◇ 03

 その後、ロレイヤが持ってきてくれた食事を取り、カインが戻って来るのを待っている間にまた寝てしまったようで、気づくとベッドに横たわっていた。窓から差し込む光が急にぐるりと逆さまに動き出し、夕暮れの赤い空が、突然朝焼けに変わる。ビー玉を弾いたように太陽があらぬ方向に飛んでいくのはさすがに予想外で、思わず呆然として窓を見つめた。


(朝はどうやって来るんだろって思ってたけど、こういう感じか……)


 明らかに昨日とは違う方角から昇って来る太陽を見ていると、この世界の宇宙がどうなっているのか非常に気になったが、また精霊がどうとか言われて、考えるだけ無駄な気もする。


 軋む体を起こすと、同じようにベッドの隅に転がっていたペルルも体を起こし、こちらを見た。


「あ、ごめん。起こしちゃった?」


 朝の静けさのせいか、普段通りの声量で話すのは気が引けて、小声でそう声をかけると、ペルルは不思議そうに首を傾げた。眠そうな表情でもなく、いつもと変わらない無表情で青葉を見つめている。


「……もしかして、寝てない?」

「?」


 まさかね、と思いながら部屋を見渡す。ユラの姿がない。


 そうっとベッドから降り、居間の方へと移動する。どこかの部屋からいびきが聞こえてくる。ディオルたちの眠りを妨げないように気を使ってみても、足音を完全に消すことは出来ず、なんだか悪いことをしている気分になりながらゆっくりと移動する。窓から外を覗くと、木々の間にユラが立っているのが見えた。


 ユラが偶然こちらを向いたので、小さく手を振る。それに気づいたらしく、ユラはしっかりと目線を合わせると、「ちょっと来い」と言わんばかりに手招きをした。


 急いで玄関に行こうと振り返ると、いつもより二、三歩離れたところにペルルが立っていた。いつものように手を差し出すが、近づいてくる気配がない。


「どうしたの?」


 距離を詰めてみると、こちらを窺うようにじっと見ていたかと思えば、俯いてみたり、また上目遣いでこちらを見たり、という不自然な動きをした。


「……昨日怒ったから、気まずい?」

「……」

「もう怒ってないよ」


 ぱっと、ペルルが顔を上げた。もう随分と、この世界の言葉に慣れて来たらしい。意思疎通が出来て嬉しく思いながらもう一度手を差し出すと、ペルルはこれまでと同じように手を取り、ぐいぐいと青葉の手を引っ張った。


「あおば」

「うん?」


 玄関に移動し、扉を開けていると隣から舌足らずな声がする。視線をそちらにやると、ペルルがじっとこちらを見上げていた。


「ごめんなさい」

「昨日の事?」


 こくりとペルルが頷く。


「ゆらが、あおばおきたら、ごめんなさいしろって」

「そっか。偉いね、ペルル」

「……ぎゅう、は」

「はいはい」


 どうやら、抱きしめられる事が、褒められているという事だと認識してしまっているらしい。もう少し周囲とのコミュニケーションが取れるようになってきたら、そういう意味ではない事を説明しよう。おそらく理解出来るはずだ。


 催促されるがまま一度抱きしめて、頭を撫でる。この細い体の中に、どれだけの数の人間が溶け合わさっているのだろうか。彼女の行動のどれだけが、溶けた人間たちの意思に反映した結果なのだろうか。


