◇ 05
その音は、緊張緩和どころか、心臓に悪い。慌てて体を仰け反らせて、音叉を掴んだ。高い音はゆっくりとその音を小さくしていく。
ぐちゃり、とペルルが溶けた。
「ペル……っ」
音叉に触れた手から次々に泥へと変換され、彼女の体は地面に叩きつけられた。真っ白な長い髪がゆっくりと地面に広がり落ち、それと同時にペルルの体は完全に泥に戻った。
「ペルルッ、どうして……!」
手の平がただれるのも構わず、ペルルだった泥をかき集める。皮膚に泥が触れる度にジュッ、と音を立てた。
「アオバ!? 何をしている!」
「ま、まだ、まだなんです! まだ、約束を守れてない! 君たちを、元に戻さないと、そうじゃないと……!」
ユラが青葉を止めようとするが、彼女の手は当たり前のように青葉の肩をすり抜けた。舌を打ち、ユラは薙刀の持ち手部分で青葉を押し退けた。手がペルルから離れ、冷えた空気がただれた手の平に触れ、滲むような痛みが広がった。
「何をそう固執する必要がある! あんな約束、貴方が一方的にしただけのものだろう! 何をそんな……」
目の前に立つユラの事など目もくれず、青葉はペルルだった泥に手を伸ばすが、ユラの薙刀が邪魔で触れることもままならない。
いつかの記憶が過る。真っ白な帽子が空を舞い、幼い青葉はそれに手を伸ばす。風に煽られたそれに触れることすら叶わず、そして──。
そして?
「アオバ……? 貴方は何に怯えているの?」
「おび、え……て……?」
その言葉の意味が分からず、オウム返しをした。
何も知らない。何も覚えてはいない。忘れないといけない。記憶の端に追いやって、見ないようにしなくてはいけない。そうでなければ……。
ごぽりと、ペルルだった泥から気泡が浮き出た。
「! ぺ、ペルル」
「待て。アオバ、一旦落ち着きなさい」
「でも、ペルルが」
「──アオバ」
ユラが屈み、一瞬躊躇い、決心して、言い聞かせるようにゆっくりと言う。
「何があっても、私が守ってやる。だから、落ち着いて。ゆっくりと息をしなさい」
ようやく、ユラと視線を合わせた。ツリ目気味の灰色の目に、狼狽した自身の顔が映っていた。それを見つめている内に、次第に視線はユラへと定まり、浅い呼吸が落ち着いて行く。まだ耳元で聞こえる自身の心音を落ち着けようと、胸を押さえた。
「すみませ……っ」
「いい。そのまま、深呼吸でもしてて」
ユラはちらりと視線をペルルにやり、距離を保ったまま観察する。泥は時々気泡を上げ、混ざり、形を作ってみたかと思えばまた溶け落ちる。こちらに襲い掛かって来るわけでもなく、ただその身を混ぜ合わせていた。
「……何かを探しているのか?」
「え……」
何を? ユラの武器を軽く押し退け、ペルルに近づく。フラン・シュラに戻った彼女が襲ってくる様子はなく、ただぐるぐると渦を巻くような動きを続けている。
「まさか、あの人形を、探してくれているの?」
声をかける。反応は無い。諦めず、青葉は泥に手をついた。皮膚がじりじりと溶ける感触をしたが、構わなかった。
「お、おい、アオバ」
「手伝います。探す人数は、多い方がいいですから」
もし、探しているなら、頼んだ自分が手伝わないのは不義理だ。
必死になってあの人形を思い出す。白磁で、頬が子供らしい丸さの少女だった。服は確かペルルが着ていたものに似ていて、砂ぼこりや手垢で少し汚れていた。前髪はまっすぐに切りそろえられていて、大きさは手の平ぐらいで……。
泥からぼこりと気泡が弾けた。ペルルも探してくれているのが分かる。
ふいに指に硬い物が当たった。自然と目はそれを探し、黒く汚れた布にくるまれた、指先程の小さな白磁の手を捉える。
「あった……」
摘まみ上げようとすると、周辺の泥がまとわりついてくる。奪われたくないと言いたげに、しがみついているようにも見えた。
(そういえば、ペルルにとってはこの人形って体の一部なんだよな……)
