、ペルルを連れて部屋を出た。
壁を支えにして先ほどの部屋に戻り、何とかベッドの上に倒れ込む。考えていたよりも気分が悪い。乗り物酔いにも近い怠さがあり、じっとすることで少しだけ落ち着いてくる。
寝返りを打つと、ベッドの脇でうろうろとしているペルルが視界に入り、視線に気づくと彼女は近づいてくる。しかし、いつものように真似をしようとはせずに、何かを待っているのか青葉をじっと見つめ返している。
体を起こす。ぐらりと頭が揺れて、気分の悪さが戻って来る。脱水症状のような気もしてきた。
ペルルと向き合い、随分後回しにしていた事を、ようやく聞き出す。
「フラン・シュラを呼んだのは、ペルル?」
「!?」
ぎょっとするユラを他所に、こくりと、ペルルは頷いた。
「……どうして?」
「?」
「何故、呼んだの?」
言葉の意味が分からないのか、考えているのか、それとも言いたい事はあるが言葉が分からないのか、ペルルは黙り込んだ。しばらくして、形の良い唇を動かした。無表情のまま彼女は言う。
「あおば、おかね……いる、からー……」
昨日よりもかなり聞き取りやすくなったペルルの言葉は、ほとんど予想と同じ事を言った。
「ふらん、しゅら……とぉばつ、のにぃ……しゃるふ、しんじない、のー……」
「だから、目の前で見せれば信じてくれるって、思った?」
口をつぐみ、少し遅れてペルルが頷いた。
やっぱりか。ペルルは青葉が困っていると思って、フラン・シュラを呼んだらしい。体調不良とは別の意味で頭が痛くなってきたが、それはユラも同じだったようで、額に手を当ててため息をついていた。
「アオバの優しさの成果って、そういう事か……」
何かを思い出すようにそうぼやき、ユラは屈み、ペルルと目の高さを合わせた。
「ペルル。どうやってフラン・シュラを呼んだ?」
「んー……たくさぁ、いた、からー……」
「最初から近くにいたのか?」
「うー……くるの、まってー……あつまって……たくさぁ……」
撒き餌か何かでもして集めたのだろうか。同じことをユラも思ったようで、「餌でも置いて、来るのを待ってたのか?」と尋ねると、思いのほか不満そうに「ちぃがうー」と否定された。
「まってた、のー。だれか、まってた」
「誰が、誰を?」
「あやちゃん」
誰。
きょとんとしていると、ペルルは自身の頭上に手で傘を作り、ぐるぐると動かした。
「ぴかぴか」
それから今度は顔の横あたりの真っ白な髪をつまみ、ふわふわと動かした。
「うねね」
「……もしかしなくても、ラピエルの事言ってる?」
頭上に傘のようなものがあって、うねった髪、という部分から思い出した人物の名を上げるが、ペルルは分からないと言いたげに首を傾げた。
「あやちゃん、がー。きらきら、まってた」
分からない言葉がたくさん出てきて混乱してきた。
「そのあやちゃんがラピエルなのかは一旦置いとくけど……その人が……ええと、『きらきら』も人? その人を待つ間にフラン・シュラを大量に用意していたから、横取りしちゃったってことで、いい?」
うん。とペルルが頷いた。合ってたらしい。
(でも確かに、ユラさんが言ってたフラン・シュラの発生場所であるこの家のすぐ近くに、ラピエルいたしな……)
ラピエルは誰かを待っていた。それも、大量にフラン・シュラを用意していたのなら、悪意を持って迎えるつもりだったと考えられる。結果的に、青葉が先に対処したおかげでその人に向けられなくてよかったとも思うが……。
「おいでーしたら、たくさぁきた」
「そ、そう……」
近くにいるフラン・シュラとなら、コミュニケーションが取れるのだろうか? ペルルについては分からない事だらけだが、このまま終わらせるわけにもいかない。抜けてしまっている善悪の基準を、教えて行かなければならない。
「あのね、ペルル」
「う」
「今回の事は、僕の事を考えてくれたからだよね」
うん、とペルルが頷く。
「それはすごく嬉しいけれど、フラン・シュラを呼んだのは、素直に褒める事ができない。どうしてか分かる?」
「……」
首を傾げられた。
「町のみんなが、怖い思いをしたんだ。フラン・シュラに当たって、怪我した人もいるかもしれない。僕はね、誰かに怖い思いをさせたり、痛い思いをしてほしくないんだ。勿論ペルルにもしてほしくないし、ペルルが誰かを傷つけるのも嫌なんだ」
「どして?」
心なしか元気のない声でペルルが言う。
「みんな、あおばすごい、ゆー……おかね、もらえた……ふらんしゅらもー……」
無表情ながら納得がいかずにむっとしているのが伝わって来る。
「フラン・シュラは危ないから。ね。もう呼んだら駄目だよ」
「あおば、ころせるのに?」
舌足らずな声に似合わない言葉に、ギクリとする。背中に冷や汗が伝うのを感じながら、彼女の手を取って言い聞かせる。
「そういうこと、言っちゃ駄目」
「じゃあ──もどせるの」
じっと、真珠色の目が青葉を見据えた。『殺す道具ばかり作る癖に』と責められている気がして、言葉が詰まった。視線をさまよわせ、何も言えずに沈黙が流れた。
「……あおば」
小さな子供の声が、それを破った。
「ふらんしゅら、もうよばない」
「……本当?」
納得していない空気を出しながらも、ペルルは頷いた。気を使わせてしまっただろうか。
「だから、ぎゅーして」
言葉の前後が繋がらずにきょとんとすると、何か気づいたようにユラが「ああ」と声を漏らした。
「まさかと思うが、褒めて欲しかったのか?」
「え?」
「アオバが困ってたから、お手伝いをして褒めてもらおうとしたんじゃない?」
そうなの? とペルルを見やるが「ぎゅう」と言うだけでよく分からず、結局言われるがまま抱きしめた。まだ本人は納得できていないようだけれど、もうしない、と言うのならばそれを信じなくては。
「分かってくれてありがとう」
「うん」
少しだけ満足気な声がした。
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