◇ 03

 ほどなくして、カインたちが戻ってきた。


 薄い布団にくるまれたフロワを抱えるカインに、メアから預かったバスケットを見せた。


「これ、宿屋から……」

「ああ……そっか、それで家に来てたんだ。ありがと」

「持つよ」

「いや、悪いよ。アオバも疲れてんだろ」


 フロワを片腕で抱え直し、空いたほうの手を差し出され、渋々バスケットを渡した。何もできない。余計な気を使わせてしまう。


「アオバ。今日はありがと。多分、俺一人だったら、診せに来れなかった」

「……」


 沈黙が流れ、困ったようにカインが笑い、「じゃあ」と会話を切り上げて彼らは去っていった。


 残された青葉は、隣で去り行くカインを見送っていた医師に向き合う。


「あの、夜分にすみませんでした」

「ん? ああ。いい、いい。こういう仕事だ。朝だろうが夜中だろうが、呼び出される事ぐらいある」


 片手を軽く振り、「平気」と言いたげに彼は言った。それから目を伏せ、「他人の君だから言うがね」と切り出した。


「精霊の呪いに打ち勝つ薬というのは、実はある」

「え……ほ、本当ですか!?」

「ああ。あることには、ある。他の職種と同じように、精霊に好かれた薬師が作った物は、普通の人間では到達できない効能を持つ。あの裁縫術師のガーネットが作る服のようにね」


 ガーネットは、確かシャルフが言っていたファッションデザイナーのような人だったか。その人物はただ人気なだけではなかったらしい。


「薬師にも精霊に好かれた者はいるが……中でも、ユースリニッタ薬堂の女主人は別格だ。あれはもう、精霊に好かれているとか相性が良いなんてものじゃない。聖騎士に匹敵する加護を、与えられていると言っても過言ではあるまい」

「その人が作る薬は、精霊の呪いを解けるんですか?」

「ああ。その代わり、高価だ」


 一瞬見えた希望が、再び陰った。何故この医師が、その話をカインにしなかったのかを瞬時に理解する。彼らの家に、高級な薬を手に入れられる金は無いのだ。


「作っているのは、そのユースリニッタ薬堂の女主人ただ一人。素材はどれも希少な物ばかりな上、時間もかかる。大金を積める金持ちだけが手に入れられる、幻の薬だ」


 間が開き、医師は院内に視線をやった。


「それが、ほんの少量だが、うちにある」

「……え」

「研究用にな。ああ、いや……あの量では、今のフロワには足りん。倍以上の量が必要だ。それに、こっちだって、無償で提供はできん」


 伝手を頼り、それなりに高額な費用を使い、ようやく手に入れたものだ……。と、小声で医師は付け足した。焼石に水かもしれないが、無いよりはマシかもしれない。


「い、いくら、ですか?」

「……君が払うつもりか?」


 他人に何故そこまで? 訝し気な表情にたじろぐ青葉をじろじろと見つめながら、医師は指を三本立てた状態で青葉に見せた。


「三万ヘビン」

「三万……」

「これでも安くしているほうだ。手に入れた時は、五万以上かかった」


 三万なんて、今の青葉ではどう稼げばいいか……。分割払いにしてもらうにしても、稼ぐ手段が今は無い。それに、ユラとの約束だってある。どこか一か所に留まるわけにもいかない。他にないか。何か、他に。


──もぉっと欲しいなら、フラン・シュラの討伐ぐらいしないとですね~。確か八万ヘビンでしたか。


 必死に思考し、記憶を探る動きがピタリと止まった。教会のフラン・シュラ討伐の報奨金があれば、その幻の薬が手に入る。残りの金額も、この医師への研究費用として渡せる。


「あ、あの! その薬、譲ってもらえませんか?」

「金は? 用意できるのか?」

「ちょっとだけ、待ってください。ええと……あ、明日! 明日までに、用意できなかったら、諦めますから!」

「君、それはちょっと急過ぎる──」


 彼が言い終わる前に、ペルルの手を取って走り出す。後ろで医師が大きい溜息を吐いたのを聞きながらも、気にせず役所の方面に向かった。


***


 カインは部屋に差し込む赤い日差しを避けるように、ボロ布で窓を覆った。それでも透けて通り抜ける強い光が、布団の上で寝転がるフロワにかかる。夕日が皮膚に滲みて痛いと、フロワが訴えたのは二年前。窓辺にあった寝台を移動させたが、精霊の気分によって日の差し方は変わる為、あまり意味は無かった。


 日差しは諦めて、台所の横に置いていた水瓶から桶に水を汲み、なるべく綺麗な布を選んで淵に引っ掛け、部屋に運び、古い寝台の横に置き、椅子を引いて近くに座る。


 ──もう長くはないよ。明日か、明後日か……それとも、今日にでも……フロワはもう、持たない。


 医師の言葉が、今になってカインの頭の中で繰り返された。


 いつか宣告されるだろうとは思っていた。薬を買いに行く度に、フロワを医師に診せる度に、覚悟してきたことだ。それでも薬を使っている間は「まだ大丈夫だろう」と思っていた。


 ひと月前に薬が買えなくなった。理由は簡単だ。出稼ぎをしている両親からの仕送りが止まったのだ。


 フロワの容態は素人でも見て分かる程あっという間に弱っていった。激しい痛みに何度も失神しながら肉が溶けるようになり、ああこれはいよいよだと、そう思った瞬間、余命宣告されるのが途端に恐ろしくなった。両親がいない間に、妹が死ぬのが怖かった。今、全ての責任がカインにある。精霊に嫌われて墓守の仕事ができなくなったら、カインの責任だ。次に大雨でも降ったら崩れそうな家が壊れたら、これもカインの責任だ。今、妹が死んだら、それも……。


