00-4 監視する目

◇ 01

 香ばしいような、酸っぱいような、そんなコーヒーの良い香りが室内に籠っている。見覚えがある場所。青葉も何度か訪れた事がある喫茶店の、窓際の席だ。白塗りの壁と、木枠の大きな窓に、同じ木目の床。調度品はアンティーク調の木製で統一されていて、薄くオレンジがかった明かりに照らされている。それらが全盛期の頃など生まれてもいないのに、何故か懐かしい印象がある。


 向かいの席に座っているのは父だった。書店名が印刷されたブックカバーを被せた文庫本を読んでいる。


 茶色がかった癖毛の黒髪。明るい茶色の目。やや童顔で、そろそろ四十代になるだろうに、未だに二十代前半のような若々しさがある。背丈は青葉と同じ百七十センチ。青葉がどこか垢抜けない野暮ったい印象なのに対して、父は洗練された優男風だ。性格に関してはまるで違うので、周囲が「似ている」と言う度に青葉は首をかしげてしまう。


「何かあった?」


 父はそう言って、本を閉じ、脇に寄せる。それからコーヒーカップの取っ手に指をかける。視線は一切こちらを見ない。


「……何も」

「そう?」


 簡潔すぎる短いやり取りだというのに、尋問でも受けているような気分だ。幼く見える要因の一つである、大きな茶色の目がちらりと青葉を見る。


「悪い事をしたって顔してる」

「……」

「分かりやすいなぁ」


 くすくすと笑って、カップに口を付ける。反対に青葉は俯く。目の前に置かれたコーヒーカップに注がれた黒い液体に、眉を八の字にした青葉が映りこんでいた。確かに、分かりやすい。


「なに? 母さんを怒らせるようなこと?」

「……怒るっていうか、悲しみそう」

「ふーん?」


 面白いものでも見つけたような、悪戯っぽい笑みを浮かべて、父は片肘をついた。


「で、どんなこと?」


 どうって……。


 上手く言葉にできず、俯いたままの青葉を父は急かす事もせず待ってくれている。……父の時間を無駄に使ってしまっている。本当は忙しい人なのだ。朝早くに家を出て、帰って来るのは真夜中。場合によっては職場に泊まり込む事もあり、たまに家にいると思えば書斎に籠って何かの資料を読み漁っている。青葉の記憶にいる父は、日付ごとに選別されたファイルに埋もれて机に突っ伏して寝ている姿ばかりだ。そんな人の時間をこうして使っている事に焦ってしまい、余計に言葉が出てこない。


「それは何?」


 父が青葉の首元を指さした。ぎくりとして、U字型のそれを手で隠す。


「……道具」

「何の?」

「……」


 じっと、明るい茶色の目が青葉を見つめている。観察されている。僅かでもおかしな行動をすれば、何もかもが露見する。いや、もう既にバレているのかもしれない。


「父さん」

「うん」

「僕は……人を、傷つけてる」


 随分マイルドな言い方になってしまった。父は意外そうな顔をして「へえ」と相槌を打ち、視線を窓の外に移した。


「そうしなきゃ、助けられなくて、だから……」


 こうじゃない。もっと正しい言葉で伝えるべきだ。顔を上げた、瞬間。


 視界の端に黒い影が横切った。


 と同時に、グシャリ、と何かが潰れる嫌な音が聞こえた。


「──」


 この音を知っている。こんな遠くではなかった。もっと近くで、目の前で、聞いた。いつ? 知らない。探るな。思い出すな。見るな。見るな。


 言葉が出なくなった。目を見開いたまま固まって、指先一つ動けずにいる青葉を、父が一瞥する。


「そうか。青葉は──人殺しをそう表現するのか」


***


 目を開けた。心臓の音ばかりに耳を傾けている内に、その音は遠のいていった。次第に鳥のさえずりが聞こえ、よたついた動きで体を起こす。


 汗を拭い、襟元を掴んで扇いだ。寝苦しかっただけだろうか。袖を捲ろうとして、袖口の酸化して茶色くなった汚れにぎょっとする。すぐに自分の血だったなと思い出し、息をついた。


(お風呂入りたい……)


 汗でべたつく首を撫で、ため息をつく。宿のどこかにあったかなと、周囲を見渡し、見覚えのない部屋だとようやく気付き、きょろきょろとしていると、


「起きたか。おはよう」


 するりと壁をすり抜けて、ユラが部屋に入って来た。それから少しだけ眉をひそめた。


「顔色が悪いな。まだ疲れが取れないか?」

「……だ、大丈夫、です。おはようございます」


 軋む体を無理に動かして立ち上がり、赤い日差しが差す部屋と廊下を遮る布を少しだけ捲ると、奥にある部屋の様子が見えた。そちらには見覚えがある。


「ロレイヤさんの家か……」

「ん? ああ、そうか。覚えてないか。能力を使った後、そのまま寝てしまったの」

「……そう、ですか……」


 言いながら一歩、部屋を出た瞬間によろめき、その場に座り込む。頭がぐらぐらして、少し気持ち悪い。全身が気怠くて、動きたくない。


「大丈夫か? 丸一日寝てたからな……」

「丸一日って……今……」

「アオバが寝て、翌日の午後九時だ。走り回って疲れてたんだろう。まだロレイヤたちが起きているから、食事を貰おう」


 それはちょっと気を遣うような。何も言わずとも伝わったのか、ユラが肩をすくめる。


「貴方が起きるのを、今か今かと待ち構えていた」

「でも僕、ロレイヤさんたちには何も……」

「……」


 ユラの視線が逸れる。なんとも言えない表情で頬をかき、諦めたようにため息を吐いた。


「今、町では貴方が本物の御使い様なのだと、盛り上がっている」

「……えっ」


 想像すらしていなかった展開に、思わず間抜けな声を漏らした。困った顔でユラが部屋の奥を見る。


「貴方が町に押し寄せて来たフラン・シュラを消した事、それからフロワの病気を治した事が広まってしまった。すまない。私には止められなかった」

「あ、いえ、それは別に……」


 幽霊のような状態のユラには止めようがない事だろう。まだぐらつく頭を押さえ、聞き流しかけた情報を引き戻す。


「あ、待って、フロワ、無事なんですか……?」

「ああ。まだこの家にいるぞ」


 何故、と思ったが、そういえばカインの家はフラン・シュラに壁を壊されていたな、と思い返し、納得した。


「まだ経過を診ている状況だが……顔色はかなり良くなった」

「よかった……」

「後で会うといい。で、話を戻すが」

「なんでしたっけ」

「貴方が本物の御使いだと町がお祭り状態になっている話だ」


 話している内に、ペルルが奥の部屋から顔を覗かせたのが見えた。ユラと話し込む青葉を、遠巻きに見ている。片手を上げて反応をすると、小走りで近づいて来た。


「ロレイヤたちも、『御使い様に娘の死を見つけてくれた』とかって変に元気を出してな……ああいや、空元気だとは思う。でも、『御使い様が知らせてくれた』って事で一区切りつけたのかもしれん」

「そんな簡単に割り切れるものでしょうか……?」

「どうかな。ただの有名人ならともかく、神様の遣いが来たら話は別だろう」


 ペルルが移動した事で、奥の部屋にいたであろうディオルも廊下を覗いた。青葉を見つけ、「おぉっ」と声を上げる。


「御使い様、お目覚めになられましたか」

「あー……はは」


 昨日までとは違い過ぎる態度に、思わず苦笑いする。夢と同じように、分かりやすい困った顔を浮かべている気がした。

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