◇ 12

 全ての作業を終え、フロワを寝かせている即席ベッドに突っ伏している内に、全身が重くなっていくのを感じた。緊張感から解放され、どっと疲れが来たらしい。


「……カイン」

「う、うん?」

「寝る前の……祈りの言葉って、覚えてる……?」


 すぐ近くでフロワを見守っていたカインに声をかける。聖書を取り出す元気がなく、かつて聖書を持っていたカインなら知っているだろうか、とぼんやり考えた上での発言だったが、彼からすれば突拍子が無かったようで、「へっ?」と素っ頓狂な声をあげた。


「え、えーと、聖書が、あれば……まあ……」

「じゃあ……取って、読んで……フロワの、ために……お祈り……」


 どこにあるのかを教える余裕もなく、だんだんと瞼が重くなるのに逆らえず、目を瞑る。


「ペルル。取って渡してあげて」

「とってー……?」


 後ろでユラが教えてくれたのか、ズボンの後ろポケットから聖書が引き抜かれる。多分ペルルだろうな、とは思うが、確認するには体が重すぎた。


「あ、ありがと……え、あの、御使い様……? 読めばいいんすか……?」


 返事が無いので困らせてしまっただろうか。神を捲る音がして、それから戸惑いがちに読み上げられる。その言葉を、何とか声にして復唱しようとするが、どうしても唇がわずかに動くばかりになってしまった。


***


 倉庫を出てすぐに、少年は母と再会した。泣きながら「うちの子を知りませんか」と必死になって子の名前を呼ばすに泣きながら探しに来た母の表情が、未だに忘れられない。


 とはいえ、心配事が一つ解決すれば、すぐ次の心配事があるもので、母は大人たちの集まりに出向き、何やら相談を重ねていた。やや溶けてしまった家の修復は明日にすることが決まり、何気なく横で聞いていた少年は、「子供はもう寝なさいね」という大人の決まり文句と共に、部屋に押し込まれてしまった。


 寝台に上がり、目を閉じる。耳の奥で、ごうごうという音がする。地面が揺れているような錯覚をする。扉が溶け落ち、フラン・シュラが流れ込んでくるような気がして、赤い日差しに染まる部屋の扉を、じっと見つめてしまう。


「おかーさん」


 寝台から降り、扉を薄く開ける。まだ起きていたの、と言いたげに母が席を立ち、近づいてくる。近くの椅子に座っていた数人の大人たちも、顔を覗かせた。


「『怖い夢を見ないための、おまじないを教えて』」


 母に似た女性が言った、あの言葉をそのまま伝える。目を離した隙にいなくなってしまったが、怖いとは思わなかった。なんて言ったって、母に似ていたのだ。怒ったら怖いかもしれないが、腹を抱えて笑う姿から恐怖を感じる事はなかった。


 少年の言葉に、母は一瞬きょとんとして、それからそれから周辺の大人たちを顔を見合わせると、「そうね」と呟いて、戸棚から一冊の小さな本を取り出した。それを持って部屋に入り、少年を寝かせると、寝台の淵に座って本を開く。


「読めるの?」

「ここだけね」


 後ろ姿でも分かる。母が懐かしそうに目を細めた。


 私たちの生命の光よ、

 救いの道を照らしてください。

 今日の誤りは明日には真実を、

 今日の悲しみは明日には喜びに、

 今日の理解は明日からの愛に。

 罪が夜に溶けて、朝の恵みとなるように、

 この大地に祈ります。

 明日も先も、皆が幸せでありますように……。


「これは誰にお願いしてるの?」


 安心して目を閉じて、小さな声で問いかける。


 額をなぞるように撫でながら、母は口を開いた。


***


(オーディール、だろうな)


 祈りの言葉をカインに読ませたものの、おそらく半分ぐらいのところで寝落ちしただろうアオバと、その横で真似をして寝台に頭をつけてみているペルルを見つめながら、ユラは思う。この祈りの言葉は、オーディールに向けられている。


 大地を司る精霊。いつかは人を襲う黒い影の餌たる“黒い霧”を晴らす者。そして、眠る前に祈りを捧げられる存在……。


(間違いない。オーディールがこの世界の意思……外敵に対する抵抗力の名称か)


 世界には、自浄作用がある。世界の中で“黒い霧”やラピエルといった世界を滅ぼす存在が現れた時、それに対抗する何かを、必ず持っている。それは、その世界に生まれた者にそういった仕事を任せる場合もあれば、世界そのものが抵抗する場合もある。オーディールは後者だろう。


(この祈りは、世界の抵抗力を高めるための呪文か。人間に呪文を唱えさせて、頼らねばならない程に、この世界の抵抗力は弱い)