 心音も脈もあるのに、体温と呼べる温かさの無いペルルから体を離し、敵意など無いのだと証明せんばかりに、目を合わせてほほ笑む。


「ペルルは良い子だね。じゃあ、このお話は、ここまでにしよう」

「うん」


 白い頭が、満足気に揺れた。


 扉を開けると、ユラが待っていた。銀煤色の髪を風で揺らしながら山の方を見ていた彼女は、少し軋んだ扉の開閉音に気づき、こちらに向き直る。


「おはよう。今日は逆に早すぎるな」

「確かに……安定しませんね」


 寝過ごす事の方が多い気もする。とはいえ、異世界に来てまだ四日だ。その内体内時計も直ってくるだろう。


「ペルルはちゃんと謝ったか?」

「あやまーた」

「偉いぞ。次からは自発的にするように」


 ユラがペルルの頭を撫でるが、すり抜けてしまう。やや残念そうな表情になったユラを気にも留めず、ペルルは頭をぷるぷると振った。撫でられているつもりなのかもしれない。


「ユラさんは外で何を?」

「外の空気が吸いたくなっただけだ」


 そう言って、彼女は再び山の方を見ると、難しい表情のまま口を開いた。


「アオバ。もう一度、あの洞窟を見に行かないか」

「いいですよ。何か気になる事があるんですか?」


 二つ返事で応えると、ユラが何とも言えない表情で歩き出す。それを追いかけながら、ユラの返事を待つ。


「多分、だけど。オーディールが出てきているはずだ」

「え、本当ですかっ」

「眠る前の祈りが何を意味するのか、という話をしたのを覚えているか?」


 またオーディール信仰が復活するのかな、と呑気に考えていると、不意にユラがそう質問を投げた。確か、初日にそんな会話をした覚えがある。


「はい。呪文みたいな意味合いが強いって、話でしたよね」

「ああ。あれは、オーディールの存在証明を強化する為の呪文だ。一昨日、貴方がフラン・シュラを消して回った日、町の住民たちがほぼ一斉にその祈りを唱えた。結果、“黒い霧”が消えた」

「ええと……」


 黒い霧。聞いた覚えがあるが、どこだったか。少し悩んで、すぐにカインの家で本を読ませてもらった時、ユラが読み上げてくれたのを思い出す。それから、シャルフに教えてもらった『死者の名を呼ぶと、黒い霧が生まれる』という言葉も思い出し、「ああ」と納得して声を漏らした。


「オーディールはその黒い霧を晴らすとかなんとかって、言ってましたね。でも、霧なんてかかってましたか?」

「一般的には知覚し辛いだろうな。黒い霧がいる階層と、貴方たちが見ている階層が違うから……いわゆる、霊感がある、という人に認識できる。おそらく、この世界の聖職者はそれらが見えるはずだ。それと、黒い霧と何らかの形で接触した経験のある者も、僅かだが感知できる、と思う。この世界の人間は、日常的に精霊や黒い霧といった目に見えない者と接触し続けているからか、その気配に敏感なんだろう」


 ユラの説明に、思わず「へぇ」と相槌を打つ。確かに、フラン・シュラが来たのを知らせた役人も、『精霊たちが逃げてくる気配があった』と言っていた。他所から来た青葉には分からないが、何か別の感覚が備わっているのかもしれない。


「ああ、なるほど。もしかして、僕がいた世界でいうところの、幽霊とか、怪奇現象を起こすような存在の事を、黒い霧と呼んでいる、とか?」

「そうだな」


 少しだけ理解できてきたかもしれない。オーディールは浮幽霊を追い払う、厄除けや魔除けのような存在だったのか。


 人目を避けて歩いている間にも洞窟の入り口が見えてくる。ユラが迷わず入っていくのを追いかけながら、ペルルの手を引いて歩く。


「オーディールは、精霊が苦手としている黒い霧を晴らす事が出来るが、人間たちの祈りがなければ存在する事が難しい……らしい。ここ十年は特に、信仰対象の不在によって、その祈りもほとんどされず、姿すら現せない状況だった。それが、一昨日の貴方の行動によって変わった」

「僕の行動が……?」

「少なくとも、この町の人間は貴方を御使いだと認識した。御使いがいる以上、神もどこかに存在する。人々は再び祈った。それと……アオバ、一つ確認するが」


 言いながら、ユラは青葉の頬を指さした。布を当てたそこには、一昨日洞窟に入った時に、擦ってしまった傷がある。


「この傷を作った時に、血を洞窟内に溢したか?」

「えっと……た、多分」

「ならば、それが供物になったと考えられる」

「供物?」

「信仰の際には大体あるものだ。オーディールには生き物の体液をよく捧げていたそうだ」


 それはつまり……家畜を生きたまま捧げものにしたり、とか、そういうことだろうか。ちょっと物騒だなぁ、と怪訝な顔をしたのを見て、ユラが不思議そうな顔をする。


「それって、人身御供とかですか……?」

「いや、窓辺に牛乳を置いて、妖精除けにするとか、そういう話だ」

「……あ、そっか。体液ってことは、血じゃなくてもいいんですね」


 物騒なのは自分の思考の方だった。誤魔化すように首をかくそう言われてみれば、ミルクやお粥といったものを妖精にあげることで、円満な関係を築くような話を、父の書斎で見た事がある。