『ペルル』を構成する命は数百、もしかしたら数千を超えるかもしれない。その全員が、内臓を取り出されるようなこの行為に、賛成しているとは限らない。
「ね、ペルル。このお人形をさっきの夫婦に返してあげたいんだ。ダメかな」
泥の動きがぴたりと止まった。考えている最中だろうか、まだ人形を手放す様子は無い。しばらくして、ゆっくりと泥が動き出し、人形から離れていく。それを了承と受け取り、人差し指と親指でそうっとつまみ、引っ張った。
(溶けた部分も、取り出せないかな……確か形は……)
目を閉じて、想像した。泥の中から人形の部品をかき集め、元の形になるよう直していく。沼に沈んだ人形を引き上げる姿を瞼の裏に描き、胸のあたりが光るのを感じながら、ゆっくりと引きずり出していく。
「……」
まとわりつく粘液の重みが無くなって、目を開けた。
少し欠けた人形が、まさに昨日見た形そのままの姿で、取り出されていた。
「取れた……! ペルル、ありがとう! ユラさん、見て、ほら!」
「……ああ」
やや間があって、ユラが頷いた。眉根を寄せたまま、彼女は泥を見る。泥はぐるぐると混ざり始め、何か形を作ろうと部分的に泥が持ち上がるが、うまくいかずに地面に落ちてしまう。
人形を元に形を得ていた彼らから人形を取ったのは良くなかっただろうか。大事なものを一つ取り上げたのだから、代わりに何かを与えるべきだろうか。
「ペルル。この人形の代わりに、欲しいものはある?」
声をかけた途端、気泡が弾ける寸前で止まり、無数の泡が一斉に人形の方を見た。まるで『これがいい』と言いたげだ。
「あー……その、他のにしてくれると、嬉しい」
不満そうに、泡が弾ける。それから泥の中心当たりがごぼりと大きく開き、
「あ……ぉば……」
声を、発した。
「……喋った……?」
「……喋ったな」
ユラと顔を見合わせる。尚も、くぐもった声でペルルは青葉を呼んでいた。
「す……すごいよ、ペルル! 喋れるようになったんだ!」
「ああ、うん。貴方は引くどころかそういう反応するだろうな、と少し考えていた」
「はい?」
「……なんでもない」
感激する青葉に、呆れたような顔でため息をつくユラの事は置いておき、青葉は地面に手をついてペルルの声に耳を傾ける。
「ペルル、なに? 他に欲しい物決まった?」
「つ、く……」
「つく?」
「つ、て……つく、て。ぺるる、つくって」
「……ペルルを作る……?」
「貴方の能力で形を作ってほしい、ということじゃないか?」
どういうこと? と首をひねる青葉に、ユラが口を挟む。ようやく意味を理解し、頷いた。
「なるほど……確かに能力で形を整える事がはできるかもですね。ペルル、やってみるよ」
泥の表面に触れ、声をかける。それから何もかもが真っ白な、真珠色の目を持つ少女を想像する。泥を掬い取り、これが手だと言い聞かせる。掬った手から地面に垂れているのが腕。なら、地面に広がっているこれは体だ。位置関係から他の部位を想像していく。ここが頭で、体と繋ぐここが首、足はこっち。余った泥は髪にしよう。
青葉が想像するたびに、泥は想像通りの人の形を得ていき、やがて白いワンピースに身を包んだ真っ白な少女が、長い睫毛に縁取られた真珠色の目をぱちくりと瞬かせた。
「ペルル」
名前に反応して彼女は青葉を見た。それから「何?」と言いたげに首を傾げる姿を見て、ペルルが返ってきたことを実感し、思わず抱きしめた。
「おかえりなさい。ありがとう、お願い聞いてくれて。それと、無茶な事言ってごめんね」
「……なあ、アオバ」
あと何か言い忘れていないかと考えていると、ユラが薙刀の柄で肩を軽くつついた。やや不安そうに、彼女は口を開く。
「音叉、当たってないか?」
「あっ」
言われて慌てて体を離すが、ペルルに変わった様子は無かった。キョトンとした顔で青葉を見つめ返す彼女にほっとして、頭を撫でた。
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