 だから今も、然程力もないラピエルに簡単に乗っ取られている。


 シャルフはオーディールを見た事が無いと一蹴していた。世界の意思が姿を出せない程弱っているか、あるいは、休眠状態に入っているかのどちらかだろう。


 祈りを捧げ続ければ、いずれ世界の意思は目覚める。ラピエルを倒すためにも、オーディールの助けがあればかなり楽になる。“黒い霧”が打ち消され続ければ、黒い影と同じくそれらを餌としているラピエルが、今以上に強大になる事は無い。つまりは、この世界の人間たちでも、倒すことが可能だ。


以前のユラであれば、迷わず世界の意思を目覚めさせていた。世界は守られ、住民には本来の生活が戻って来る。良いことしかないのだ。


(でも、世界の意思が目覚めたら、世界の意思がアオバを生命と認めなかったら……アオバは消えてしまう)


 生命は、世界にその存在に認められて、初めて存在できる奇跡の代物だ。神様が用意した命を宿した器を、世界が取り込むことで命は誕生する。ラピエルによる違法転生者たちは、既に用意されていた生命の器に押し込まれているだけで、実のところ、生命という枠組みからは外れてはいない。端的に言えば、製品の受注者でしかない世界は、中身が違ったとしても、使えるのであればそれで運用する。世界の仕事は『生命の一定数の保持』であり、『その生命がどのような行動を取るか』は問題ではないのだ。


ところが現状のアオバは、発注した覚えもなければ、想定している中身も違う、いつの間にか沸いて出て来た謎の物体であり、世界が『いらない』と判断すれば消えてしまう危機的状況にある。


(ラピエルの手からこの世界を解放するには、世界の意思の協力は必要だ。私一人が、約束を違えたくないという理由だけでそれを阻止するのは間違っている)


 だが、守ると言ったじゃないか。


 かつての自分自身と重ねて、憐れんだのは誰だ。口ばかりで結局守れなかったあの頃を、今なら守れると愚かにも考えたのは誰だ。


「俺の見間違いじゃなければ、あの子供が杖を叩いたら、フラン・シュラが消えて行ったように見えたんだ」


 ディオルの言葉が耳に入って来る。


「それにほら、見ろよ。あのフロワが、あんな死にかけてたフロワが、こんなに顔色が良くなってきてやがる。祈りの時に、この子の胸が光ってたんだ。これは……」

「み、御使い様だよ。本物の。シャルフも見てただろ! フラン・シュラがどんどん消えて行くのを!」


 カインが加わり、シャルフを囲いながら言う。


「神様は俺たちを見捨ててなかったんだ!」


 ああ、これは駄目だ。額に手を当てて、小さくため息をついた。視界の端に、椿の絵が描かれた着物の裾が見える。


「縋るモノを失った人は、新しく縋るモノを見つけてくるものさ」


 気配もなく、穏やかな声が、のんびりとした調子で告げる。


「その逞しさは、賛美こそすれ、嘆くものではないと思うけれど?」

「こ……こんな子供に、大勢が寄って集って幸も不幸も押し付ける事の、どこが嘆かわしくないんだ……!」


 どうせ、にやついた顔で言っているのだろう。そちらも見ずに、吐き捨てる。ああそうだ。その逞しさは、あらゆる不幸から立ち上がれる強さだ。現にユラも、一族や親に縋り、それを失った時、ミヨコに縋り、今日まで生きてこれた。だから否定はしないが、それと同列に語りもしない。


「もう目覚めてしまったよ」


 穏やかな声がそう言いながら、窓の外を見た。

 人より優れた聴覚が、少し離れた住居から漏れ聞こえる声を聞き取った。


『今日の誤りは明日には真実を──この大地に祈ります──明日も、この先も──』


 祈りの言葉が町全体に広がっていく。もう何も信じまいと、縋るものを見つけずにいた彼らの前でフラン・シュラを消した少年の存在が、再び信仰心に火をつけた。世界の意思を目覚めさせる呪文は、何度となく唱えられる。


 不意に、生まれ始めていた黒い霧が、霧散した。空気がすっと、軽くなった。淀みが晴れ、気持ちが楽になる。ああ、これは……。


 握り拳に力が入る。そんなユラを認識すらできない彼らの中心で、シャルフがどこか遠くを見つめながら口を開いた。


「……そうかもな」


 やっぱり! とカインがパッと明るくなった。そうなのか……! と、ディオルが身を乗り出し、ロレイヤは指を組んでアオバに祈りを捧げだす。希望を見出した人々の言葉が、こんなにも愚かしく思えるなんて。


「祈りだけでは目覚めまい。供物だけでも目覚めまい。どちらも揃う事がもう無いはずの世界で、今日、どちらも揃った。君が守りたい、青葉自身の手によって──ああ、君が守りたいのは、君自身だったかな?」


 穏やかな声が、視界の端でゆらりと消える。


 ユラは、誰にも聞こえやしない舌打ちをした。

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