 弱冠十四歳の少年には、それらは重た過ぎた。いくら背ばかり伸びようとも、大人に間違われようとも、カインはまだ子供で、今にもその重圧で倒れそうなのを、気力だけで耐えていた。


 布を桶の水に浸し、絞る。力加減を間違えないように、そっとフロワの体を拭き始める。


 今日にでも死ぬかもしれない妹を、少しでも生き永らえさせるために、フロワの体を清潔に保とうとする。体を拭かなかった事が原因で死期が早まったら、カインの責任になってしまう。


「……痛くない?」

「うん……」


 いつものやり取りをして、小さな足を手に取り、拭く。地面をほとんど歩いた事のない、薄い皮に包まれた細い骨で出来た足だ。その指先は、壊死しかかっていた。


 もう随分前に、左足の中指の爪の隙間に傷があるのを見つけた。でも、。時間の経過と共に広がり、青くなり、次第に黒くなっていくフロワの足の指を見て、罪悪感と共にこうも思ったのだ。


 切除しようとしたら、いくらかかるのだろう。


 もはや薬を使って治そうとは思わなかった。定期的に帰って来るはずの両親は戻らず、仕送りも止まった事で、今のカインに精神的な余裕は無いに等しい。自分の食い扶持すらも怪しい現状では、もうこれ以上ないお金が更にかかることを自然と気にかけてしまった。


 最初からそうだったわけではない。妹が生まれて、カインが墓守として認められたその年に呪われて、家族皆で一丸となって彼女を守ってきた。蔑ろにしてきたわけじゃない。誰よりも大事にしてきた。生きて欲しいと思った。そのために働いた。労働の対価のほとんどは薬代に消えて、やりたいことは何もできず、毎日毎日同じことの繰り返し。


 これはいつまで続くのだろう?


 アオバが──御使い様が目の前に現れた時、助かると思った。この生活から抜け出せる、もう妹の病気を気にしなくていい。フラン・シュラを消せる御使い様だ、きっとどうにかしてくれる。


 だが、実際はどうにもならなかった。当然だ。人の命よりも金を気にする男を、誰が助けてくれるというのか。


 血反吐と死の臭いがする部屋の中で、ぼんやりと考える。何もかも順調だったのだ。両親がいて、妹が生まれて、家の跡継ぎとして精霊に認められて……。


 それに水を差したのは誰だ? 理由は何だった? 一番悪いのは誰だ?


(……俺、か)


 もう何度も行きついた答えだ。妹が悪いのではない。精霊が悪いのでもない。カインの責任だ。それでも両親も、妹も、カインを責めなかった。一緒に頑張ろうと言ってくれた。カインだけが身勝手に、その責任を投げ捨ててどこかに行方を眩ますような事はできない。


 やれることはもうほとんどした。頑張って稼いだ。時には食事を抜いた。欲しい物は見ないフリをした。神様にお祈りだってし続けてきた。だが、結果はどうだ。


「……神様って、いねーのかな……」


 八百年間信仰されてきた神様は、人食いの怪物だった。英雄に打倒され、今度は人を溶かすフラン・シュラという怪物が現れた。多くの人々はこれを『神の試練』だと信じ、三年は戦い、人口は減り続け──ついに神様はいなくなったのだと、諦めた。


 それでもカインは信じていた。それ以外に、どうしようもなかった。縋れる何かが、もう他になかった。だけど、信じたところで、何も変わらなかった。事態は悪くなる一方で、今まで明確に『在る』と信じていたものが不確かになっていく。


「なんで、助けてくれねーんだろ……」


 見返りを求めた時点で、救われる資格は無いのかもしれない。寝台の上で、フロワが少し身じろぎをした。


「いる、よ……ちゃん、と」


 ぽつりとフロワが返事をした。顔を上げれば、赤い日差しに染まった妹が、部屋の天井を見つめている。


「だって、ほら……みつかい、さま……来て、くれた……」

「……アオバは、そんなんじゃないって、言ってた」

「そんな、はず……なぃ、わ……精霊、が……彼には、近づか……ない……そんな、事……普通の、人には、無い……」


 確かに、アオバの周囲には精霊の気配が無かった。遠巻きに見ているような、怯えているような状態だった。彼が着ている衣服も(精霊が作った布で出来ている以上、何らかの加護があるはずなのに)、精霊の加護が全く感じられなかった。精霊の手を借りず布を作れるわけじゃあるまいし、不思議な少年であるのは確かだ。でも、助けてくれないのであれば、意味が無い。


「私、ね……」


 掠れた声で、フロワは言う。体を拭く手は完全に止まり、静かな室内に、ひゅうひゅうと、喉を絞めたようなフロワの呼吸音が響く。


 フロワが言葉を選んでいる。どれが正しいかを迷っている。願わくば、自分を解放して欲しいと、思ってしまった。


 カインが小さな足から手を離す。支えを失った足の先から、水が滴るように、皮が垂れたのを皮切りに、フロワが決心したように口を開いた。


「私、は……神様に……見捨て、られた……の、ね」


 心臓の音で体が揺れてしまいそうなほど、酷い動悸がする。


「おにぃ、ちゃ……も、ぉ……いい、よ」


 フロワの顔が見られない。黒ずみ、腐り落ちていく最中の小さな足の指だけを見つめる。今、カインが捨てたもの。解放されるにはそうするしかなかったのもの。その思考は悪ではないと言わんばかりに、フロワは言葉を重ねた。


 扉越しに聞こえた、生きたくはないのか、というアオバの質問にフロワは今、目の前にいる兄に気を使って回答する。


「私……──もう、生きたくない」


 その答えを聞いた瞬間、


「……そっか」


 不謹慎にも、安堵した。


***

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