「祈りと供物の両方が揃った事で、オーディールは……目を覚ました」

「良い事ですね」

「……そうだな」


 喜ばしい事のはずなのに、ユラの歯切れが悪い。何かおかしな事を言っているだろうかと顔色を伺うが、目を伏せたユラからは、上手く表情を読み取れなかった。


 青く光る苔も見慣れて、水たまりをいくつか越えると、あの広い空間にたどり着く。シャルフと訪れた時と変わらないそこに、紅色の花の蕾のようなものがいくつか落ちていた。


「こんなのありましたっけ……?」


 近くでしゃがんで、よく観察しようとしたその時、それは蕾に生えた細い足で立ち上がると、ふらふらと


「わっ」


 思わず尻餅をついてしまった青葉の隣で、ユラが腕を組んだまま動き回る蕾を見下ろす。

 紅色の蕾には小さなビーズのような丸いものが、帽子の鍔のように、蕾をぐるりと囲んでいる。そんな帽子の大きさに合わない細すぎる緑の体では支えきれないのか、体とほぼ直角に帽子が正面を向いている。


 その姿はまるで、大きな帽子を被り、俯いて歩く小人のよう。


「……見覚え無いか? 教会の窓に描かれてた……」

「ああ! あの花の蕾みたいな帽子を被った小人って、オーディールだったんですね」


 はっきりと覚えているわけではないが、ステンドグラスに俯いて歩く小人が描かれていた気がする。教会の窓に描かれている以上、聖書や神話と関係するものだろうとは考えていたが、それがオーディールだったとは。


「それ、蕾みたいに見える部分が口だ」

「えっ」

「帽子の縁にある丸いのが目。腕みたいに見える二本の触手が鼻だ」


 ユラに言われる度に、ついつい顔を近づけて観察する。ほとんど這いつくばるようにしてじっと見ていると、オーディールが短い手で青葉の鼻先を恐る恐る触ってきた。微振動しながら、他のオーディールたちも青葉に集まって来る。


「あ、アオバ……失礼のないようにな……?」

「へ? はい」


 何故か怯えた様子で言うユラを不思議に思いながら、一番近くにいた一体を、手の平に乗せてみる。横から覗き込んでいたペルルが触ろうとしたので、「優しくね」と声をかけると、ペルルは一度止まり、それから指先をそうっと近づけてつついた。オーディールはされるがままだ。


「なんか……弱ってるように見えますね」

「まだ全快じゃないんだろう」

「お祈りの力が足りないのかな……」


 とはいえ、あれは寝る前にやるのが普通のようだし、町の人たちに朝からお祈りしてくださいというのも言いにくい。


「もう少し血をあげれば、もうちょっと元気になるかもですね。ユラさん」


 オーディールを地面に下ろし、手の平をユラに向ける。


「指先を少しだけ、斬ってくれませんか」

「……」

「ダメですか」

「……いや。うん、そうだな。恩を売っておくといのも、悪くないかもしれん……」


 何かぼそぼそと口の中で呟いて、ユラが薙刀の刃先を青葉に向けた。大きな薙刀で指先の皮膚だけを斬るのは難しいのか、刃先が震えているのが見えたので、柄を片手で支え、自主的に指先を刃の上で滑らせた。


 ぷつっ、と微かな音がして、皮膚に切れ目が入り、血が滲み出す。後からじわりと切り傷が熱を持って痛みだすが、耐え切れない程ではない。指を伝って地面に血が落ちると、オーディールたちはそれに群がりだした。


 数滴の血で足りるだろうか。もう少し切って貰おうかと青葉がユラを見たのとほぼ同時に、ユラがすぐ傍で片膝をついた。


「……痛くはないか」

「え? はい。大丈夫です」


 滴る血ごと指に触れようとした彼女の手をすり抜け、ぽたぽたと血が地面に落ちていく。何故か泣きそうな顔をする彼女を見て、思わず言葉を紡ぐ。


「大丈夫ですよ。すぐ止まります」


 笑顔を見せて、なんてことはないとアピールする。


 もう一度切って欲しいとは、言えなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る